五 説明四 和磨の母

  暮れ六ツ半(午後七時)。

 夕餉がすむと和磨はしばらくお加代と話してふたりに礼をいい、加賀屋の主の喜助に挨拶して加賀屋を辞去した。自宅への道すがら、和磨は母を思った。


 和磨の母のおさきは幻庵に嫁ぐ前、上女中として田所町の廻船問屋亀甲屋に奉公していた。

 この頃、幻庵は亀甲屋の主、藤五郎の鍼治療で何度も亀甲屋を訪れていた。幻庵はおさきと深い仲になり、和磨ができて幻庵と所帯を持った。


 亀甲屋の主は日本橋界隈の裏世界を牛耳っている香具師の元締めの藤五郎で、廻船問屋は表の商売である。裏で香具師の元締だけでなく数々の悪事に手を染めていると噂になっているが、亀甲屋の表の商売が語られるだけで、報復を恐れる庶民が表立って藤五郎の裏家業を語ることはない。


 しかし、浮いた話や色事になれば別だ。巷では、藤五郎がおさきに手をつけて、子供ができたおさきを幻庵に押しつけたと噂されていた。根も葉もない噂も、まわりまわれば誠しやかに語られる。

 和磨は幼い時から巷の噂を耳にして、自分が幻庵の子ではないかも知れぬと思い、母のおさきに、己が誰の子か尋ねたことがあった。


「父、幻庵の子ですよ。巷の噂など信じてはなりませぬ」

「しかし・・・」

「もう、そなたも大人ゆえ、わかっていましょう。

 私は亀甲屋の上女中をしていました。幻庵は主の藤五郎の鍼治療で亀甲屋に来ていました。その幻庵が私に惚れたのです。そして、あなたを身ごもりました。

 藤五郎は、私を娶りたいという幻庵に快く応じたのです」


「それなら、なぜ、藤五郎が母上に手をつけたと噂になるのですか」

「藤五郎に御内儀はおりませぬゆえ、そのような噂が立ったのです」

「藤五郎に女はいないのですか」

「女はいません。藤五郎は女子衆に興味がないのです。金しか興味がありません」


「それなら、私が父上の子だと示すものはありますか」

「そなたを産んだ私がいうのですから、まちがいありません」

「なぜ、父上は私に厳しいのですか。義二が修業を怠けても注意しないのに、私に厳しく当るのはなぜですか。私が父上の子ではないから厳しいのでありませぬか」


「そんな事はありませぬ。あなたを産んだ私が、幻庵の子だというのがわからぬのですか。

 父上はそなたに才があるのを認めているから、厳しく修業させているのです。

 そなたは、れっきとした室橋家の総領です」

「・・・」



 母のいう事はわかるが、過去の事実はどのようにも変えられる。弟と己に対する父の話し方と態度の違いや噂がそれだ。やはり、己は幻庵の子ではない気がする・・・。

 そしてあの菓子折りだ。六助は、山形屋吉右衛門から頼まれた、といったが売りさばいているのは亀甲屋だろう。その事に父が荷担している・・・。それが証に、父は菓子折りを届けたあと、亀甲屋へ行った・・・。おそらく、無事に菓子折りを届けた、との報告だろう。あの菓子折りが何か、探るのが先かも知れない・・・。


 宵五ツ(午後八時)前。和磨は帰宅した。

 夜四ツ(午後十時)を過ぎても幻庵は帰宅しなかった。

 幻庵がいつ帰ってくるか確認しようと和磨は褥で起きていたが、いつのまにか眠っていた。幻庵がいつ帰宅したかわからなかった。


 その後、和磨は幻庵の動きに目を光らせた。幻庵の日常は家で鍼治療しているか、往診しているか、馴染みの患者と囲碁をするくらいだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る