二話 アルチェの受難②
グランダル卿と並んで出国手続きの列に向かっていると、特急馬車の到着の報を受けたのだろう、上等官の制服を着た男が脇の建物から現れる。
「……いやだ! 私、やっぱり行かない!!」
グランダル卿に挨拶をするべく近づいて来るその姿に、いよいよ望まないことが決定的になってしまう気がして、アルチェは柄にもなく怖気づいた。思わず逆方向に走って逃れようとするが、さすがは幼い頃から見ていたグランダル卿だ。動きを予測していたようで即座に追いつかれて腕を掴まれる。
「アルチェ! 駄々をこねるんじゃない。お前は今日から立派な成人なのだぞ。みっともない真似はするな」
「大人が駄々をこねてはいけないなんて法律はないもん! 大体、今こねなくていつこねるっていうの!?」
言い返して手を振り払い、城壁の外から見えるように高々と国旗を掲げている鉄柱に全力でしがみつく。まるで樹液に固執する虫のようになっているアルチェを、グランダル卿は軽く引っ張った。
「屁理屈を言うんじゃない。大人しく来るんだ。儂はお前のじじいより年上なのだぞ!? 力比べで骨でも折れたらどうするつもりだ……!!」
「折れるのはグランダル卿の骨じゃなくて、私の心の方だよ! 大体、孫を国から追い出せってどんな遺言なの!? 私は行かない! 行かないったら行かない!!」
だんだん大きくなっていく声に、上等官以外の検問官や衛兵、出入国待ちの人々までが、何事かという顔でこちらを
「ザン! ぼーっと見とらんで手伝わんか!」
少し離れたところから二人を見つめている孫に、グランダル卿が怒鳴った。
「ごめん、お爺様。俺、貴族のくせに心が狭くてさ。自分の欲しいものを他の奴が手に入れるのに、手を貸すつもりはないんだ」
本音か、おむつをしていた頃からの友人への義理立てか、あるいは堅物の祖父が困るのが見たいのか、ザンバルは手伝う気がまるでないらしい。
「まったく、こんな力技の必要な条項を入れるなら、遺言執行人はもっと若い奴にするべきだろうが! あの男ときたら、本当に最後まで忌々しい……!!」
グランダル卿は舌打ちしてぼやき、さっきより力を込めてアルチェを引っ張った。
「後生だから見逃してよ、グランダル卿!」
「ならん! この遺言は絶対だ! 大体、条件を満たさんとお前はじじいの残した屋敷も金も、何ひとつ受け取れんのだぞ!? ささっと行って、ちょっと周遊してくればよかろう! たったの三年だ!」
「若者にとっての三年と老人にとっての三年は重みが違うんですー!!」
「誰が老害か!」
「空耳がひどい! 大体、さっきは自分でじじいぶってたくせに、都合のいい時ばっか老人ぶらないでいただけますー!?」
もはや恥も外聞もない言い合いは続く。
「アルチェ、これは正式に受理された遺言だ! 履行する以外、もう誰にもどうにもできんのだ!!」
「じゃあ遺産はいらない! 家もお金も、全部国庫に入れていいから!!」
「それがまかり通るなら、最初からそう提示しておるわ!!」
かなり力を入れて引っ張られているせいで、アルチェが両手でしがみついている鉄柱が頼りなくたわみ始めた。金属製とはいえ、丈ばかり高く太さがさほどないのだから仕方がないのだが。
「おーやーめーくーだーさーいーグランダル卿ー! 法務大臣ともあろうお方が器物損壊で逮捕されるおつもりで!? これ国旗ですよ!?」
「そもそもの原因が何を言うか!! 観念してさっさと手を離さんかい!! たとえ不本意であっても、国の外を見るのはお前にとって間違いなくいい経験になる!!」
「そんなこと言ったって、私はうちの国以外なんてこれっぽっちも興味ないんですよー!!」
「でーてーいーけー!!」
「いーやーでーすー!!」
両者は歯を食いしばり、互いに一歩も譲らない。検問官も衛兵も、国の大臣とその縁者の
「まったく往生際の悪い!! 普段の余裕ぶった小賢しさはどうしたというのだ!?」
「嫌なものは嫌ー!! 物事には許容できることとできないことがあるのー!!」
永遠に続くかと思われたその小競り合いは、次の瞬間、唐突に終わりを迎える。ふいに現れた背の高い筋骨隆々の男に襟首を掴まれたアルチェは、呆気なく柱から引き剥がされた。
「ルゴさんの裏切り者ぉ……」
グランダル卿の護衛であり、昨日今日と特急馬車の御者も兼任していたルゴシアスだった。停車場に馬車を停め終えて、様子を見に来たらしい。
彼は恨めしげなアルチェを片腕で吊り上げたまま、門の外へとゆっくり歩いていく。
「まぁそう言うな。恩あるジェノイーダ様に頼まれたからで、俺だってやりたくてやってるわけじゃない。だけどな、アルチェ。お前の祖父殿が、これまで一度だって意味のないことをさせたことがあったか?」
「……ううん」
それはアルチェも重々わかっていた。祖父ジェノイーダは、どんな時でも物事を深く見通し、必要なことを必要なだけ動かす男だ。それは他でもないアルチェが、誰よりも知っていることだった。
「だろう?ならこれは、お前にとってはきっとどうしても必要なことなんだ。……ああ、あと手持ちのものは没収するように言われている」
地面に下ろされ、気づいた時には唯一持っていたポシェットも取り上げられていた。
「それも駄目なの!?」
アルチェの困惑の叫びに、ルゴシアスは背を向けて歩み去りながら手を振るばかりだ。
間違っても戻って来ないように、ということだろう。彼が門内に入った途端、大門が重々しい音を立てて情け容赦なく閉められた。
「えっ!? おい!?」
「閉じちまったぞ!?」
当然、検問待ちをしていた人々の列も途中で分断され、唐突すぎる締め出しを食らってざわめいている。完全なるアルチェの巻き添えだ。
「アルチェ! これを持っていけ!!」
グランダル卿の声と共に、小ぶりな革鞄が門の上を飛び越えて見事アルチェの手元に飛んできた。おそらく投げたのはルゴシアスに違いない。グランダル卿は栄えある武術一家の生まれながら、
ため息をつきながら、中を確認する。身分証、ハンカチ、少し大きめのタオル、小さなメモ帳、万年筆が一本———……アルチェは思わず眉根を寄せた。
財布が入っていない。紙幣はもちろん、硬貨の一枚すら。言うまでもなく換金できそうな貴金属もなにもなかった。念のため奥まで探ったが、隠しポケットもなさそうだ。
「……」
現状すでに地獄であるにも関わらず、さらに嫌な予感がする。
「グランダル卿———!! 旅費は———っ!?」
門に向かって叫ぶと、
「〝無一文、着のみ着のままで行かせろ〟というご指定だ!! 言っておくが、儂は散々反対した! いくらおなごの皮を被った魔物と言えども、孫娘にそれはやりすぎじゃないかと!!」
彼なりの気遣いと、残念ながらそれでは到底相殺しきれない悪口が返ってきた。
「純真無垢のか弱い乙女に、この仕打ちの上に悪口ですか———っ!?」
「純真無垢のか弱い乙女なら、ファークラムの使者が裸足で逃げ出したりするか!! 文句なら譲らんかったお前のイカレじじいに言え! どうせその辺りの草葉の陰から、あのいけすかんにやけ顔で見ているのだろうからな!!」
無一文、着のみ着のまま、おまけに足元は頼りないサンダル。間違っても旅向きではない格好で突然母国から放り出されたアルチェは、やたらと晴れ渡った空を呆然と見上げる。
昔、故人を悪く言ってはいけないよ、と気の優しい父に教えられ、あまり数の多くない思い出のひとつとして、アルチェはそれを大事に守り続けてきた。
しかし、ここにきて予想もしなかったとんだ事態に叫ばずにはいられない。
「じじ殿の馬鹿ぁああああ……っ!!」
こうして、十六歳になったばかりのアルチェの波乱の旅は始まったのである。
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