二十七話 旅立ち、再び

 出発の朝は、気持ちの良い快晴だった。


 エブローティノの館の玄関エントランスを出て、澄み切った空色を見上げたアルチェは、まるでリフィーリアと出会ったあの日みたいだなぁと思った。


 アルチェは屈んで革靴の紐をぎゅっと結び、旅の必需品がしっかりと詰め込まれた荷物を背負い直す。身を包んだ黄緑の旅装のふちには、たくさんの刺繍が入っていた。リフィーリアはもちろん、エブローティノの館の人たちがそれぞれに針を入れてくれたらしい。旅先での安全を祈願して、できるだけたくさんの人に刺繍を入れてもらうという習慣が、このエブローテ周辺にはあるのだという。


「では行こうか、アルチェ」

「うん。よろしくお願いします」


 館の門前にはエブローティノの馬車が待ち構えていて、ジース街道が西と南に分岐する地点までリフィーリアとグラムスが同行して送ってくれることになっていた。アルチェはそこから、一人で西に向かう街道を行くことになる。


 話したいことは色々とあったはずなのに、ごく他愛無いことばかりを話しているうちに目的地に着いてしまった。


「……名残惜しいが、あまり引き止めて到着が遅れてもいけないからな」


 馬車から降りたリフィーリアは、どこか気がかりそうな顔で呟く。エゼッテ山からエブローテに向かった時には彼女が一緒だったため、いよいよアルチェが一人になることが心配なのだろう。


「アルチェ、もし野外で一夜を越すことになりそうだったら?」

「明るいうちに、寝床にできる場所を絶対に確保しておく。大丈夫、ちゃんと覚えてるよ」

「よし」


 ごたごたがある程度落ち着き、再び旅立つことを決めたアルチェがそう告げると、リフィーリアと意外にもそういうことに詳しかったグラムスが旅の心得を色々と教えてくれた。まだ旅に慣れたわけではないが、何もわからずに国から放り出された時よりは、ずっと不安は減っている。


「アルチェ、君には色々と迷惑をかけてしまったが、ぜひ懲りずにまたエブローテに遊びに来てほしい。領主様ではなく、リフィーと呼んでくれる友人と……私もたまには息抜きしたいんだ」


 リフィーリアの柔らかな紫の目が、真っ直ぐにアルチェを見つめていた。今口にされたことが、嘘でも社交辞令でもないことがはっきりと伝わってくる。


 もしかしたら彼女が自分との出会いを後悔しているのではないだろうかと思っていたアルチェは、その言葉に救われた気がした。


「ありがとう、リフィー。また来るよ。絶対にね。……私、あの時リフィーに出会えなかったら、わけもわからないまま山の中でひとりで死んでたかもしれないし……本当に、お世話になりました」


 どちらともなく手を出し合い、互いにぎゅっと力を込めて抱きしめ合う。今生の別れにする気はさらさらなかったが、それでも先のことはわからないのが人生だ。


「散々文句を垂れていた私だが、今となってはあのタイミングで呼び戻してくれたディフィ叔父様に心底感謝している」


 目元を拭いながらリフィーリアは悪戯っぽく言い、三人は顔を見合わせて笑った。


「手紙を書くね」

「ああ。心待ちにしているよ」


 最後に二人と握手を交わして、アルチェは一人歩き始める。


 今回の告発にあたっては、資金の横流しと領主を管理下に置いて融通をきかせるためだった、という決着のつけ方をしていたが、実はそれはあくまでも監査官や他の人々の納得のためのカムフラージュに過ぎなかった。


 潜む神の使徒ザグラニゥがこの地を強い支配下においていた本当の理由は、実はレグピオン山の洞窟の奥に存在している。もしかしたら、ジャルト鉱の移植が始まったそもそもの理由も、だったのかもしれなかった。


 だが今はまだ、先代の鍵付きの小箱に入っているもののことも含めて、リフィーリアとアルチェだけの秘密である。どうしても情報を表に出さざるを得なくなるその時までは、エブローテの人々の安全のために伏せておいた方がいいだろうと二人で判断したからだ。


 ———こんなことを、リヴァルトの人以外にも思うようになるなんてね……


 国を出る前の自分は、どんなに知識があったところで、あるいはどんなにたばかりを巡らせられたところで、あまりにも視野が狭かったのだとアルチェは思い知った。


 でしかものを考えていない、ということを自覚することさえできていなかったのだ。その外に広がるかもしれない可能性には、まるで意識がいっていなかった。


 リヴァルト王国の身の回りの人々だけが、長らくアルチェの全てだった。極端なことを言えば、それを守るためならその他のものは踏みにじっても構わないとさえ、どこかで無意識に思っていたのだ。ここに来てそれに気づいた時には、さすがに自分でもゾッとした。


 ———もしかしたらリフィーみたいに大切に思えるようになる人が、世界には他にもいるかもしれないのに。


 彼女に出会って手を差し伸べられるまで、そんな簡単なことさえアルチェはわかっていなかったのだ。リフィーリアの存在や、ジュナイダの忠告があったからこそ、ようやく認識できるようになった。


 両親よりも長く側に居てくれた祖父は、アルチェのこの危うさにきっと気づいていていたのだろう。だからこそ、しばらく国の外に触れて来いと無理矢理にでも送り出してくれたのかもしれない。


「……」


 それなりに歩いたところで振り返ったら、リフィーリアたちはまだ同じ場所に立っていて、アルチェを見送っていた。


 子どもっぽいだろうかと思いつつも、


「またねー! リフィー! グラムスさーん!」


 と叫んで、両手を振ってみる。


「またなー! アルチェー! 待ってるぞー!!」


 大きくブンブンと振り返される手に応えてから、アルチェは再び前を向いた。


 これまでただただ、じじ殿に与えられた問題を解いてきた。意識していなかったが、深く考えることもせず、ただ解くために解いてきたのだ。そしてそれを応用させれば、きっと現実でも必要な答えがわかるのだろうと思っていた。大切なものがたくさんあるリヴァルト王国を守りたいとアルチェが言ったから、きっとじじ殿はそれが果たせるように訓練してくれているのだろうと。


 けれどいざ外に出てきてみれば、そこにあったのはこれまで課されたものとはまるで似て非なるものだ。


 そこには人間がいた。二人として同じもののない千差万別の背景を持ち、それぞれの思いを抱いて生きるものたちが。アルチェ自身も含め、そんな彼らの理性と感情が絡まり合ってできる出来事が、そこには確かにあった。


 頭を悩ませたり、身を切るような人とのやり取りも、ぶつかり合う思いも利害も、触れ合わせる真心も、ついさっき交わされた嬉しい約束またねも。


 こうして国の外に出てみなければ、それが祖国をはるかに超えてずっと広がる可能性があるものだと、わからないままだっただろう。


 ———ルーオンさんのことも、この地のひずみを崩したことも……あのやり方で本当によかったのかは、結局よくわからないけれど……


 いつだったか、自分の出した解決案でよかったのか、模範となる解答と比べてどうだったのかとアルチェが尋ねた時に、


『模範解答だと?そんなもの世界のどこにもあるものか』


 そうねたように唇を尖らせたじじ殿の言葉の意味が、少しだけわかったような気がした。


 ———さぁ、次は何と出会えて、私はなにを思うんだろう。


 アルチェは心地よい風に吹かれながら、長く伸びる街道を行く。


 空は高く、どこまでも青く澄んでいた。




           エブローテ編 了

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