一話 女騎士の帰郷②

 たどり着いた山小屋の中は、やけに埃っぽかった。エゼッテ山はそこまで標高は高くないため、朝早く登り始めれば午後には余裕をもって抜けられる。よって山中でわざわざ泊まる者はほとんどおらず、小屋の整備は後回しになりがちなのだろう。

  

 少女は名を、アルチェというらしい。渡した薬液で彼女が傷を消毒している横で、リフィーリアは破れた上着チュニックを縫っていた。騎士団の訓練や遠征で何かしらが破れるのはよくあることなので、つくろい物も多少は心得ている。とはいえ、リフィーリアは剣の腕はそれなりにあったが、細かい作業はあまり得意ではなかった。縫い目が綺麗に揃っていないのはご愛嬌だ。

  

「本当に、何から何までお世話になってしまって……」

「構わないさ。私も困った時に、行きずりの人に助けてもらったことが何度もあるからね。……ところでだ、アルチェ」

  

 リフィーリアがやや強引に同行した理由は、少女のその出立いでたちだった。彼女はあまりにも登山にそぐわない格好をしていたのだ。

  

 気候の良い時期であるから、生地が薄いことは大目にみてもいい。しかし彼女の上着にしろキュロットにしろ、そですそも末広がりの上、七分丈くらいで肌が露出していた。山は毒虫やひるとは切っても切り離せないため、これはいただけない。

  

 おまけに荷物は、わずかなものしか入らなそうな小さな革鞄がひとつきり。救急用品はもちろん、山につきものの気温差に対応できるような羽織はおりものさえ持っていない。小屋に向かう道中でそれとなく聞いたが、転がり落ちてくる最中に無くしたのではなく、元々所持品がこれで全てらしい。

  

 なにより極めつけは、その足元だ。彼女の履いている底の薄いサンダルでは、荒れた山道はあまりに危険だった。ひょっとしなくても、転がり落ちてきた原因はそれなのではないだろうか。

  

「余計な世話かもしれないが、山に入る時はもう少し装備を整えた方がいい。急に天候が変わったり、不測の事態が起こることも考えられる。特にそのようなサンダルでは足元が危険だし、体力を消耗しやすかったりして体に負担がかかると思うよ」

「仰るとおりです……実はその、私としてはパン屋に買い物に行くぐらいのつもりだったので……普通に街に行く格好で出てきてしまって」

  

 アルチェは薬液の蓋を閉めながら、困ったように苦笑する。

  

 ———そこからなぜ、山から転がり落ちるような事態に?

  

 リフィーリアは思わず首をかしげた。

  

「……まさか、この山にパン屋があるのかい?」

  

 知る人ぞ知る隠れ家的な店であれば、あり得なくはないかもしれない。ただ、ここまで歩いてきた限りでは、パン屋どころか建物すら見かけなかったが。

  

「いえ、私が行こうとしていたのはノイエ・デュノーのパン屋なんです」

  

 アルチェの言葉に、リフィーリアは反射的に自分の耳の方を疑った。

  

「……ノイエ・デュノー?」

  

 念のため聞き返すと、彼女ははっきりと頷く。

  

「はい。ノイエ・デュノーの〝踊る麦穂亭〟というパン屋がとても美味しいんです」

  

 聞き間違いではなかった。リフィーリアの困惑が深まる。

  

「……じゃないか」

  

 そう、ノイエ・デュノーというのは、このルギオラ帝国の隣国のひとつ、リヴァルト王国の首都の名なのだ。

  

 ———まさか迷ってここまで……?いや、ドルシーじゃあるまいし、まさかな……

  

 隊の同僚にドルシオン・ティーカーという、神に二物も三物も与えられた有能な男がいたのだが、彼にはひとつだけ大いなる欠点があった。壊滅的に方向感覚がなかったのだ。口頭で説明しようが地図を渡そうが、目的地に辿り着けないのは序の口である。普段住んでいる帝都の中はもちろん、騎士団の宿舎の中ですらよく迷子になっていた。方向感覚を根こそぎ母の腹の中に忘れてきた、というのが酒を飲む時の彼のぼやきの定番だ。

  

 リヴァルトは周辺諸国に比べれば規模の小さい国とはいえ、それでも首都ノイエ・デュノーからこの国境近くまで数日はかかるはずだった。いくらなんでも、途中であらぬ方向に来ていると気づくだろう。

  

 ———あるいはドルシーを凌ぐほどの、超弩級方向音痴なのだろうか……

  

 そんなことを悶々と考えていたリフィーリアの横で、アルチェは頬を掻きながら口を開いた。

  

「いやぁ、私は旅に出るつもりなんて毛頭もなかったんですが……実は今朝方、国から追い出されちゃいまして」

  

 なんでしたら一生、リヴァルトの外に出るつもりなんてなかったんですけどね、と彼女は続ける。

  

「……追い……出された?」

「ええ。まさかじじ殿が……祖父があんな遺言を残しているなんて、知らなかったもので。油断していて、完全にしてやられました」

  

 とんでもないことを口にしながら平然とアルチェは笑い、自分の身に降りかかった青天の霹靂へきれきについて話し始めた。

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