十三話 水の司の館

 アルチェとリフィーリアは朝食のあと、しばらく時間を置いてから水の司の館を訪れていた。


 浄水設備のことを知りたい、というアルチェの要望に、仕事熱心なのか、あるいはリフィーリアにいいところを見せたかったのか、ルーオンが休日に二人を招いて教えてくれることになっていたからだ。


 水の司はジャルト鉱脈の汚染におびやかされるこの地において、非常に重要な役割をになっている。そのため領主と同じく世襲性で、一族の人間はエブローティノの館の近くに屋敷を与えられ、代々そこに住むことを許されているらしい。


「この辺りは、浄水局の区分で北一区になるんですね」


 今三人は、方々に張り巡らされた水路や濾過器の所在地を示す、非常に大きな地図を前に話をしていた。


「そうそう。エブローテの町の一番端にあたる北一区の住居は、この水の司の館とエブローティノの館だけでね。そこから下って北二区、三区、東西区、南区と続くんだ……この辺りはおおむね町で、周辺は農地になっていることが多いから、水路はその辺りまでしっかり伸びている。町のこの辺りは今開発が進められて拡張しているから、試験運用の真っ最中だよ」


 ルーオンは地図を指し示しながらそう教えてくれる。


「へぇ……中央部に一度集めて浄化してから再分配する形かと思ってたんですが、それだけじゃなくて各所にもそれぞれ濾過器があるんですか。かなりの数がありますね」


 アルチェが呟くと、彼は眼鏡を押し上げながら真剣な顔で頷いた。


「なにしろここは死の鉱脈筋に近いからね。万が一の間違いがあってはいけないから、その辺りは代々ものすごく慎重にやっているんだ。影響領域内にあるエブローテの町だけじゃなくて、領内の他の町や村でも念のための水質の検査は行っているよ。どうしても経費は余計にかかってしまうけれど、それでもジャルト鉱の中毒には代えられないしね」

「……ジャルト鉱毒って、人が摂取するとどうなるんです?」

「ごくわずかだけなら、多少の気分の高揚とか、そういう感じみたいだけど」


 僕も実際に目にしたわけじゃないから、父から聞いた話なんだけどね、と言いながら、ルーオンは続ける。


「量が多かったり慢性化すると、幻覚が見えたり、錯乱したりするようになるらしい。行き着く先は精神に異常をきたして廃人になるか、身体が耐えられなくなって死亡するかの二択だって」

「うわぁ……嫌な二択ですね」


 アルチェとリフィーリアが顔を顰めると、彼は頷いた。


「一説によると、大昔に大帝国フィスカが滅亡したのも、このジャルト鉱を元に作った麻薬が一因なんじゃないかなんて言われてるくらいだしね……なんにせよ、間違っても領内の人をそんな危険にさらすわけにはいかない。だから常により安全な新型濾過器の設計を、こうして考えているんだ。まぁこれはまだあくまでも、僕のイメージ案に過ぎないけど」


 言いながら、ルーオンは濾過器らしい構造物が描かれている紙を二人に見せた。


「今のものは構造上あまり融通が利かないから……こういう風に色々組み込めるようにして……まぁ例えばだけど、そこで育てている作物に適した水にそれぞれ調整するとかできたらいいんじゃないかとかね」

「なるほど、毒性の除去だけでなく付加価値もつけられるようにということですか。もし成功すれば、エブローテの発展に一役も二役も買いそうですね」


 アルチェがその設計図を見つめながら頷くと、リフィーリアが感心したような声を上げる。


「そんなことを考えていたのか……昔から思いもよらないことを考え出すと思っていたが、やっぱりルーオンはすごいな!」


 賛辞を受けた青年は顔をくしゃりとさせて、はにかむように笑った。


「君が治める領地を少しでも豊かにする手伝いがしたいだけだよ」


 それから小一時間ほどルーオンの熱の入った浄水講義は続き、一旦小休止になる。


 手洗いを借りたアルチェが部屋の前まで戻ってくると、何やら講義の時よりも熱のこもった声が聞こえてきた。


 耳を澄ますと、これは自分にとっては一族に継がれる水の司としての義務というより、リフィーと同じものを目指していたいという極めて個人的な望み、というようなことをルーオンが切々と語っている。


 ———あ、今部屋に入ったら、確実にお邪魔虫になる。


 アルチェはそろりと引き返そうとしたが、間の悪いことに踏み出した足元の床がギシィ、と大きくきしんだ。エブローティノの館と同じく水の司の館もかなり年季が入っているから、不可抗力ではある。


 顔を赤くしたリフィーリアが、入り口前で固まっているアルチェの方をばっと見た。


「あ、すみませんどうぞ続けてください。私は壁です、壁。お気になさらず。ルーオンさん、ちょっとその辺りを見学させていただきますね」


 アルチェはそう言い残し、慌てて部屋から遠ざかる。家主の返答を聞いていないが、彼にしてみれば今邪魔されないことの方がよほど大切に違いなかった。


 ———とは言っても、人様の家の部屋を勝手に開けて回るわけにもいかないし……


 そんなことを思いながらアルチェが廊下を歩いていると、前方に扉が半開きになっている部屋があった。中をそっと覗いてみれば、どうやら倉庫のようだ。もしかしたらさっき見せてくれたあの大きな地図やなんかを、ここから出してきて閉め忘れたのかもしれない。


「……お邪魔しまぁす……」


 とにもかくにもどこかで時間を潰さなければならないアルチェは、開いていたことを免罪符に部屋の中に入った。


「……」


 そこは普通の部屋とは少し様子が違っていて、扉を開けてすぐのところに下り階段があり、棚やら木箱やら荷物が並んでいる辺りはかなり低くなっている。そして他の部屋とは異なり、大部分ががっちりとした石造りだった。


 ———ここって……もとは貯水槽かなにか……?


 石壁の下の方に古い時代によく水回りに彫られた水の女神の刻印を見つけたアルチェは、その確信を強める。時代を経たことで使わなくなったものを、倉庫に転用したのだろう。


 ———緊急時用に造ったのか、役目柄必要だったのか……


 なにしろ暇を持て余しているため、アルチェは棚をいちいち丁寧に見ていった。並んでいるのは工具類や縄などといった、なんの変哲もない日用品だ。


 かごに油缶、使いかけの塗料の瓶がいくつか、横に小ぶりの板材が何枚か積まれ、その隣に何やら古めかしい鍵束があった。すっかりさびに覆われて、もはや使えるのか、そもそも使う先のじょうが残っているのかさえ疑わしくなるような、古い古い鍵だ。


 なんの気なしに持ち上げてみると、ずしりとした重みと共に手に赤錆が移る。


 ふとアルチェの目に留まったのは、そのうちの短い一本だ。


 見た瞬間、ぎょっとした。


『用心するんじゃよ』


 今は亡き祖父の声が、記憶の中からそう囁く。


 ———これって……


 鍵の持ち手の部分に彫り込まれたその見覚えのある紋様に、背にじわりと嫌な汗が滲むのを感じた。


「……」


 ややあって、そっと鍵束を棚に戻したアルチェは、唇を引き結んで倉庫を後にする。言いようのない焦りに、身を焦がしながら。

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