二話 アルチェの受難①
まさしく、寝耳に水とはこのことだった。
「起きよ、アルチェ! いつまで寝ておるのだ。出かけるぞ」
「……グランダル卿? ……え、出かけるって、どこに……?」
ジャッとカーテンが開く音がして、部屋に引き入れられた暴力的な朝日に、アルチェは寝不足の目をしょぼしょぼさせた。祖父となにか話をしている夢を見た気がする。けれど、思いもよらない人物に叩き起こされた混乱で、それはあっという間に拡散して思い出せなくなった。
「城だ。明日、成人を迎えるにあたってお前が行くべき場所がある。ああ、格好は普段のもので良い。公的な謁見ではないからな」
後から思えば、たとえたっぷり夜更かしをした後であっても、この時点で異常事態だと気づくべきだった。
グランダル伯爵は極めて律儀な男だ。日頃からアルチェを孫のように扱ってくれているので、翌日に迫る成人の儀を祝ってくれようとするのは別におかしくない。しかし、先触れもなく前日から押しかけてくるような真似は、どう考えてもらしくなかった。
そうして訪れた王城で、アルチェはようやくじわりと滲む不穏な空気に気づく。もし祖父が生きていたなら、〝もう少し早く気づくように〟と渋い顔をされたかもしれない。城には幼馴染のザンバル・グランダルが一足先に来ていたため、今年成人する人間が集められるのかと思ったが、結局呼ばれていたのはこの二人だけだ。
その後、非公式の謁見を終えてすぐ、グランダル卿に追い立てられるようにして馬車に乗った。生まれて初めて乗車した王家所有の特急馬車は、アルチェたちを乗せて猛烈な勢いでノイエ・デュノーから離れていく。今思えば、アルチェに気取られて事前に策を練られないように、すべてのカードがぎりぎりまで伏せられていたのだろう。
馬車は途中で幾度も馬を替え、関門のある国境の町エノヒャルトにたった一日でたどり着いた。町では観光どころか、高級宿にほとんど監禁のような状態で押し込められて夜を越し———そして再び叩き起こされた翌日の早朝、関門に向かう馬車の中で、祖父の遺言の最後の相続条件が告げられたのだ。
「『また、相続人アルチェ・ヴィンスカーは十六歳を迎える日にリヴァルト王国より速やかに出国し、その後丸三年間、リヴァルト王国内に踏み入ってはならない。これらの条項をすべて満たした場合にのみ、相続人アルチェ・ヴィンスカーに遺言者ジェノイーダ・ヴィンスカーの有する全ての財産を相続させる』……意味はわかるな?アルチェ」
思いもよらない宣告に黙りこくったアルチェの代わりに、ザンバルが
「待ってお爺様、それってどういう……」
「言葉そのままだ」
「アルチェを強制的に外国に行かせるっていうのか……!?」
同行していた割になにも知らされていなかったらしいザンバルは、アルチェ以上に驚愕している。まぁ控え目に見積もっても隠し事が得意ではない彼に教えては、アルチェに勘づかれるから伏せていたのだろう。とはいえ、いくらなんでも友人の見送りの一人もないのは哀れだと思って、連れてきたに違いない。
「……」
アルチェは渡された遺言状を舐めるように見つめ、なんとか抜け穴はないかと必死で探した。しかし、なにしろこれを作成した相手は国一番の法の専門家だ。万に一つも抜けなどあるはずがない。
「……ここはひとつ、グランダル卿のお茶目な冗談ってことでお願いしたい……」
「なぁ、アルチェ。冗談だなんてそんな器用な真似ができたら、お爺様が奥さんに二人も逃げられてるわけがないだろ?」
「黙れ小僧。地下部隊に送り込まれたいのか」
「ごめんなさい偉大なるお爺様」
余計なひと言でいつものように祖父の不興を買ったザンバルは、慌てて亀のように首をすくめて口を閉じた。
「残念だが、アルチェ。どのように弁を
その無慈悲な返答に、どう頑張っても事態は
「そうか……アルチェは国の外に行くのか……俺は今、君として生まれなかったことを猛烈に後悔してる」
「……追放される傷心の幼馴染にかける言葉がそれなの? ザン」
「だって羨ましい! 控え目に言っても羨ましすぎる!!」
確かに、昔から近隣国への留学を希望していたのに、家の事情で許可が出なかった彼にしてみればそうなのだろう。国の外に出たくてたまらない人間が留め置かれ、国の中にいたくてたまらない人間が追い出されるのだから、人生というものはどうにも度し難い。
「……もう間もなく着くぞ」
窓の外を見ていたグランダル卿が、覚悟を促すようにそう呟いた。
ザンバルは珍しく困ったような顔をして、不機嫌に横倒しになったままのアルチェを見つめている。この赤毛の友人はグランダル家の他の兄弟たちと比べてあまり貴族らしくなく、失言もしがちだったが、裏表がなく寛容なため付き合いやすかった。
三年という期間を考えると、幼い頃から一緒に励んできた
「〝大丈夫だとも、
これはこの国の建国者ルーダン・リヴァルトの言として有名な言葉だが、アルチェやザンバルなど仲の良い友人たちの間では、ある種の合図になっていた。それは例えば友人の一人が巻き込まれた不条理に抵抗する時に、それは例えばとびきりの悪戯や悪ふざけをしたい気分の時に、それは例えば要求されたものとは異なる自分の意思表示をしたい時に、誰からともなく言い出してきたものだ。
「そうとも! 我が友のためならば、この運命潔く譲ろうではないか! 今日から君がアルチェ・ヴィンスカーだ!」
そうわざと
「やった! 私がアルチェだなんて夢みたい! じゃあザンバル・グランダルの方は任せるね」
「任されよう。君が戻ってくる頃には、スタラッツもグランダル傘下におさまってるさ」
スタラッツというのはグランダルと折り合いが悪い伯爵家で、学校ではそこの子息がたびたび接着剤よろしくザンバルに絡んでいた。
「なにそれ最高」
そうこうしているうちに馬車は停車し、アルチェの真似をしているザンバルが扉に手をかける。
「じゃ、行ってくるね」
「いってらっしゃい。気をつけてな、アルチェ」
と、ザンバルの真似をしているアルチェが手を振ったところで、
「茶番はそこまで」
いつものようにグランダル卿が二人を制止し、立ち上がった。彼はしばらく黙ってアルチェを見つめた後、静かに口を開く。
「行くぞ、アルチェ」
「……はい」
馬車を降りたアルチェの前には、重厚な石造りのそびえ立つような門があった。側にはたくましい衛兵が武器を手に並び、検問官が忙しく立ち働いている。入国する者、出国する者がそれぞれに列をなし、辛抱強く手続きの完了を待っていた。
「ここに来たのは初めてか?」
「ううん。小さい頃にじじ殿と一度だけ来たよ」
「……そうか」
あの時はこの荘厳な門が、大切なものを守る象徴として頼もしく見えたものだ。けれど今のアルチェには、この門こそが自分と大切なものを隔ててしまうように思えて、ひどく不安だった。
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