第七話 『春を手折る』
相変わらず乙津は運転していた三木を
玄関のチャイムを乙津が鳴らした。だが、そのチャイムが鳴り終わるより前に、中から駆け出してくる足音がする。乙津と三木が顔を見合わせたとき、
「──ハナちゃん!?」
勢いよく扉を開けた佐川は、チャイムを鳴らしたのが期待していた人間ではなくこの二人だと理解した瞬間、力が抜けたように肩を落とした。半ば絶望したような表情で、どうしてあなたがたが、と彼女は呟く。靴を履くこともしないで飛び出してきた彼女は、土間に裸足のままで踏み入れている。
「それはこの子のことですか」
崩れ落ちる寸前ともいえる佐川に、乙津は容赦なく現実の言葉を浴びせる。俯いていた顔をゆらりとあげた佐川は、その焦点を彼女の写真に合わせた途端に目を瞠る。そうして諦めたような表情で、乙津のことを見返した。その反応で、ハナイコール赤井リンゴである、と二人の脳でも結びつく。
ハナちゃん。三木は頭の中で繰り返した。リンゴちゃんではなく、ハナちゃん。それが、あの子の名前。
「二ヶ月前の、千代田区の殺人事件を覚えていますか。──その現場にこの子は住んでいた。そして一ヶ月弱ネットカフェで寝泊りを繰り返し、いまはあなたの家に住んでいる」
「────」
「お話、お聞かせ願えますか」
佐川は足を引き、フローリングの廊下へと上がる。その瞳はもう凪いでいた。
「どうぞ上がってください。……すべて話します」
「……拾ったんです。比喩ではなく、ほんとうに」
バカみたいな話で、嘘みたいな偶然だと、私だってそう思う。けれど刑事さんふたりは、何も言わないで私の話を促してくれた。動悸のする心臓を服の上からぎゅっと押さえて、私はまた口を開く。
「雨の日……、大雨警報が発令されるくらい、すごい雨が降った日がありましたよね。そのときです」
公園の遊具の下で、寒そうに息を吐いて、その熱で自分の指先を温めていた。その光景を見た瞬間、幼いころのことが一気に頭の中に蘇った。
「……私のことは調べましたか?」
女性の刑事さん(乙津さんだったっけ)は躊躇なく肯いたけれど、男性の刑事さんは(こっちはたしか三木さん)申し訳なさそうに眉尻を下げながらこくりと顎を引いた。対照的なふたりにすこしだけ笑ってしまいそうになった。仲がいいのかな。そうだといいな。
「小さいころ……、親がイライラしてるとき、私もそうしてたんです。殴られて痛い思いをして外に出るより、自分から外に出てる方がよっぽど気持ちが楽だった。そっくりだったんです、あのころの私と」
親に殴られたことがないって人には、きっと何もわからない感覚なんだろう。親に暴力を振るわれたことがない人は、『殴る』とか『叩く』とか、そういう選択肢が頭に浮かんでこないって聞いたことがある。私はどうしようもなくイライラしたときに、必ずその選択肢が浮かんできてしまうのに。──絶対になりたくない親と、全く同じ行動を頭の中に描いてしまうのが、私はとんでもなく怖いのに。
「声をかけて。……だ、だって、可哀想で。私は──私は、だれかに、助けてほしかったから」
絶対に彼女には不審者に見えていただろうけど、でも彼女は、私の『家に来る?』という提案に頷いてくれた。びしゃびしゃになった服を、私のもう着なくなっていた服と交換して、ご飯を振る舞って。ありがとうございました、出ていきます、って言った彼女をなんとか引き留めて。
「おいしいね、って言ってくれるんです。今まで自分のためだけに作っていた食事を、ハナちゃんが……。それ、それだけで私、すごく嬉しくて」
あのころの自分を助けられたみたいだった。
「あの日──事件の日は、」
刑事さんふたりが体を固くして、僅かに身を乗り出したのがわかる。言わなくて申し訳なかったし、今になって言い出すのも、申し訳ないと思う。私は正しくなかった。だけど、正しくあろうとしていたのも、確かだ。
「じ──事件の日、私は、本当に会社にいたんです。それで朝、家に帰ってきたら、ハナちゃんが怯えてて、ふ……、服も、血だらけで」
私は慌てて彼女に怪我はないか確認したけれど、彼女は首を振った。私は何も理解できなかったけれど、なにもかもを理解した。泣きながらごめんなさい、迷惑をかけてごめんなさいと謝る彼女を抱きしめて、その服を全部捨てた。
守ると決めた。拾った時からそう決めていた。そしてその日、私はハナちゃんに「守るよ」と言ったのだ。どんなことになっても、この子の味方でいると。
佐川は顔を覆った。クーラーの効きが悪いのか、部屋にはじんわりとして重苦しい空気が明らかに沈殿していた。
ヴーッ、と不意に乙津の電話が震える。素早く確認すると、班長からの電話だった。流石に無視して切るわけにもいかず、「失礼」と告げていったん部屋の外へ出る。
「ハナちゃん……、が、学校へ行きたいって言ってました。戸籍がないって。だから保険証もなくて、学校も通えなくて……、勉強してみたいって。ともだちがほしいって」
佐川はぼろぼろとそのまなじりから涙を溢れさせて、声を震わせる。からだを縮こまらせて泣く佐川に、三木は固まっていた。どうすればいいのか、なにもわからなかった。「さ、……佐川さん、」と彼女の名を呼ぶだけの舌を引き千切ってしまいたかった。本当に自分は役立たずだ、とそのとき心の底から思った。
「その夢をかなえてあげたかった。そうすれば、あのときの私を救えると思った……」
夢を叶えるのは佐川ではない。
ハナの夢だったのだ。
「────」
乙津が電話を切って戻ってきたて、椅子に座り直す。「なんでした」と訊ねる三木に、黙って聞いてろとだけアイコンタクトで伝える。
「佐川さん。千代田区の殺人と今回の殺人、刃物の形状が一致していると判明しました」
「────」
「どちらもハナが殺したんですね」
佐川は答えなかった。答えなかったことが、もう答えだった。
三木は絶句して、もう一言だって声を出せなかった。暑い。気温のせいだけではない不愉快なほどの熱さが、三木の体の中にくすぶっている。シャツに汗がじっとりと滲んでいるのがわかる。
写真に映っていたあんな少女と、二人の人間を殺した殺人犯がイコールで結ばれるなんて、三木には到底信じられなかった。
「じゃ」
震える声が、か細く三木の喉から出る。吐き気がしそうになるのを必死にこらえて、三木はギュッと目を瞑り、腹から言葉を絞り出した。
「じゃあ、ハナちゃんは今、どこにいるんですか」
佐川は目のふちを腕で乱暴に拭い、一度椅子から立ち上がった。そして小さな収納棚の引き出しの一番上を開け、紙を取り出す。たった一欠けら。メモ帳の切れ端。
『今までありがとう。ぜんぶおわらせてくるね。もうめいわくはかけないから』
「──ッ包丁は!?」
その文面を見た瞬間、乙津は怒声を叩きつけるように浴びせた。三木でさえびくりと肩を震わせ、佐川はきゅっと肩を跳ねさせる。
「ぁ……、や、い、いつも、肌身離さず持ち歩いてて。いまもたぶん、」
三木は目を見開く。そうだ。凶器はまだ見つかってない。いつも持ち歩いているということは──まさかいまも?
「ハナの居場所に心当たりは、」
乙津の問いかけに泣きながら首を振る佐川。それはそうだ。乙津と三木が訪れたとき、彼女は自分たちのことをハナだと思うほど焦っていた。ハナが急にいなくなってそれを心配していたのなら、心当たりのある場所があればとっくにそこに探しにいっているだろう。
乙津は唇を強く噛むと、全く遠慮がない歩調で部屋の奥へと侵入していく。「ハナの使っていた部屋は!」と怒鳴るように訊ね、佐川の「そ、その右の部屋で」という言葉を聞くなり該当する部屋を勢いよく開けた。流石に止めようと腰を浮かせた三木が声をかけるよりも早く中に這入る。
乙津はサッと部屋の中に視線を走らせる。ごく普通の部屋で、本棚が右手の壁に沿って設置されていた。小さく簡易的な机と椅子が設置してあって、奥にハナが使っていたであろう布団が丁寧に畳まれた状態で置いてある。
「────」
机と椅子の横に小さなゴミ箱が置いてあった。乙津は大股でそのゴミ箱に近づき、躊躇なく中に手を突っ込む。後ろから追いかけてきていた三木が「な、なにしてんすか」と恐る恐るといった風体でのぞきこんだ。
中に入っていたのは大量のメモ用紙だった。びっしりと数字が書かれたそれは、よく見れば電話番号であるということに気づく。ただ番号になにか規則性があるわけではなさそうだ。
まだ数枚ゴミ箱の中に残っている紙を三木は続けて取り出した。そのうちの一枚は、電話番号だけではなく人の名前が書いてある。その右に走り書きされたなにかの店名と、新宿区の番地。
「乙津さん、これ」
「あ? ──」
その名前を見た瞬間、乙津の喉から明らかに空気を吸い込む音がした。彼女の肩が強張り、黒曜石の瞳が丸く見開かれる。硬直してしまった彼女に、三木は「乙津さん?」と不安げに言う。
「──殺された家主の、元交際者だ」
「え、」
驚きの声を漏らしたのは、三木ではない。バッとふたりが振り返ると、佐川は「え、……え、そんな、」と明らかに動揺し口許に手を当てる。佐川の脳に描き出された最悪のストーリーは、何一つ声に出されなかったけれど、この場にいる全員が似たようなことを思い浮かべていた。
なんです、と硬い声を出した乙津。佐川は反射的に、訊かれたから思わず、という様子で声を出した。
「こ、子どもの頃に出ていた、って。顔も覚えてないけれど──いつか会いたいって──」
ハナから聞いた話なのだろう。段々と声がかすれていく佐川は、その場所にへなへなと崩れ落ちた。『
乙津はギリッと歯を食いしばり、弾丸よろしくその場から飛び出した。は、と一拍遅れて三木もその後を追うように部屋を飛び出す。
「待っ……! 運転すんのおれでしょーがッ!」
そう叫びながら三木が玄関を飛び出していったあと、佐川はふらつく頭をなんとか抑えながら、ハナに明け渡していたその部屋を見回した。綺麗に整理整頓された部屋は、もう帰ってくることはないという意思なのだろうか。
迷惑だなんて思ったことなかったのに。
社会人になっても付きまとった幼少期の影を、一月足らずで晴らしてくれたのはハナだったのに。
「ハナちゃん……」
おねがい。どうか無事でいてね。どうかこれ以上罪を重ねないでね。
そしてどうか、また私の料理を食べて、おいしいって言ってちょうだいね。
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