四 説明三 許嫁
和磨は座敷に入った。座敷には薬湯のような甘い匂いが漂っている。
この匂いは痛み止めだ・・・。六助が風呂敷包みを届けるたびにこの匂いが気になっていた。もし御禁制の阿片なら、父は何に関わっているのか・・・。
そう思いながら、和磨は懐から幻庵の渡した布包みを取りだした。
包みを開くと二本軸の藤子町の平打簪と二本軸の赤珊瑚の玉簪だった。和磨は思いついて懐から、預っていたお加代の紙入れを出し、その中に二本の簪を入れて懐に入れた。
「母上。お加代さんが紙入れを忘れていった。届けてくる」
と母に断って家を出た。
夕七ツ(午後四時)過ぎだった。秋の日は釣瓶落し。すぐ陽が落ちる。
どうせ父の帰りは遅くなる。行く先を確かめ、それからお加代に会えばいい・・・。
和磨は小走りに歩いて幻庵の後をつけた。
父はほんとうに菓子折りを松平越中守上屋敷へ届けるのだろうか・・・。
そう思って後をつけると幻庵は江戸橋を渡り、本材木町六丁目の越中橋を渡り、松平越中守上屋敷の門をくぐった。
父の行く先に嘘はなかった・・・。それにしてもあの菓子折りはどこから来たのだろう・・・。六助は小舟町の米問屋山形屋吉右衛門からの届け物だと話したが、米問屋の山形屋吉右衛門が菓子を扱うのも、薬を扱うのも妙だ・・・。おそらく、山形屋吉右衛門は誰かに頼まれて菓子折りを配っているのだろう・・・。
そう思いながら和磨は、松平越中守上屋敷の門が見える越中橋の西詰めで上屋敷の門を見張った。
四半時ほど待って、もう帰ろうと思った時、幻庵が出てきた。
和磨はまた幻庵の後をつけた。
幻庵はもと来た道を越中橋、江戸橋と戻り、自宅へ帰らずに瀬戸物町へ歩き、中之橋を渡り、堀江町から万橋を渡って南材木町の路地を抜け、田所町へ出て亀甲屋の暖簾をくぐった。
「また、ここか・・・」
亀甲屋は、母のおさきが幻庵に嫁ぐ前に上女中として奉公していた廻船問屋だ。主は、日本橋界隈の裏世界を牛耳っている香具師の藤五郎だ。
なんでここに・・・。いったい父と藤五郎のあいだで何があるのだろう・・・。巷の噂は本当かも知れない・・・。
和磨は、来た道を急いで戻った。本舟町に戻ると自宅の前を通りすぎて日本橋を渡り、呉服町の加賀屋へ行った。
夕七ツ半(午後五時)前。
「夕方の忙しい時分にすみません。お加代さんに会えますか」
「おやおや、和磨様。どうなさいました」
和磨を出迎えた番頭の平吉は笑顔だ。
「お加代さんが忘れ物をしたので届けに来ました。これを・・・」
和磨は懐からお加代の紙入れを出そうとした。
番頭の平吉は奉公人に、和磨様が来たことをお加代さんに伝えなさい、と奉公人を離れへ走らせ、
「店先でもなんですから、奥へどうぞ。これから夕餉ですので、お嬢さまとともに食べていってくださいまし」
と離れへ続く土間へ和磨の背を押した。
和磨は懐からお加代の紙入れを出した。
「これを届けに来ただけですので・・・」
「そう、おっしゃらずに。お嬢様も喜びます」
平吉は和磨の背をぐいぐい押している。届け物に来ただけですと話す和磨。そうおっしゃらずにお嬢さまに会ってくださいという平吉。ふたりで押し問答しているうちに、離れから土間をお加代が小走りに歩いてきた。
「うれしいっ」
和磨の顔を見るなり、お加代は和磨の手を取り、平吉に礼をいって和磨を離れへ連れていった。
「ね、紙入れが役立ったでしょうっ。こうして紙入れを和磨さんに預けておけば、いつでも尋ねてくる口実になるよ・・・。
あらっ、うれしいっ。これをあたしにっ」
お加代は、和磨から受けとった紙入れに入っている金の藤子町の平打簪と、金の赤珊瑚の玉簪に驚いて満面の笑顔だ。
「うん。修業中でまだ給金が無いゆえ、思い人のお加代ちゃんに渡せ、と父が・・・」
「でも、うれしいよ。先生もあたしを和磨の奧さんに認めてるんだわっ」
「うん。ところで、お加代ちゃんと富吉さんに相談があるんだ。いいかな」
「はい。いいわよ。ねっ、お祖父ちゃん」
「はい」
和磨は、ここだけの話にして欲しいと断り、巷の噂と、毎月初めに六助が届ける菓子折りについて話した。
話し終えると富吉がいった。
「父親は幻庵先生でしょう。和磨さんを産んだ母上がいうのです。母上を信じておあげなさい。幻庵先生は和磨さんが実の子で才があるから厳しくするのです。親心ですよ」
「はい・・・。菓子折りをどう思いますか」
「薬は薬種問屋しか扱えません。米問屋が菓子を扱うのも妙です。
菓子折りがどこから来たかを、探るしかないですね・・・」
そういった富吉だが、お加代ともども心配している。
ふたりが何も知らなければ心配しなくてすむ・・・。和磨はとんでもない事にふたりを巻きこんだと後悔した。
「難しい事を持ちこんですみません」
「この話、内密にしておきます。あぶない事はしないでください」
「和磨さん。あぶない事をしちゃだめよ。気をつけてね。夕餉を食べていってね」
「はい」
和磨は、幻庵が菓子折りを届けてから亀甲屋へ行った事をふたりに話なさなかった。菓子折りの出所は亀甲屋だろう・・・。亀甲屋の主は香具師の元締めの藤五郎だ・・・。
和磨は考えるのをやめて夕餉を馳走になった。
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