十八話 祖父の涙
レグピオン山に向かいながら、アルチェはぼんやりと物思いに沈んでいた。
誰かが泣いているのを目にするたびに、思い出すものがある。
祖父の涙だ。
なにか緊急事態が起こっても、どこか人を食ったような笑みを浮かべてさらっと解決してしまうような人だった。彼が泣くのを見たのは、後にも先にもあの一度きり。
〝四匹の猛獣に囲まれた肉塊〟
アルチェの母国、リヴァルト王国の置かれた状況をひと言で言い表せばこうなる。そして祖父ジェノイーダは、この小国のやり手の宰相として有名だった。
リヴァルト王国はなんの因果か、北をサジュスタン連邦、西をルギオラ帝国、南をファークラム国、東をエラルディア連合国という、大陸でも名の知れた強国に四方を囲まれている。
面積も国力も武力も小ぶりなこの国が、建国以来何百年も他国の支配に組み込まれずにすんだのは、ひとえにその周りの国の力が拮抗して牽制し合い、肉塊を前に睨み合いになっていたからだ。そういうことでいえば、ある意味とても幸運な星のもとに生まれた国だったのかもしれない。
とはいえ、永劫に続くものなどなかった。周辺諸国が大荒れし、長年国を守ったその抑止力がとうとう失われそうになった四十年前。突然、ジェノイーダがリヴァルト王国に現れて宰相の椅子に座り、牙剥こうとしていた周りの国々を退けた。グランダル卿によれば、当時はまだ立太子されたばかりだった当代のリヴァルト国王が、どこからか連れてきたのだという。
そしてそれ以来、祖父は影に日向に国を守り続けてきた。いつしか荒れていた周りの国々も落ち着きを取り戻し、リヴァルト王国は今は平和の中に戻っている。
しかしそれでも時に仕掛けてくる国はあり、八年前は東のエラルディア連合国だった。
当時少し体調を悪くしていた祖父を、アルチェは少しでも助けたかったのだ。結局誰かが対処しなければならないのだから、祖父ではなく自分がやっても構わないだろう。そう思って動いた。幸か不幸か祖父の教育はごく幼い頃から始まっていたため、当時のアルチェは既に策を巡らすことができるようになっていたのだ。
そして子どもであることを生かしてアルチェは動き、相手を返り討ちにした。彼らが仕込んできたものを、彼ら自身の馬車に仕掛け返したのだ。もちろん使者に危害を加えたと攻め込む理由を与えるわけにもいかないため、リヴァルト王国を出た後、きちんとエラルディア国内でタイミング良く作動するように図っておいた。
そして彼らが帰国の途につき何日も経った頃、アルチェは祖父の書斎に呼ばれた。人の耳に入れたくない話をする時は、いつだってこの部屋だ。
「先日来たエラルディアの使者たちが、崖崩れに巻き込まれて亡くなったらしい」
彼はアルチェと同じ色の目に確信を
「どうして勝手に手を出した、アルチェ」
「どうしてって……だってあの人たち、陛下やリーグスを殺そうとしてたでしょ?」
別に積極的に使者に手を出そうと思ったわけではない。けれどまだ子どもだったアルチェでもわかった。あの殺意をこのまま見過ごせば、果たすまで手を替え品を替え、何度でもアルチェの大切なものに危害を加えようとするだろうと。だから彼らが寄越したものを、そのまま返した。二度目がないように。
「でも、うまくやったはずだから大丈夫だよ? 仮に崖崩れ自体を不審に思って馬車を調べられたとしても、自分たちが用意したもので事故が起こったとしか思えないようにちゃんとしておいたし……先に手を出してきたのは向こうなんだから、これでいいよね?」
よくやった、さすがは儂の孫と褒めてもらえるかなと、少し誇らしい気分さえ感じながら祖父を見上げて、驚いた。彼の表情が凍りついていたからだ。
「……アルチェ、それは……」
「……じじ殿?」
しばらく絶句していた彼は、やがてその節くれだった手で顔を覆った。
「……すまない。すまない、アルチェ……こんなにも大切なことなのに、お前に教え諭す言葉を持たない、不甲斐ない儂を許してくれ……」
アルチェは驚きすぎて声も出なかった。
泣いている。
どんな時でも超然と笑っている祖父が。あのリヴァルト王国の恐るべき宰相ジェノイーダ・ヴィンスカーが。膝をついて泣いている。どうやら自分が泣かせてしまったらしい。それが幼心にも衝撃だった。
「……ご、ごめんなさい! 私、やりすぎだった? じじ殿が嫌ならもうやらないよ。今度はもっと別のやり方にするね。……ええと、死なない程度ならいい?」
慌てたアルチェが必死になって言うと、彼はいつも通りに戻るどころか、かえって顔をくしゃりと歪め、泣き笑いのような表情になった。
「……儂が嫌なら、か」
祖父はその夕焼け色の目でアルチェを見つめる。同じ色が向かい合い、まるで写し鏡のようだと思った。
「……儂が長く気づけずに、取り返しがつかなくなったことを……同じように、お前に味わわせたくはないのだがなぁ……」
決して弱みを見せない老獪な男が、途方に暮れたような顔でただぽたぽたと涙をこぼすのを、アルチェはなす術なく見つめるしかなかった。そしてそれは衝撃と共に強く記憶に焼きついたのだ。
———じじ殿がどうして泣いてたのか、あの時は理解できなかったけど……もしかしたら……あの人が言っていたように、私がただ壊すものになってしまうかもしれないと思って……心配したのかな……
遺跡で出会った男の警告が蘇り、祖父の涙にリフィーリアの力なく丸まった背中が被る。
———良かれと思ってしたことで……リフィーまで泣かせてしまうのは嫌だなぁ……
そんなことをぼんやりと考えているうちに、山守りの小屋が見えてきた。
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