熱く香るレインノート

よなが

本編

 重なり合う女声が歌い上げているのは、とうに過ぎた春だ。

 雨中、クーラーをつけてなお蒸し暑い車内に流れる、明るいアイドルソング。ポップでキュートな曲調をずっと耳にしていると、ワイパーの動きがサイリウムを振っているように見えてきた。ともすると、大粒の雨がフロントガラスを叩く音は、いずれ拍手喝采に聞こえてくるかもしれない。


「ねぇ、昔からこういうの好きだった?」


 曲の切れ目で私は尋ねた。

 隣の運転席に座る真優まゆが「ええ、まぁ」と生返事をよこす。それから何を思ったのか、次の曲が始まってすぐに再生を停止した。


「先輩、アイドル系って嫌いでしたっけ」

「そんなことないけれど。ただ、思ったの。高校生の時に真優と音楽の話はしたことあったかなって」

「ええと、私から一方的ってのはあったような、なかったような。先輩ってけっこう秘密主義だったじゃないですか」

「べつに主義ってわけでは。自分について上手く話せないだけ。今も昔も。真優だけだよ、あんなに根掘り葉掘り聞いてきたの」

「ちゃんと聞かないと、全然教えてくれないからですよ。例外はテニスの指導ぐらいでした。先輩というよりコーチって感じで、ずばずばと」

「それは真優が頼んできたことでしょ。気になるところがあったらすぐ言ってください、お願いしますって。頭を下げてきてさ」

「模範的な可愛い後輩でしたね」


 けろりと言った真優は、てっきりまた曲を再生するかと思いきや、そうしなかった。

 さっきよりも雨音がクリアだ。今朝から降り続けているこの雨は、1時間前までいた式場ではもっと穏やかだった気がする。とはいえ、祝福の雨と表現するには不相応な、充分に梅雨らしくじめじめとしたものだったが。


「うちの部、というより西校のアイドルだった松山先輩が結婚一番乗りだったわけですが、先輩からも近々ご報告の予定ってありますか」

「ない」

「きっぱりですね」

「見栄を張ってもしかたないでしょ。今時、25で結婚のほうが少数派だろうし、同級生の一人や二人、結婚しても慌てはしない。恋人がいなくたって、焦らない」

「やせ我慢では?」

「今のは聞かなかったことにしてあげる」

「どうも。結婚願望はあるんですか」

「……ない」

「さっきより回答に間がありましたね」


 くすっと笑う真優。そんな彼女の横顔をうかがう。

 一つ下、24歳。私が高校を卒業して隣県の大学に進学して以来、今日までに会ったのは数回程度で、いずれもテニス部関連の集まりだった。進学先も就職先も違う真優が、私が今暮らしているのと同じ町、それも一駅しか離れていない場所に住み始めたのは今年の春、つまり二ヶ月前からだそうだ。

 新卒で入社した企業を一年余りで早々に退職してからの再就職。これまた今時ならそう珍しくない。


 専らオフィス内業務での私と異なり、接客業であるゆえか、メイクは私より上手い。すっぴんの時だって私より美人なのは知っていた。今日の上品な装いもよく似合っている。その着こなしには、日に焼けるのを厭わず炎天下でも溌剌と活発に動き回っていた少女の面影はほとんどなかった。


「ほんと綺麗になったね、真優」

「なんですかいきなり」


 上擦った声が返ってくる。

 信号待ちで車を止めたところだったから、真優は横にいる私をまじまじと見やった。

 驚き、それに照れが入り混じった表情。これだったら何度か目にした覚えがある。


「忘れて。つい思ったことがそのまま出ただけ。ほら、前を見て」

「……いちおう確認ですけど、皮肉じゃありませんよね? 子供っぽい私が背伸びして着飾ったところで大人の女性には到底見られない、みたいな」


 真優が前を向き直して言う。今度は私がくすりと笑う番だった。


「たしかに大人っぽい女子大生と言われれば信じるかも。いい意味で」

「もう、『いい意味で』ってつければ済むって思ってません?」

「さあね。ところで、真優はあるの? 結婚願望」

「気になりますか」

「こっちばかり聞かれっぱなしなのはどうかと思って」

「なるほど」


 相槌を打ってくれたはいいが、真優はなかなか答えをくれない。それでも、私がしびれを切らすより先に彼女が再び口を開いた。


「ペトリコールとゲオスミン」

「え? なに?」


 聞き慣れない言葉の並びに、私は思わず聞き返す。


「雨の匂いのことなんです。雨の降り始めに漂う匂いがペトリコール、雨上がりの匂いがゲオスミン。化学の成分的なアレです、詳しくはわからないですけど、そんな感じの」

「……それで?」

「童話のタイトルみたいですよね。『ペトリコールとゲオスミン』って」

「そういえば、中学生の頃までは本気で童話作家になりたかったんだっけ」

「覚えていてくれたんですか」


 弾んだ声。ちらりと盗み見る横顔、その口許に浮かんでいるのは少女じみた微笑み。


「いつもどおりの部活終わり、何気ない雑談だったら忘れていたと思う。でも、そうじゃなかった。二人で映画を観に行った時に話してくれたから」

「今でも不思議です。誘った私が言うのも妙ですけど。ああいう家族向け、というか小さい子向けのファンタジー映画に先輩が付き合ってくれたのが」

「肩の力を抜くのにちょうどいい、そう言ってくれたのは真優でしょ」


 部内でちょっとした揉め事があり、私が矢面に立たされてしまった時のことだ。


 テニスの実力はともかく、人望では松山さんの半分にも及ばなかった私はずるずると立場を悪くしていった。そんな時に、後輩だった真優が映画を観に行きませんかと誘ってきたのだった。それまで二人きりで出かけたことはなかったのに。


 私の知る限り、最初から最後までその揉め事に関して真優が表立って私を擁護したり別の誰かを糾弾したりすることはなかった。

 だが映画から数日後、部内でのぎくしゃくがすっかり解消されたのは事実だ。不思議だった、それこそ映画の中に登場した魔法のような。


「あの時はありがとね」

「えー? なんですか。何にもしていないですよ」

「それはそれとして、ペトリコールとなんとかってのが何なの?」


 話を戻す。

 突然話し始めた雨の匂いの成分が、結婚願望と関係しているのか。それとも誤魔化すためのまるっきり別の話なのか。


「参考までに、先輩だったらどんなお話にしますか。『ペトリコールとゲオスミン』って童話を書くとして」

「もしかして今も趣味で書いているの?」

「さあ、どうでしょう。そんなことより考えてみてください」


 真優ははぐらかしつつも、どこか楽しげだった。童話に限らず、これまで物語らしい物語なんて空想したことが皆無である私は、急に考えてみてと言われても困ってしまう。


「うーん……語感からするとペトリコールは女の子で、ゲオスミンは男の子。その二人がなんやかんやあって結ばれる、そんな話?」

「意外ですね、ラブストーリーとは。しかもハッピーエンドだなんて」

「私をどんな人間だと思っているのよ」

「んー……それって答えを出すのは簡単で、改めて伝えるのは難しい質問ですね」


 意味深長な言い回しに戸惑う。

 ついつい見てしまう彼女の横顔。今度はやけに色っぽく感じた。


 私たちはお互い、大学生活や社会人生活がどういったものかについて、さほど共有していない。きっと真優はこの数年間で私の知らない世界を多く経験しているのだろう。そう思うとなぜだか切なくなる。劣等感ではない痛みが胸を刺す。


「たとえば、こんなのはどうですか」


 遮断機の下がった踏切を前に、止まった車内で真優が言う。


「ペトリコールは、呪いをかけられてしまったお姫様なんです」

「呪われたお姫様?」

「はい。お城の外に出ると、必ず大雨が降ってしまう。それはもう、いろんなものをダメにしてしまう大雨が。だからずっとお城の中で過ごすのを余儀なくされているんです」


 落ち着いた声色で真優は物語り始めた。私は「それから?」と続きを促す。


「対して、ゲオスミンは妖精なんです。城下町に暮らす人々の間で噂になっています。雨上がりにふらりと現れ、人の願いを叶えてくれる素敵な妖精さんだって。ペトリコールはその話を親しい従者から聞いて、会いたいと思います」

「願いは、呪いを解くこと?」

「もちろん。だけど、ペトリコールが外にいる限り、雨は降り続けてしまいますから、雨上がりの妖精であるゲオスミンには決して会えません。どうすればいいのでしょう」


 問いかけ。直後、雨音をかき消すほどの音を響かせながら電車が通過する。その間、真優は黙っている。あたかも私にその先の展開を予想させる時間をくれたようだった。


 遮断機が上がり、車が再発進してから真優が物語を進めていく。


「ペトリコールは招待状をしたためることにしました。会いに行けないなら、お城に来てもらうしかない。そう考えたのです」


 私の予想は、可哀想なお姫様の噂を聞きつけた妖精が自ら訪れるという筋書きだった。願いを叶えるために行動を起こすほうが尊いので、招待状を出すというアイデアに不服はない。むしろ感心した。


「ペトリコールにかけられた呪いとは関係なしに雨が降り始めた日、彼女は従者に頼んで招待状を城下町のいたるところへと届けさせました。雨上がりにやってくるゲオスミンが立ち寄りそうな場所すべてに。何百枚もの招待状。ペトリコールが自分で書いたのです」

「妖精はお姫様のもとに来てくれたの?」

「ええ、期待どおりにゲオスミンはお城を訪れます。そしてペトリコールの願いを叶えると言いました。――ただし」

「ただし?」

「代償として、今度はペトリコールが城にいる間中ずっと大雨が降り注ぐことになるとゲオスミンは話しました。そうなるとこの国、国民たちのためには城を出て暮らさないといけなくなるだろうと」

「どうして」


 私は素直に疑問を投げかけていた。


「そもそもペトリコールはなぜ呪われているの? 何か非があったというわけ? 城を出ていかなければならないのはおかしい」


 そう言い切ってから気恥ずかしくなる。

 まるで、親に読み聞かせられた童話の展開に納得がいかず、不満を口にする小さな女の子だ。昔話や童話が往々にして、何もかもを説明してはくれないと知っているのに。


「ペトリコールの母にあたる王女様は昔、雨の妖精王に見初められ婚約を迫られましたが、断ったんです。愛する王子がいるからと。雨の妖精王は悲嘆し、激怒して、彼らの間に生まれた娘、すなわちペトリコールに呪いをかけました。早い話、逆恨みです」


 淡々と真優はそう言い、運転を続ける。

 聞かれるのがわかっていたみたいな冷静な応答。でもまだ、一番肝心なことを教えてくれていない。


「ねぇ、それでペトリコールはどちらを選択するの?」


 城を出て行くか。城に残るか。


 まさか新しいお城を作ってそこにみんなで引っ越して幸せに暮らしました、なんてオチにはしないだろう。


 不可逆の大きな選択。

 それは大切な要素のはずだから。


「先輩だったらどうしますか。晴れ渡った外の世界を知る代わりに、二度と元いた場所に帰れないとしたら」

「死ぬまでお城の中だけで過ごすなんてあり得ない。私だったら身分を捨ててでも、外に出るのを選ぶ」

「では、それでいきましょう」


 あっさりと真優がそう応じた。彼女が語り始めたいうのに無責任な気がして、私はまた彼女の横顔をうかがった。そこにあったのは思い詰めた表情。戯言に飽きて、話を切り上げたような面持ちではない。


 見覚えがある。一つの記憶と結びつく。


「……何か隠していることがあるの?」

「どうしてそう思うんですか」

「怪我を隠していた時の顔をしていたから」

「覚えてくれているんですね」


 声は弾まず、沈んだ。


 あれは私が大学一年生で真優が高校三年生であった時のことだ。

 インターハイへと繋がる県予選、言い換えれば、負けてしまえばそこで部活動引退となる大会に、私たちテニス部OGは応援として呼ばれた。

 大会中、真優は怪我を隠したまま出場していたのだった。そのことに気づいたのは奇しくも私だけ。プレーしている様子から察したのではなかった。予選敗退で終わった後、二人きりでの短いやり取りの中でだった。


「じゃあ、忘れていないですよね。どうして私が怪我を押しても出場して、最初から最後まで試合に臨んだか。将来を期待された選手でもなければ、チームの中心選手でもなかった私がそこまでした理由。あの時、先輩に伝えた言葉……」


 震えた声は激しい雨の音に負けそうになるが、負けはしない。


 忘れてなどいなかった。あの時の真優が私に言ったこと。


 ――――見てほしかったから。先輩に見てほしかったんです。私のこと、私だけを。


 赤信号。停止線をわずかに越したところで止まる車。外の景色は既に見慣れたもので、私たちが暮らしている町だった。


 式場で真優と再会し、近況を話し合ったのが今朝のことだ。行きは電車とバスとで来た私だったが、帰りは送ってくれると言った彼女の厚意に甘んじた。二人して事前に二次会の出席を断っていたのもある。

 松山さんと私の仲はチームメイト以上ではなかった。真優はどうだっただろう? 気さくに話しかけていたっけ。いいや、そうではなかった。正直、真優は上級生に可愛がられるタイプの子ではなかったから。


「ゲオスミンは、ずるい妖精だったんです」


 遡っていく記憶、それは真優の呟きによって途切れる。


「本当は、呪いを何の代償もなしに解いてあげることもできたんです。でも、そうしてしまうとお姫様はその国で幸せに暮らしていくことになる」

「ゲオスミンはペトリコールの幸せを願っていなかったの?」

「恋をした妖精は、お姫様を自分のものにしたくなったんです」


 比較的低層の集合住宅がいくつも立ち並ぶ区画、その駐車場の一つに車は停められた。真優が住んでいる部屋はすぐそこなのだろう。最寄駅までは徒歩十分足らず程度だ。今すぐに彼女に別れを告げ、一人で帰ることもできないわけではない……。


「ゲオスミンはペトリコールに言います。呪いを完全に解く方法を探しに二人で旅に出ましょう。危ない目には合わせません。自分があなたを守ります。広い世界を知りたくありませんか。たとえば空から降ってくるのは雨だけではないんですよ。そんなふうにお姫様をそそのかし、ついに二人は旅立つんです」


 そこまで言うと真優は、隣にいる私を見つめてきた。


「先輩……私じゃダメですか」


 動くのをやめたワイパーはもう雨を振り払うことはない。外の世界、窓の向こうは滲んでぼやけていくばかり。


 私たちの世界は逆だ。

 

 真優の眼差しが熱い。視線を逸らすことができない。あの日の私は、この子が伝えてくれた想いに、曖昧な態度をとって逃げ出すのを選んだ。今、また同じことを繰り返すのはできそうにない。


 雨音よりも遥かにうるさく熱い音が内側で鳴り響き続け、それが私の答えなのだと自覚する。


 温度と湿度が増す一方の車内、彼女に近づくにつれ香るラストノートはペトリコールやゲオスミンではない。

 

 やがて――重ね合わせた唇がささめいたのは、これから迎える夏だった。

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