第八話 『ないたら手をつないでね』
わたしは出生届も出されなかった。
わたしは家のお風呂場で生まれたのだ。わたしの誕生の瞬間を見届けたのは母だけだったらしい。
戸籍的には生まれたことにすらなっていないわたしは、保険証が作れないから病院に行ったことはないし、学校にも行ったことはない。公園で遊んだことのある同年代の子どもが親に迎えに来てもらうのを見るたび、わたしは家に帰ってから何度も泣いた。
夏祭りのことを覚えている。六歳だか、七歳くらいのころに母とともに行ったのだ。そのころ住んでいたのは東京ではなかったから、人もさほど多くはなかった。
寝苦しいほどの暑さだった。屋台から出る煙の色と、お囃子の音楽。そのときに母が買ってくれた金魚の色と、母の笑顔を覚えている。母はわたしを覚えているだろうか。
母はわたしを捨てて幸せになったのだろうか。
ハナは体の正面でバッグを抱きしめ、その手に地図を握り早足で歩いていた。きっとすれ違う通行人は彼女が抱きしめているバッグの中に、タオルでぐるぐる巻きにしただけの包丁が入ってるなんて思いもしないだろう。ハナはそれをほとんどお守りがわりにしていた。理不尽な暴力から自分の身を守ってくれたお守りという意味では、確かに合っているけれど。
どうして急に、父親を殺してしまったのかはわからない。でも、その日のハナはとにかく無我夢中だった。いや、ずっと無我夢中だったのだ。それにずっと自分が気付かなかっただけ。
やってしまえば簡単なことだった。どんなに自分より体が大きくて、力が強くても、一回刺してしまえば相手は逃げ腰になった。公園での、あの見知らぬ男もそうだ。あのときは包丁を肌身離さず持っていてよかった。佐川の家でも中々寝つけなくて、彼女に借りた服を着て公園でぼーっとしているところで急に殴られた。父親とその光景がダブって見えたから、もう一度刺した。二回目の殺人は、一回目ほど動揺することはなかったけれど、でも佐川の家に帰ってきてから急にぜんぶ怖くなった。あの人に迷惑がかかるかもしれないと、こんなゴミみたいな自分に優しくしてくれた人が、自分という犯罪者と関わってしまっているのが死ぬほど怖かった。
だからもう迷惑はかけないと決めた。
殺した父親から奪った携帯にあった電話番号は、ぜんぶメモ帳に記録していた。佐川が古いスマホを貸してくれたから、それで片っ端から電話をかけた。砂丘から砂金を探しあてるような行為だったとは思うけれど、母の名を知っている人物とつながったのは僥倖だった。ハナはそうやって連絡先をたどって、母の働いていた店を知ったのだ。家にいないあいだ、佐川がパソコンを「自由に使っていいよ」と貸してくれたのも、調べるのに役立った。
ハナはふと足を止めた。目の前にあるビルを見上げ、そこに書いてある看板と、自分の手に持つ地図に書きこんだ店名を見比べ、一致していることを確認する。すっと大きく息を吸い込み、おそるおそる一歩を踏み込んだ。
階段で二階にあがる。店の鍵はかかっていなかったから、それをゆっくりと開ける。来店を知らせるベルが鳴って、革靴の足音がすこし焦ったように近づいてきた。店員のようだった。明らかに未成年にみえるハナを見て、困惑したようにその表情を変える。
「なんだ……ビルの階層でも間違えたのか? ここは子どもがくるようなところじゃ、」
「あ、麻田英子」
店員が目を見開く。ハナは泣きそうなまま、震える声で必死に自分の願いを紡いだ。
「麻田、英子……という人を、知っていますか」心臓が力強く肋骨を叩いている。「は。母なんです。お──幼いころに、別れたっきりで」
「────」
「さがしてて。ずっと……、こ、ここで働いてた、って聞いて。──い、いますか?」
* *
法定速度ギリギリで車を新宿へと飛ばす三木。その隣で乙津がスマホで店名を検索し、「このキャバクラだ」と言ってカーナビに目的地を設定する。同時に無線機を取り、怒鳴るように本部へと連絡を入れた。
「至急至急、警視二七より警視庁! 容疑者と思わしき十五歳前後の少女が、凶器の包丁を持ったまま母親へ会いに新宿区八丁目にあるキャバクラ、店名WAVEへと向かった模様。自殺、または殺害をほのめかす内容のメモ書きが滞在していた家に残されており、二ヶ月前に起こった千代田区殺人事件への関与の疑いもあり! 至急少女の足取りを確認されたい」
乙津のあまりにも急展開すぎるセリフにもほとんど動じることはなく、向こうの相手が『警視庁了解』と冷静に無線を返す。付近の空いているPM(警察車両)は店へ急行せよ、と無線機から流れてくるのを三木もしっかりと捉える。
乙津は次に店への電話をかけた。営業時間外だが、もしかしたら誰かが出るかもしれないという望みをかけていた。だが十コール以上繰り返しても電話が応答される様子はなく、「クソ!」とスマホに怒鳴りながら車を乱暴に蹴る。三木はひい、と情けない悲鳴が出そうになるのをグッと喉奥でこらえた。
『至急至急、警視庁から各局、警視庁から各局』
「あ?」
切れたばかりの無線からまた音がする。荒ぶっていた乙津はわずかに落ち着きを取り戻し、ガシガシと頭をかいてその無線に耳を傾ける。三木も運転に集中しながら、無線特有のガサついた声を聞いた。
『新宿署管内にて十五歳前後の女性が包丁を持ち歩いていたとの入電アリ。マルヒは水色のシャツ、長袖の黒いパーカー、青のジーンズを着用、黒のリュックサック』
「……ハナちゃんだ……」
三木が呟いた。そうだとしか思えなかった。乙津は何も言わない。
『マルヒは北青山、北青山の三丁目──』
「北青山?」
乙津が呟く。ちょうど信号に引っ掛かって車が止まった。乙津と三木はパッと顔を見合わせ、同時に勢いよく真上の青看板を見つめる。
そこには白い文字で、確かに『北青山』と書かれていた。
* *
ハナはアパートにいた。東京都のこんな物価の高い土地にあるなんて考えられないくらい安そうなアパートで、錆びた赤色が目立つ取っ手のドアノブは、包丁を何回か振り下ろせば簡単に壊れた。ハナは土足のまま中へと侵入する。捨てるつもりだったのか溜めているのか、ゴミ袋がすでに二、三積み上がっていた。片づけが下手な家の典型、という感じだった──ゴミを捨てるの、へたくそだったみたいね。
わたしのことは簡単に捨てたのに。
ハナは進む。廊下に泥のついた足跡が残されていって、死にたくなるほど惨めな気分だった。リビングまで来て、埃のたまった机を靴で蹴っ飛ばす。ガツンと音が鳴って、じんわりつま先が痛んだ。あ、ああ、と途切れ途切れの叫び声が聞こえる。自分の声だってわかっている。でもそれはどこか水中で聞いているような感覚で、現実感が全然なかった。
全部めちゃくちゃにしてやりたかった。ハナは包丁を振り回して、壁に突き立てて、床の畳をがむしゃらに切り裂いた。人間のほうがもっと柔い。畳は随分固いみたいだ。生物だったらもっと楽に殺せるのに。
──ちくしょう、死ね。死ね。全部死ね、全員死ね!
ぼろぼろと涙が溢れる。なんで泣いてるのかわからない。つらいから泣くとか、怖いから泣くとか。そういうのは、もうハナにとってぜんぶどうでもよくなってしまった。痛いから泣くのであれば、ハナはもう、ずっと泣いていた。
死ね。みんな死ね。
「……わたしもしね、」
人を二人も殺したわたしも死ね。
ハナはスウと息を吸い、首に包丁を当てた。何回も人を刺して切れ味の悪くなった包丁だ。きっと苦しんで死ぬな。そう思った。
それなら随分と、都合がいいな。
* *
──三木が止める暇もなかった。明らかに人為的に壊された玄関を蹴り飛ばして中に入った乙津は、あっという間にハナに向かって一直線に駆け出していった。玄関から真っすぐに通り抜けた廊下から見えるハナの姿が、一回瞬きしただけでいなくなっていた。
「お──乙津さッ、」
土足だっていうのも関係がなかった。乙津のなびいた黒髪に手を伸ばすように追って、二人のいたリビングまでの数メートルを走り抜ける。
「────」
赤い血が、乙津の右腕から垂れていた。ハナが首に向けていた包丁を振りはらって、腕がパックリと切れていたのだ。長袖のシャツはなんの防御にもなっておらず、白い服がじんわりと血に染まっていく。ハナが取り落とした包丁が転がっているのを見て、三木はすぐに拾って二人から遠ざけるために部屋の隅へ放り投げた。
「……っ、」
日常生活でおよそ感じることのない苦痛に、一気に玉のような汗が噴き出る。乙津は突き飛ばしたハナに目線を合わせるようにしゃがみこんだ。
「……死んじゃだめだ、」ハナは呆然としたまま、急に現れた二人の人間をぼうっと見つめている。乙津は膝をついて、彼女の手を握る。「死んじゃだめだよ」
ハナはその言葉を聞いた瞬間、くしゃくしゃに顔を歪めて、涙をぼろっとあふれさせた。けれどその口角だけは不自然に上がっていて、「は! ……はは!」と笑いはじめる。三木はあまりの異様さに、おもわず一歩後退った。
「はは、ははは……! お、おかあさんは死んだのに!?」ハナは泣きながら笑っている。泣けばいいのか笑えばいいのか、もうどっちもわからなかった。「私に暴力をふるってたお父さんはいない!! 私が殺したから! お母さんもいない! 私に金魚を買ってくれたお母さんなんて、ず、ずっといなかった! いるのは私のこと捨てたお母さんだけ!!」
ハナは頭をかきむしるように髪に手を差しこむ。ふ、ひぐ、とへんなタイミングで息を吸う音が、安っぽいアパートの一室で響く。
「きゃ、キャバで働いてたんだって、お、おかあさん。なんで、なん……っけほ、なんでそんなことしてたか知ってる? ──暴力団と! 付き合って! クスリやってたんだって!!」
子ども特有の、甲高い絶叫がふたりの耳を叩いた。乙津はいっさい動じずに、まだ血の溢れる患部を反対の腕で押さえながら「知ってるよ」と静かに呟いた。ここに来るまでに、班長からの情報共有で聞いた。ハナはくしゃ、とまた表情を歪める。あの場所での店員との会話が頭の中でまたリピートされる。
『──そ、それって、いつ』
『十……、十二年前とか、たしかそんくらい! し、知らねえよ、オレも! 酒で酔ってるときに先輩からそういう話を聞いたっていうだけでさあ! 暴力団とか、オレもそんなん関わりたくねえし、ウソかホントかもわかんねえしさあ……!! だからッ、オレなんも知らないんだって、殺さないでくれよ……!』
包丁を向けてまで脅したのだから、たぶんあの店員の言っていることも合っているのだと思う。だって、十二年前はハナが三歳の時だ。──母が出ていった時期と一致する。
ふうう、とハナは荒く息をして、自分の肩をかきいだく。守るように抱きすくめたその拍子に、彼女の袖がめくれて、青黒いアザがちらりと見えた。乙津はなにも言わなかった。
「なんだよそれ! なんだよ!」
ハナの叫びに、三木は立ち尽くしていた。こんな子どもが、これだけ真剣に怒って、感情を爆発させる場面なんて見たことなかった。酔っ払った大人がキレる場面なら何回も見てきたけど、そんなのとは全然、質量も手触りも違う感情だった。──だって、この子は泣いているのに。人を確かに殺してしまったけれど、泣いているのに。
「さ、最後はさあ、借金払えなくなってリンチで殺されたって……きいてさあ……」
ハナの声がだんだんとか細くなっていく。上がっていたはずの口角がじわじわ下がって、ひぐ、と鼻をすすった。
死ぬなら。どうせ死ぬなら。
「幸せになって死んでくれよ……」
ハナの呟きに、乙津と三木は一言も返せなかった。ハナはダン、ダン、と拳を握って床を叩く。
「どうせ死ぬなら幸せのまま死ねよ。なんだよ、それ。……なんだよ……」
わたしを置いていったことがあなたの幸せになったんだと思わせてくれよ。じゃあなんで置いてったんだよ。娘を暴力男のとこに置いていって、自分はゴミみたいに死んでいって満足かよ。
「幸せになって死んでくれてたら──そしたら楽だったのに」
ふざけんなよ。
あなたが幸せになって死んでくれていたら、そうだったのなら。
わたしはあなたのために不幸になったのだと思えた。
わたしがあんなにつらい思いをすることで、あなたがいくらか救われているのだと、そう思えた。
「こんな思いするなら、もっと早く死んでればよかった」
沈黙が下りる。誰もなにも発さない。西日がカーテンの取り払われた部屋のなかに差して、三人の影を長く形作った。
「……そんなこと言うなよ……」
三木はぽつりとそう言って、ゆっくりと乙津に近寄った。自分の上着を脱いで乙津の患部に巻きつける。う、と痛そうな声が漏れたけれど、乙津は文句もなにも言わなかった。その代わりに三木の目をじっと見つめる。夏のせい以外の汗が、三木の首筋を滴っておちていく。
三木はハナのほうに向きなおって、泣きくれる彼女の傍に膝をついた。
「人は死ぬもんだよ。その人が犯した罪の重さに関わらず、為した善に関わらず、死っていうのはいつも……、理不尽で、突然で、誰しもに降りかかるものだ。それ、それはさあ、絶対に誰かの意思でなされちゃだめなんだよ。自殺でも、他殺でも」
ハナの手を握った。手の甲には根性焼きの痕がいくつもついていた。
「おれはきみが今まで生きててくれて、本当によかったよ……」
ハナは眉をぎゅっとさげて、うそだあ、と言う。だって、あなた、ぜんぜん知らない人なのに。いま初めて会った人なのに、わたしに死んでほしくないっていうの? それっておかしくない? お父さんはわたしにいっつも死ねって言ってたのに。
乙津は「うそじゃないよ」と優しく言った。ほんとうに優しい声だった。
「戸籍がないことは、現代の日本において、とんでもないハンデだ。……だけど戸籍がないからって、きみの人権が他人に侵害される理由にはならないんだ」乙津は血が抜けて青白い顔で、正直今すぐにも倒れこんでしまいそうなくらいだったけど、必死に言葉を紡いだ。「そして司法が介在することなく人を殺していい理由も、日本にはない」
ハナは黙っている。土砂降りの雨みたいに零れる涙を、ぐすぐすとパーカーの袖で拭った。
「きみはもう、二人の人間を殺した。誰も戻らない。何も取り返しがつかない。……だからきみは、きみを殺しちゃダメなんだ。それだけは、それだけはまだ取り返しがつくんだから」
きみは子どもなんだから。
乙津の言葉を聞いても、ハナは首を振った。
「……もう人生終わりだよ、戸籍もないし人も殺したよ……」
「終わらない。きみが思うより、きみの人生はずっと長く続く。それは今まできみが生きてきた人生よりも、ずっとずっとよくなるはずだ。取り戻せなくても、やり直すことはできるんだ」
無理だよ、とハナはまた泣きながら笑った。そんなんむりだよ、きれいごとばっかり言うなよ、と強い口調で乙津を責めた。
だけどハナは、乙津の服を握った。
乙津はその手を、しっかりと、絶対に失ってたまるかと、握りしめた。
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