八話 雨と図書室①

 アーチ窓の向こうで、濡れて葉色を深くした木々が揺れている。おそらく湿気のせいだろう。こぢんまりとした図書室は、昨夜リフィーリアに連れられて覗いた時よりも、濃い古紙の匂いで満ちていた。

  

 昨日の快晴から一転して、今日のエブローテは雨降りだ。朝食の時にグラムスに聞いたところ、この地域ではそれなりに降雨があるしい。アルチェは窓硝子がらすにパチパチと吹きつける雨音を聞くともなしに聞きながら、大机と書棚を往復していた。

  

「ええと、これと……あ、あったあった……」

  

 奥の棚で、アルチェはなによりも探していたものをようやく見つける。帝国全域を網羅した地図帳のすぐ脇に、エブローテ領とその周辺が描かれた地形図がたたんでしまわれていた。かなり大判のそれを両手で広げながら、アルチェは机へと戻る。


 机上には既に何冊もの本が積み上がり、いくつかの小山をつくっていた。この辺りの歴史や伝承、あるいは産業や地学的な文献を目につく端から集めたものだ。期待したほど数がなかったのが残念だが、エブローテ領は帝国の中では田舎の一地方に過ぎないため、研究対象とする者が少ないのだろう。

  

 椅子に腰を下ろしたアルチェは机の上に地形図を載せ、手近に積まれた本の山を引き寄せる。ふと窓の向こうを見上げれば、黒雲は厚く立ち込め、雨が止む様子はまるでなかった。


「……よし、始めるかな」


 アルチェは雨が好きだ。静寂の中で重なっていく雨音と匂いは、普段よりも思考を奥深いところへと連れていってくれる気がする。考え事をするにはもってこいの日和ひよりだろう。


 サァ——————……


 しばらくの間、雨と紙をめくる音ばかりが図書室の空気を静かに揺らしていた。



 ——————……

 ————……

 ——……



 バチンっとひときわ大粒の雨が窓に当たった音で、アルチェはハッと我に返る。壁掛け時計を見れば、調べ始めてから四時間近く経っていた。集中すると信じ難い速度で時間がとぶのはよくあることだ。そろそろ昼食の頃合いかもしれない。


「……ん〜……!」


 アルチェは座ったまま大きく伸びをして、凝り固まった身体をほぐす。

  

『後学のために色々見て回りたいから、よかったらしばらく館に滞在させてもらえない?』


 厄介な火事場泥棒殿に追い出されたあと、リフィーリアが待つ応接室サロンに向かったアルチェは、苦肉の策でそんな図々しい申し出をした。

  

 まさか〝あなたが危ういことに巻き込まれる気配がぷんぷんしているので、残らせてもらいたい〟などと馬鹿正直に告げるわけにもいかない。


 今はまだ何も盗んではいないだろうデルフィンを盗賊だと証明するすべもなければ、ここでなにが起ころうとしているのかアルチェ自身も把握できていないのだ。

  

「もちろん!もちろん大歓迎だとも!私としても願ってもないことだよ。アルチェがいたいだけいてくれていいからね。なんだったら三年間ずっと滞在してもいいんだから」

  

 嬉しそうに太っ腹な返事をくれたリフィーリアは、今は執務室で来客対応に追われている。要職者やら訪問者やらが続々と挨拶にやって来ているのだ。グラムスとの会話を漏れ聞いた限り、今日だけでも警吏院の地区院長や各役所の長、領内のまとめ役が何人か、それからレグピオンという山の山守りが来訪する予定らしい。


 ———リフィーはしばらくかなり忙しくなるだろうなぁ……


 なにしろ先代が事故で急逝したため、諸々の引き継ぎなどまったくできていないはずだ。おまけに、貴族院が稀に見る奇跡的速度で仕事をしたとはいえ、リフィーリアに知らせが届きエブローテに到着するまで領主不在の期間はそれなりにあった。おそらく相当な量の仕事が控えていると考えた方がいい。


 ———私は他国の人間だし、この国ではまだ未成年扱いだから、領主の仕事に手を貸すのは難しいだろうけど……とにかく私にできる限りのことはしよう。リフィーの身の安全だけは絶対に守らないと……


 アルチェはそんなことを思いながら、手にした地形図をしばらく眺めた。それから小さくため息をつく。


  ———やっぱりエブローテ領はなにかが変だなぁ……どこかずれているというか、妙にちぐはぐな感じがする……


 領についての情報をいくらか得たことで、道中でアルチェが薄っすら感じていた違和感は、いまや確信へと変わりつつあった。

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