三 説明二 菓子折り

 長月(九月)一日。

 昼八ツ半(午後三時)。

 鍼の治療部屋で、幻庵が打鍼術修業中の和磨に、

「これで今日の治療は終りだ。鍼を洗って煮沸しておけ。今すぐやれ。

 義二は掃除をしておけ」

 と指示した。義二が幻庵に背を向けると和磨に、

「これを・・・」

 と耳打ちして布包みを渡した。


 和磨はそれを懐に入れて、今日の治療で使った鍼の道具を一つずつ桶の水で洗い、長火鉢の五徳で煮たっている手鍋の湯に入れて引き揚げ、晒布の上に置いた。このところ和磨は巷の噂が気になり、打鍼術修業に身が入らなかった。


 幻庵は患者の富吉を見た。富吉は、和磨の許嫁お加代の母方の祖父だ。

「富吉さん。痛みが取れなかったら、先ほど渡した煎じ薬を飲みなさい。

 煎じ方と飲む量は教えたとおりです。お加代さんにも教えてある。

 お加代さん、教えたとおりにしておくれ」


「はい、幻庵先生。お祖父ちゃん、帰ろうね。

 和磨さん、またね」

「ああ、お大事に。気をつけてお帰りください・・・」と和磨。

 お加代は和磨の気のない返事に、何があったのだろうと思った。このところ、いつ来ても和磨は沈んでいる。まるで不幸があったあとのようだ。何があったんだろうと思って、祖父富吉に相談するが、富吉はじかに聞くのが一番だというだけだ。

 お祖父ちゃんにそうはいわれても、幻庵先生やお母様が居る所では、何があったか、和磨には聞けない・・・。

 お加代は気持ちが晴れぬまま、祖父を連れて本舟町の鍼医室橋幻庵宅を出た。


「お祖父ちゃん。和磨がまた幻庵先生に厳しくされてた。和磨がかわいそう・・・」

 本舟町から日本橋へ歩きながら、お加代は晴れない心の内を祖父に話した。

「そうでもないぞ。幻庵先生に才があると見こまれておるのさ。

 先生もいい倅を持ったものよ。

 お加代。一日も早く和磨さんと祝言を挙げてはどうか」


「うん・・・」

 お加代が顔を赤らめた。

 お加代は、一日も早く和磨と一つ屋根の下で暮らしたいとの心の内を、和磨に話していない。話すのはいつも祖父の富吉だけである。

 お加代は呉服町の呉服問屋加賀屋の次女だ。富吉はお加代の母方の祖父で上州の絹織物問屋の隠居だ。身体の不調もあって、今は鍼医室橋幻庵の治療を受けるため、加賀屋の離れにお加代の世話をしながら暮している。


「ねえ、お祖父ちゃん。和磨を元気にするにはどうすればいいかしら」

 お加代は今年で十六歳、和磨は十八歳だ。和磨には十五才の弟の義二がいる。和磨は鍼医になるために、父の幻庵の下で打鍼術の修業中だ。義二はまだ下働きだ。

「一日も早く夫婦になれば、和磨さんもおちついて元気になるように思うが、幻庵先生が修業の身の和磨さんに祝言を許すかどうか、わからぬからのお・・・」


 一度はあたしの心が晴れる事を話しながら、どうなるかわからぬ事を話すなら、最初から気を持たせるようになど話さなければいいと思い、お加代は話した。

「おとっつぁんから幻庵先生に話してもらうのはどうだろう」

「私から、おとっつぁんに話してみようかね」

 富吉はお加代にそういった。

 話しているあいだにお加代と富吉は日本橋を渡った。呉服町二丁目の加賀屋に入り、御店の横の奉公人用の土間を通って奥庭に出て裏の離れに入った。



 夕七ツ(午後四時)前。

 幻庵の家からお加代と富吉が帰った後、

「幻庵先生に届け物だぁっ。小舟町の米問屋山形屋吉右衛門からだぞぉっ」

 玄関先で大きな声がする。大八車引きの六助だ。幻庵は治療部屋の隣の座敷から玄関へ行った。


 六助は身の丈六尺ほどの男だ。気は優しくて力持ち。ただちょっと智恵が足りない。だが、六助の知り合いは皆、六助のそうした人柄を理解している。

「いい匂いがするぞ。菓子折りみてえだぞぉ」

 幻庵は六助から一尺四方の風呂敷包みを受けとって、優しく丁寧に六助に尋ねた。

「ご苦労さん。これについて山形屋さんは何か話していましたか」


「うんにゃ。聞いても答えてもらえんかった。今度、くわしく聞いてみる。

 これ、菓子折りだろう」

「ああ、菓子ですよ。薬を入れてあります。子どもは薬が嫌いですから、菓子の中に薬を入れてあるんですよ」


「なるほど、うめえ事を考えたな。今度、おらにも菓子を食わしてくれねえか。

 痛み止めだろう?おらのおとっつぁんが飲んでた痛み止めの煎じ薬と同じ匂いだ」

「おや、よくわかりましたね。体の痛みが無ければ、飲まない方がいいですよ」

「そりゃあ、そうだ。おら、どこも痛くねえぞ。

 そしたら、届けたよ。先生。またな」


「はい、ご苦労様でした。気をつけてお帰り。

 おお、そうだ。いつも菓子折りを届けてもらっているお礼に、来月は夕餉を馳走したい。有り合せの菜だが、ぜひ食べてください」

「ほんとかっ。おら、楽しみにしてるぞ。そしたら、またな」

「はい。気をつけてお帰り」

 幻庵に見送られ、六助は帰っていった。



 和磨は幻庵と六助のやりとりを治療部屋で聞いていた。

 玄関から幻庵が戻って、治療部屋の隣の座敷に入った。座卓に風呂敷包みを置いて、治療部屋の和磨を見た。

「まだ、煮沸に手間どっているのか・・・」

 幻庵が座敷から治療部屋に移動した。

「何だ、これはっ。煮沸する前に洗わなかったのか。よく見ろ。鍼の汚れが取れておらぬっ。これがわからぬかっ」

 鍼は金でできている。いつもは使用した鍼を洗浄し、煮沸し、また洗浄する。しかし、今日の和磨は洗浄を疎かにしたまま煮沸していた。


「使った鍼には体液が付着する。洗浄を疎かにして煮沸すると体液が固まる。

 汚れが残っているだけでなく、次の鍼治療で鍼が刺さらなくなる。

 鍼は常に清潔に滑らかにしておかねばならない。

 鍼の先端は鋭すぎず、さりとて鈍すぎずじゃ。先端の鋭さは指先で覚えるのじゃ」

「わかりました・・・」


「どうした。私の教えでは不満か」

「いいえ、不満ではありません。義二はああやって掃除と片づけをしているだけです。修業しないのですか」

「お前もしていた掃除と片づけだ。いずれ修業させる。

 お前は才がある。その事を忘れるな」


「才ある者に跡目を継がせる御定めですか」

「お前は室伏の総領だ」

 幻庵は和磨が室橋家の長男で家督を継ぐ者だと告げた。しかし和磨は巷の噂に惑わされ、己は幻庵の実の子ではないかも知れぬ、と思いはじめていた。


「先ほどの布包みの中を見たか」

「いえ、まだ・・・」

「金の簪だ。お前の思い人に渡してやれ・・・」

 幻庵は、思い詰めている和磨を見て、この未熟者めと思った。巷の噂に惑わされおって、己が私の息子だというのがわからんのか・・・。才あるから厳しくするのだ・・・。

 早く一人前になってお加代を安心させろ・・・。そう思いながら幻庵は座敷に戻った。


 幻庵は座敷の座卓で六助が届けた風呂敷包みを解いた。現われた一尺四方の桐の箱の蓋を取ると痛み止めの薬湯に似た甘い香りが漂って、中に和紙があり、その上に文がある。和紙の下は縦横八個、小粒ではあるが六十四個の饅頭が並んでいる。


 幻庵は和紙の上の文を読んで懐に入れ、桐の箱に蓋をして風呂敷で包み、妻を呼んだ。

「おさき。薬が届いたゆえ、これから届けてまいる。行く先は松平越中守様じゃ」

「はい、わかりました。気をつけて行ってらっしゃいませ」

 奥から妻のおさきが出てきて幻庵の前に正座した。


 松平越中守上屋敷は、ここ本舟町から江戸橋を渡り本材木町六丁目の越中橋を渡れば目と鼻の先だ。往復に四半時もかからない。

「和磨。往診の道具を取ってくれ。小さい方だ」

 幻庵は和磨が渡した鍼治療の道具を懐に入れて、風呂敷包みを持っておさきとともに玄関へ出ていった。

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