七話 領主の館と邂逅②
長い廊下、連なる扉の先———濃紺のドレスの裾が、並んだ部屋のひとつに消えていくのがぎりぎり目に入る。そのドアが閉め切られる直前、アルチェはなんとか身を部屋の中へと
「デルばあちゃん……!」
「その名で呼ぶのはおやめ! あたしは今、シュレール夫人で通ってんだ」
アルチェの呼びかけに答えたのは、えらくドスのきいた声だった。
服や白髪のまとめ髪を見れば、つい先ほど新しい領主と言葉を交わしていた人物に違いないとわかる。けれどその時あった上品さや
「それにしても、ずいぶんとおかしな場所で会うじゃないか、え?」
笑みを深くするその赤紫の目の奥には、ぎらぎらとしたなにかが猛っている。この老女の本性は、間違っても従順なる使用人などではなかった。
デルフィン・ディアーは盗賊だ。それも、きな臭さや不穏を嗅ぎつけては、その混乱に乗じて金目のものをごっそり頂戴していく、火事場泥棒的な盗人である。彼女はアルチェの祖父の古くからの友人で、時折ノイエ・デュノーにも顔を出していた。
おそらく七十代に差し掛かっているはずだが、かくしゃくとした立ち振る舞いはそれをまったく感じさせない。
「てっきりジェノイーダの跡目を継ぐものだとばかり思っていたが、あんた国から逃げて来たのかい?」
「……そのじじ殿の遺言で、着のみ着のままで追い出されたの。三年間、外に出てこいって」
「ああ、なるほど。確かにあいつの言い出しそうなことだ」
彼女はそう笑うと、それでなんの用だい、と腕を組んでアルチェを見る。
「ばあちゃんって、その……シュレール夫人だっけ?そういう振る舞いもできるんだね」
これまではジェノイーダと大酒を飲み交わしたり、警吏や衛兵相手に大立ち回りするような豪快な姿ばかり見てきたので、少し意外だったのだ。
「どんな場所でも違和感なく潜り込めることが、チャンスを逃さないコツだからね」
彼女はにやりと笑った。
「でもさ、見た感じここは金銀財宝ととびきり縁が深いお屋敷ではないように思えるけど?」
「ああその通りだね。ま、貴族だからって金目のものが唸ってるとは限らんさ。だが、金のなる木には当てがある。そいつはいただくよ」
「待って待って! やめてよ、ばあちゃん! ここの新しい領主様、私の命の恩人なんだ。危うく崖から落ちるところを助けてもらったし、旅支度もここまで来るまでの食事代も宿代も、全部
「それがあたしに何の関係があるっていうんだい。あんたまさか、このデルフィンに泣き落としとか、知人の情がきくだなんて、思ってないだろうね?」
「思ってないけど、ここはじじ殿の長年のおこぼれに免じてどうか……!」
デルフィンは眉根を寄せてアルチェを見下ろすと、鼻を鳴らして続ける。
「ジェノイーダのおこぼれはジェノイーダへの恩だ。孫だからって、自分からしゃしゃり出ていいもんじゃないね」
「そこをなんとか! 私、今無一文だし、対価にできるものが何もないんだ……じじ殿特製ルコットタルトを好きなだけ作ってあげるから、ここは見逃してよ。お願い!」
懇願するアルチェを、彼女は半眼で見やった。
「見逃してくれだぁ? ずいぶんと甘っちょろいことを言うもんだ。あんたそれでもあの男の孫かい!? ええ!? 盗られたくないってんなら、あたしを警吏に突き出してでもあんたが自分で守りな! ジェノイーダならそうしただろうさ」
まったく最近の若いのときたら甘ったれで困る、とデルフィンはぶつぶつ付け足すと、
「あたしは仕事があるんだ。文無しの
そう言い放って容赦なくアルチェを部屋から閉め出す。
「……どうしよう」
深緑の絨毯の敷かれた廊下に追い出されたアルチェは、内心頭を抱えた。
きな臭さや争いを嗅ぎつけることにかけて、デルフィンの右に出る者はいない。なにしろあの祖父に、その嗅覚や勘は野生動物をも
そしてひとたび事が起これば、盗賊デルフィンはその混乱に乗じて、価値ある物を根こそぎ持っていくだろう。彼女の辞書に、容赦という言葉は存在しない。
「……これはもうしょうがないな」
アルチェは観念することにした。女神の祟りに争乱の予兆、そして厄介な女盗賊。ここまで
全てが解決するまでの間、館に滞在させてもらう理由をなんとか考えなければならない。アルチェは唇を噛みながら、ひとまず元来た場所へと引き返した。
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