十七話 胸の内

「リフィー、なにかあった?」


 そう心配そうな顔をするルーオンを見た瞬間に、なにかが切れてしまったような感覚がして目が熱くなった。


 慌てて目元を手で拭い、ゴミが入ったと誤魔化そうとしたが、まるでせきが決壊してしまったように涙は次から次に溢れて、とても誤魔化せそうもない。


 ———上官殿や先輩方の厳しいしごきにだって……追い詰められた戦場にいた時だって……泣いたりせずにこらえられたのに……たかだかナイフを向けられたくらいで……私はどうしてしまったんだか……


 さすがに驚いた表情を浮かべている彼に、リフィーリアはぽつりぽつりとエレナとひと騒動あったことを話した。


「リフィー、それは警吏に突き出すべきだよ。先代様の妻だからといって、許されることじゃない。そもそも彼らは君の温情で、館に残らせてもらってる身なのに」


 日頃まず怒ることのないルーオンが険しい顔をして語気荒く言い、リフィーリアはどこかでほっとした己に気づいた。自分のために怒ってくれる相手が、少なくとも一人はいるということは慰めになる。ただ、それにすがってしまいそうな自身の不安定さに、うっすら危うさも感じていた。


「まぁ不幸が立て続くし、体調は思わしくないしで、あの方も錯乱してたようだからな……それに、やつれきった病人に牢はあまりに酷だ」

「だとしても、思い込みで君を殺そうとするなんて言語道断じゃないか! そもそもが君を不当に扱った相手の縁者なんだ。君が容赦してやる必要があるとは、欠片だって僕は思わない」


 ルーオンは不快そうに顔をしかめてうめく。


「……とりあえず、もしまた同じことがあったら手立てを考えるよ。今は大人しく過ごされているし……それに……たぶん私にとって本当に問題なのは、たかだか敵意を向けられたとか……そういうことではないだろうからね……」

「……問題?」

「……そう、至上の大問題だ」


 リフィーリアは思わず自嘲わらった。本当は、薄々わかっていたのだ。ただ忙しさにかまけて、考えないようにしていただけで。


「血の正統性と、良い領主になれるかは、必ずしもイコールではないってことだよ」


 その情けなくも掠れた囁きに、ルーオンは黙ってリフィーリアを見つめている。かつてこの木立で共に遊んだり内緒話をしていた少年は、今や立派に水の司を務める一人前の男になっていた。だが、自分が同じように成長できているとは、とても思えない。


「正直、私は自信がないんだ、ルーオン。たとえ正統性はなくとも、叔父は立派に領主を務めていただろう?」


 誰にも言えずにいたことを口に出して、リフィーリアは自分で思っていたよりもはるかに強く、その恐れに囚われていたことに気づいた。

  

 そもそも爵位の継承順位など、エブローティノにとっては意味があっても、他の人からすればただのつまらない慣習にすぎない。もしリフィーリア自身が領民であったとしても、血筋が正統かどうかより、自分たちのことを大切にしてくれて生活をより豊かにしてくれる人がいいと思う。

  

 ———私は本当に、領主としてやっていけるのか?叔父やエブローティノの祖先たちが、その命を懸けて築いたものを壊してしまいやしないか?先代の方がずっとよかったのにと、領地の人に幻滅されることにならないか?

  

 叔父が勧善懲悪の物語に出てくるような、私利私欲のために地位を奪い取り悪政をしくような領主であればよかった。そうであれば、決して同じようにはならないと己を奮い立たせることができたかもしれないのに。


 残されていた彼の、貴族としてはかなり慎ましやかな衣服や遺留品を前にそう思ってしまった時に、リフィーリアはいまだ知らなかった己の弱さを眼前に突きつけられたような気がした。

  

「……リフィー……エブローテに戻ってきたこと……後悔してる?」


 ルーオンがぽつりと呟く。


「……いや、そうじゃない。そんなことはないよ」

  

 最初こそ迷惑千万だと思った。追い出しておいて、今さらなんだと腹が立った。


 けれど渋々でも戻って来たからこそ、思いもよらないアルチェとの出会いがあり、ルーオンとの嬉しい再会があった。領地の人々も歓迎してくれているのは感じるし、活気で溢れた町を見るのは嬉しい。


 けれど同時に、かつてないほどに栄えた領内を見れば見るほど、幸せそうに笑う人々を見れば見るほど、どこかで不安も募っていった。

  

 リフィーリアが知っているのは剣の使い方と、せいぜいが騎士としてのありようだけだ。十七歳までは領主になることを見越した教育も受けてはいたが、それもまだ机上のものに過ぎず、実務的なものではなかった。

  

 ———この十年で鍛えられて、多少のことでは揺らがないほどに強くたくましくなったと思っていたのに……


 それが今、容易たやすく揺らぎはじめたことにリフィーリアは動揺を隠せないのだ。


 これからこなさなくてはならない未知の領域の仕事の山に、自分の才や力量に不安を感じで、情けなくもじけづいている。そしてなにより、思いもよらず突きつけられた己のもろさにこそ、気持ちがすくんでしまっていた。

  

「リフィー、大丈夫だよ。僕がついてる。そりゃ騎士様からすれば、腕っぷしについては大して頼りにならない男かもしれないけど……でもそれでも、僕だけは君の味方だから」

「……うん」

  

 ルーオンの腕が遠慮がちにそっと背に回り、リフィーリアは安堵するような温かさに包まれる。

  

「……うん、ありがと……ルーオン」

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