第三章 あんたの背中を見ていたいのよ

 翌日、俺の目覚めは最悪だった。

 久々に筋トレを行ったせいだろう。

 全身が筋肉痛だったのだ。


 筋肉痛は筋肉が成長している証拠だとか、筋肉痛に快感を感じてこそ真のトレーニーだとか、そんなのはすべてまやかしである。

 筋肉痛と筋肉の成長に直接の因果関係はないというのが昨今の定説であるし、あまりに酷い筋肉痛はその後のトレーニングのパフォーマンスに悪影響を与える。

 百害あって一利なしなのだ。


 もし回復法術が筋肉痛に効くのであれば、今すぐにでもかけてもらいたい。

 しかし、そんな仲間はもう俺のもとにはいないのだった。


 痛みと悲しみを背負いながら、俺は宿をあとにした。

 

 向かう先は決まっている。馬車乗り場だ。

 この街に長居する理由はもはや俺にはなかった。

 むしろ、速やかに新たなる居住地へと向かう必要がある。


 筋トレを再開すると決めた俺がまず最初に懸案したのは、どうやってトレーニングを行うかではない。

 どうやって高品質な栄養を安定的に摂取し続けるかである。


 もちろん、より筋肉を大きく肥大させるために、ゆくゆくはトレーニングの手法についてもしっかり考えていく必要はある。

 だが、まずは食事だ。

 身体は食事によって作られる。

 いわば土台のようなものだ。

 これを疎かにして筋肥大を語ることはできない。


 このノースワーパウスは魔王の領土に最も近い城塞都市であり、魔王討伐を志す勇者候補が日夜出入りすることで経済的に潤ってはいる。

 ただ、周辺の魔物も強力であるため、物資の搬入は隊商によって月に何度かまとめて行われるのが常だ。


 つまり、この地に搬入される食料は保存食ばかりなのだ。

 良質なタンパク源として活用できる食材は干し肉くらいのものだが、量を食べるには不向きだし、そもそもこの地では干し肉そのものが高価である。


 他に有効なタンパク源としては豆類が挙げられるが、何か特別な理由でもないかぎり、植物性タンパク質だけで筋肥大に必要なだけの量を摂取することは効率的とは言えない。

 つまり、筋肉のためにもっと手軽で効率よく良質な栄養源を摂取するためには、まず居住地の選定からはじめなければならないのだ。


 そこで、俺は大陸西部にあるゴールジ村を拠点にすることにした。

 ゴールジ村は俺が転生した直後に一ヶ月ほど世話になった村で、養鶏、牧畜が盛んなだけでなく、近くの海岸では良質な魚介類が獲れることでも有名だった。

 また、ノティラスという大きな街も歩いて通える距離にあるので、普通に生活する分にもきっと便利なはずだ。


 もちろん、ノースワーパウスからゴールジ村まではかなり距離がある。

 長旅になることは間違いないだろう。

 だが、それでもこの地で筋トレを続けるよりは、はるかに効率よく肉体を成長させることができるはずだという確信があった。


 俺は道すがら買えるだけの干し肉を買い込みながら、馬車乗り場へと向かった。


「やっと来たわね。待ってたわよ、キョウスケ」


 何故か、馬車乗り場にはラシェルがいた。


 臙脂色のチュニックの上に精霊銀の軽鎧を身に着け、腰にはウーツ鋼の短剣、背中にはオレイカルコスの弓と矢筒を背負っている。

 いつでも冒険に出れるといった装いだが、他のパーティメンバーの姿は見えない。

 単に挨拶に来ただけということはなさそうだ。


「どうしてここに? アリオスたちと北へ向かったのではなかったのか?」

「あたしもパーティを抜けてきたの」


 なんだって!?


「……アリオスめ、俺だけならいざ知らず、ラシェルまで追放したというのか!」

「いや、抜けたって言ったでしょ。自分で抜けたのよ。ちゃんと聞いて」


 ああ、そういうことか。


「……なんだって!?」


 今度は口に出してしまった。


「そんなに驚かないでよ。あいつらだってそこまでは驚かなかったわよ」


 ラシェルはふんっと鼻を鳴らしながら肩をすくめた。


 いや、驚きはするだろう。むしろ、何故、他のメンバーが驚かなかったのか疑問なくらいだ。


 勇者パーティと呼ばれるような魔王討伐を任命されたパーティは、冒険者においてある種の最高峰である。

 とくにアリオスを筆頭とするあのパーティほど名実ともに揃ったパーティは他に類を見ないと言っていいだろう。

 それを自ら脱退するなど、普通の冒険者の感覚では考えられないことだ。


「いったい何故だ? 君も魔王を討伐して名を上げるためにともに冒険をしていたはずではなかったのか?」

「そりゃ、まあ……最初はね。あたしはハーフエルフの半端者で子どものころから里では馬鹿にされてきたし、名を上げて見返してやりたいって気持ちはあったわ。でも、別にもう十分なくらい名声は得たし、今さら魔王討伐までしなくてもいいかなって」


 確かに、ラシェルは今や《精霊の射手》と呼ばれるほどにその名を世に知らしめている。

 トレードマークのポニーテールと臙脂色のチュニック、そして、オレイカルコスの弓を見れば、冒険者でなくとも《精霊の射手》と気づく者がいるほどだ。


「それに、やっぱり狩人って信頼できる盾役がいてこそ真価を発揮できると思うのよね。これから魔王討伐っていう大事なタイミングで、盾役と一から信頼関係を結びなおすなんてやってらんないわよ」

「だが、今度の戦士はかなりの実力者なのだろう?」


 確か、ギルドで顔を合わせた戦士は赤龍系のドラグナーではなかったか。

 種族的な意味でも間違いなく俺より戦士としての適性が高いはずだし、何よりすでに魔王の領土である北の大地、魔王領ステーロードでの戦闘経験があるという話だ。

 戦士として半端な実力しかない俺なんかよりもはるかに信頼できると思うのだが。


「アリオスはそう言ってるけど、あのドラグナーのいたパーティって、彼女を残して全滅してるんでしょ? それって狩人的にはめちゃくちゃ不安要素なのよね」


 ラシェルが腕組みをしながら眉をひそめた。


「普通、パーティが全滅するときって盾役がやられて崩壊するのが定番でしょ。なのに戦士の彼女が最後まで生き残ってるってことは、そもそも盾役はやらない戦闘タイプか、盾役として無能かのどっちかってことじゃない?」


 言われてみれば、確かにそうだ。


「それに……」


 ——と、急にもじもじと俯きながら、ラシェルが頬を赤らめる。


「こ、こんなことを言うと誤解されるかもだけど……あ、あたし、その、あんたのこと、盾役だからとかじゃなくて、そもそもヒトとしても信頼してるっていうか……ええと、あんたの背中を見てると力が出るっていうか……」


 しどろもどろになりながらも、胸許に手をあてて必死に言葉を紡ぎ出す。


「と、とにかく、あたし、これからもあんたの背中を見ていたいの! あ、あんたとずっと一緒にいたいのよ!」


 そう訴えるラシェルの目は、熱っぽく潤んでいるように見えた。

 それは、つまり……。


「君は、俺の広背筋に魅了されているということか……?」

「は?」


 それならそうと、もっと早く言ってくれれば良いものを――。


 いや、致し方ないこと。筋肉好きを公言するのは、やはり気恥ずかしさのようなものもあるだろう。

 ましてや女性であればなおさらだ。

 ラシェルがわざわざそれを公言してくれたのは、一大決心だったことだと思う。


 気づかなかった俺が悪いのだ。

 ラシェルはきっと、鍛え上げられた俺の広背筋を見て己を奮い立たせていたに違いない。

 鎧の上から広背筋が見えるかどうかは疑問も残るが、たぶんきっとそうだ。


「コウハイキン? 何言ってんの?」

「いや、いいんだ。君の気持ちはよくわかった。今まで気づけなかったことを逆に申し訳なく思う」

「えっ!? あ、いや、ごごご、誤解しないでよね! べ、べ、別にそういうつもりで言ったわけじゃ……」


 ラシェルの顔は、今や熟れたリンゴのように紅潮している。


 何を恥ずかしがることがあろう。

 俺がかつていた世界――とくに日本では、長らく筋肉の魅力というものが認知されていなかった。

 だが、それも過去の話だ。今は男女問わず筋トレブームが起こりつつある。

 この世界における筋肉の審美性というものが如何なものかは分からないが、広い背中に憧れるのは例えどのような世界にあっても共通事項のはずだ。


「恥ずかしがることはない。むしろ、俺はとても嬉しい」

「そ、そう? べ、別にそういうつもりじゃないけど、あんたが喜んでくれるなら、あ、あたし……」

「この世界にも、君のように筋肉に魅力を感じてくれる者がいたとは……」

「……ん? 筋肉?」


 一瞬、ラシェルが怪訝そうな顔をしたようにも見えるが、気のせいだろう。

 そんなことよりも、こんなにも身近に筋肉を愛する仲間がいたことをまずは神に感謝すべきだ。


 もちろん、彼女はトレーニーではないかもしれない。

 ただ単に筋肉の美しさに心魅かれているだけなのかもしれない。

 だが、それでも構わない。

 筋肉への愛の形は様々だ。己を鍛える者。他者を鍛え導く者。筋肉の強さを求める者、美しさを求める者――。

 

 気づけば俺は、ラシェルの手を強く握りしめていた。

 まさに感極まっていた。


「君が望むのであれば、俺はより高みを目指していくことを誓おう! 大きく美しい広背筋を育て上げ、君を魅了し続けることを約束しよう!」

「……いや、ちょっと待って。何かおかしい」


 ラシェルに手を振りほどかれた。

 そして、何故か分からないが、めちゃくちゃ怒気をはらんだ声で訊かれる。


「あたしは、あんたと旅がしたい。ずっと一緒にいたいって言ったの。それは分かる?」

「もちろんだ」

「じゃあ、何であたしがそう言ったか、その理由を説明してみなさい。あたしの気持ちが分かったのなら、ちゃんと答えられるはずよね?」

「当たり前だろう」


 俺は胸を張って頷いた。


「俺の広背筋がこれからどれだけ雄々しく美しく育っていくかを見とどけたいから、一緒に行きたいというのだろう?」


「ちっがーう!」


 ラシェルは激怒した。ついでにわりと本気で殴られた。


「つーか、コウハイキンって何よ!? そもそもこっちがどれだけ恥ずかしい思いを我慢して言ったか分かってんの!? ちょっとそこに座りなさい!」


 俺はその場に正座させられた。


 そして、ラシェルがどうして勇者パーティを抜けて俺と一緒に行きたいと思うに至ったかを、かなりヒステリックに説明された。


 いわく、俺の筋肉などはどうでも良くて、とにかく俺と離れたくないから一緒に行きたいとのことだった。


 もしや、愛の告白だったのだろうか……?


 しかし、俺の胸ぐらを掴みながら修羅の如き剣幕で怒鳴り散らす彼女を見るかぎり、どう考えてもそんな雰囲気ではなかった。

 それに、下手に口を挟もうものならまた殴られそうだったので、俺はひたすら座して俯いたまま「はい」とか「申し訳ありませんでした」とか言っていた。


 ラシェルの説教はそれから十五分くらい続いた。

 大陸西部に向かう馬車の出発時刻がもう少し遅ければ、その分だけ延長戦があったかもしれない。


 ともあれ、そんなこんなで俺はラシェルとともに大陸西部にあるゴールジ村に向かうことになったのであった。


     ◇ ◆ ◇ ◆ ◇


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