第六話 『踊り場で泣いた朝のこと』

「佐川の家から出てきたんだよ。この子が」


 乙津は写真をトントンと叩いて、そう言った。勝手に業務時間外に佐川の家を張っていたら、空き巣として侵入したわけでもなく、ごく普通に鍵を使って彼女の家に入り、ごくふつうに出てきたのだという。佐川の血縁関係は調べたけれど、写真の子の年齢と見合うくらいの親族は彼女にはいなかった。十中八九赤の他人だ。


「で、なんでネカフェなんすか?」

「この女の子のこと調べんだよ」


 乙津が周りのネットカフェを調べにいく、と言うからついてきただけの三木。乙津の意図を訊ねるそれに、彼女はぴらぴらと写真を振ってそう言った。けれど答えの意味もわからない。


「……ようするに、こいつは家出少女かなんかじゃないか、って話だ。佐川は施設出身だったんだろ? 似た境遇のこの子にたまたま家を貸して、シェアハウスだかでもしてるんじゃないかっていう」


 泊まる場所がなくても、ネットカフェなら深夜料金でそこらのホテルよりも断然安い。飲み物だってドリンクバーさえつければいくらだって飲めるし、ご飯だって注文できる。夜間の未成年者の出入りは禁止されているが、金額さえ考えればカプセルホテルよりも断然安い。


「はあ、なるほど。……でもなんでそれ、警察おれらに言わなかったんすかね?」

「それがわからないからこの子の身元を調べるんだ」


 ふうん、と三木は相槌をうつ。望月から聞いた話でも、行方不明者リストの中に合致する人はいなかったという。つまり失踪届も出されていないということだ。いや、実はその子の見た目と年齢がまったく一致していないだとか、失踪してから七年以上経過して死亡扱いになっているだとかの例外は除くが。

 誰なんでしょうね、と三木は呟く。

 返事はないと思っていたけれど、意外にもそうだね、という言葉が返ってきた。


 * *


 ──周囲のネットカフェをめぐり、乙津が撮影した写真を店員に聞きまわる旅をしはじめて数時間。東京ともなればネットカフェの激戦区だ。ネットカフェの目の前にまたネットカフェ、というあまりにも客の奪い合いが激しい立地が多い。


「あー。覚えてますよ、この子」


 だが粘った甲斐もあったのか、乙津たちが回った数軒目でようやくその言葉が聞けた。乙津は最初全く気付かなくて、ああそうですか、ご協力ありがとうございました、もしお見かけしましたらその際は連絡を、のあたりまで店員にガッツリ言ってしまった。


「こ、この子で間違いないんでしょうか」

「え? まあ、間違いないかって言われると、あれですけど……。でも特徴的だったんで」


 三木はぱちりと瞬きして、「特徴的?」と訊き返す。ネットカフェの利用者は日々多くいるのに、そのうちの一人を一枚の写真を見せられただけで判別するのは難しいはずだ。

 けれど店員は「はい」と頷き、


「ネットカフェって、まあ月一とか半年に一回とか、多くても週一くらいだと思うんですけど、この子しばらくはほぼ毎日来てたんで。この八時間コース」カウンターに立てかけられているメニュー表を指す。「これ毎回夜に頼んで、で朝には帰るっていう。なんか訳アリだったんかなーって思って、覚えてます」


 完全にビンゴだ。乙津の推測がほぼほぼ当たっている。


「あの、ここ名前の記録って取ってますよね? この子なんていう名前でした?」

「ああ。赤井リンゴです」


 乙津と三木の「……はい?」という声が重なった。二人はゆっくりと顔を見合わせ、また店員の方を向き、「え、もっかい……もう一回言ってもらえます?」と三木が訊ねる。

 店員はどこかばつの悪そうな顔をして、ですから、と繰り返した。


「赤井……、赤井リンゴです」

「どう考えても偽名!」


 三木は叫んだ。三木のバカみたいな行動にいつも冷たい乙津もこの時ばかりは(心の中で)拍手喝采した。本当にその通りである。店員もそれがわかっていたのでなんとなく言いあぐねるような雰囲気であったのだ。


「ぎ、偽名なんてそんな。もしかしたらこういう名前の子がいるかもしれないじゃないですか!」

「いるかもしれないって、もう自分でも疑ってるじゃないすか!」

「いやそ……っ、それとこれとは別でしょう、なんなんですかあなた。人の本名だなんてどうでもいいじゃないですか」

「警察だから人の本名知らなきゃなにも進展しないんですよ!」


 乙津は頭痛でもするかのように眉間を指の腹で揉み、カウンター横にある『当店を利用する際の注意事項』のポスターを指した。


「こちらにこの店を利用する時は身分証の提示が必要だと書いてあるんですが。その……。……」乙津は十秒ほど沈黙した。「……赤井リンゴ、が提出した身分証の控えなどはありますか」


 三木といがみあっていた店員は、乙津の冷えた言葉でもはや開き直ったようで、「ウチそういうのゆるくて」などと言い出した。業務停止にしてやろうかこの店、という考えが乙津の脳裏によぎる。


「店長も、なんかまあ、ロクに確認しないんで……今日は忘れたって言ったら通すレベルなんですよ。……や、だからいちおう名前は全員に聞いてるんですよ?」

「偽名ですけどね」


 口を挟んだ三木が店員に睨まれる。また口喧嘩が始まりそうな予感に二人の間へ割って入った乙津。三木のことをどうどうと宥めすかし、


「では、この──赤井リンゴがきていたのはいつ頃ですか?」

「あー、えと、一ヶ月くらい前ですね」


 それは記録ありますよ、と店員はカウンターのパソコンをいじり始めた。はい、とパソコンの向きを二人に見えるようにしてズラし、マウスカーソルで「ここらへんです」と名前のあたりを指す。ずらりと利用者の名前が並ぶ中で、何度も『赤井リンゴ』の文字が登場していた。たしかにほぼ毎日訪れていたリンゴは、ある日を境にぱったりとこの店へ訪れなくなっている。

 この店に来なくなったのが一ヶ月前。

 この店に訪れはじめたのが、二ヶ月前。


「────」


 は、と乙津の喉に空気が吸い込まれた。目を見開いた乙津は、パソコンの画面を食い入るように見つめ、初めてリンゴがこの店に来た日付を確認する。彼女が初めてここに来たのは、四月の──


「──三木、いくぞ」

「え? あ、ハイ」


 乙津は店員にお礼も言わずにスーツを翻すと、ずかずかと出ていく。最後の彼女の勢いに呆気にとられた店員に三木はぺこぺこと頭を下げて「ご協力ありがとうございました! 業務停止命令出ないようにご注意ください!」とご丁寧な注意を添えて乙津の後ろを追った。

 最後にひとり残された店員は、「オレこの店辞めようかなあ」と呟いた。他のバイトもいっぱいあるしな。こういうのに巻き込まれるのいやだし、もっといい感じのバイトでも探そうかな。面接受かる気しねえけど。


 * *


 運転手の三木よりも素早く車に乗り込んだ乙津に、三木は「はやいすよお」と文句を垂れながら乗り込んでシートベルトを締めた。乙津は無言でカーナビを設定し、千代田区のあるポイントを目的地に設定する。


「これは?」

「後で説明する。まだ確証はない」

「確証なかったら間違いだったね、だけでいいんすけど……」


 なんでこう、優秀だったりクセのある人たちは秘密主義が多いのだろう。ホウレンソウが大事って警察学校で習わなかったのかな、と口に出したら百パーセント殴られそうなことを考えながらハンドルをきった。先輩には逆らわない方が吉、である。

 道路はさほど混んでおらず想定通りに車は進み、辿り着いたのは住宅街だった。「ここでいい」と言う乙津は「ちゃんと邪魔にならないとこに停めるんで」と警察官としての意識が高い三木に言われ、三木がぐるぐる周囲を回るのを黙って待った。まあ、機捜であるだけ運転は上手いし(機捜は車でのパトロール自体が仕事である)、三木に聞けば間違いないことは確かだ。

 乙津が向かったのはある一軒家だ。ごく普通の住宅やマンションが立ち並ぶ中の、クリーム色でやわらかな印象を持つ家。なんだ、と疑問に思いながらも彼女についていく。乙津がピンポンを鳴らし「警察です」と告げた数十秒後、玄関が開いて四十代ほどの女性が出てきた。


「あら? あなた、あのときの」

「ご無沙汰しております。警視庁の乙津です。こっちは、……相棒の三木」

「え、あ……け、警視庁の三木と申します」

「ああ、ご丁寧にどうも……。藤堂幸子ともうします」


 三木が頭を下げると、藤堂もそれに応じてお辞儀をする。乙津は挨拶もそこそこにして、スーツのポケットから手帳に挟んでいた写真を取り出す。リンゴの写真だ。


「この子のこと、ご存じですか?」

「あ……この子ですよ、そうです。前に言ってた子」


 写真を見せられた藤堂は頷く。三木は目を見開いた。──知ってる? リンゴを? どうしてこの人が?

 乙津は表情を硬くして、「そうですか」と短く言った。三木には二人の会話がさっぱり理解できなくて、ただぼーっと突っ立っているだけだった。なんで藤堂と乙津が知り合いなのかもわからない。


「急にすみません。お聞きしたかったのはそれだけです」

「いえいえ、これくらいのことでお役に立てるのなら」


 乙津と藤堂はたがいに頭を下げあう。では、と踵を返そうとした乙津に、藤堂は「あ、ちょっと待って」と呼び止めた。先に車の鍵を開けようと駆けだしていた三木もその声に立ち止まる。藤堂は言いづらそうに

「その子……、その子、あの、無事なのかしら? いま、ちゃんと……大丈夫なの?」

 その質問はあまりに抽象的で、話の内容を理解していない三木には全くぴんとこない文章だった。けれど乙津はつま先をしっかりと藤堂の方に向け直し、口を開く。


「大丈夫であるかを、我々が確認しにいきます。──ご協力、ありがとうございました」


 深々と頭を下げた乙津に、藤堂の瞳が不安げに揺れる。ただ一度目を瞑ったあとは、乙津と同じように真正面からの視線を送りかえし、「どうかよろしくお願いいたします」と告げた。

 車に乗りこむなり、乙津は「佐川の家に向かえ」と言った。ハイハイ、ともう抵抗することもなくアクセルを踏む三木。慣性力でシートに体が押しつけられる。


「説明してもらってもいいすか」


 佐川の家はここからだと車で二、三十分だろうか。その時間さえあれば十分に説明できるだろうと踏んだ三木の言葉に、乙津は「……そうだな」と言った。車窓に流れてゆく景色をながめ、口を開く。


「二ヶ月前の殺人事件、覚えてるか。ちょうどさっきの近く──千代田区で起こった」

「……えーと、えー……」


 千代田区は残念ながら三木の元いた機捜の管轄外だ。その頃にニュースを見た覚えもないし、正直ぜんぜん思い出せない。

 何一つ知らなそうな三木の様子を見て、乙津が「知らないならそう言え」と正論を言った。こういうときは本当に正しいんだよな、と思いながら「スミマセン……」と情けなく謝る。


「事件は四月■日、隣の家から悪臭がするっていう近隣住民からの通報で発覚した。家の中に倒れていた家主、無職の三十代の男が刺されて出血多量で死亡。犯人いまだ見つからず──ってマスコミには流れてる」

「マスコミには……てことは違うんすか?」


 ハンドルを左にきる三木。乙津は肯いた。


「実は家の中にもう一人、十五歳前後の少女がいたことがわかってる。近所の目撃証言や、家の中の痕跡でね。……でも住民票には記載されてないし、家主の男は結婚してないし子どももいないことになってた」


 今会ったのはその子の目撃証言をしてくれた人だ、と言って乙津はドリンクホルダーに入れていたペットボトルを呷った。冷えた麦茶が喉を流れ落ち、結露した水滴が指を濡らす。


「今会いにいった深津さんは、その目撃証言をしてくれた人」ペットボトルのフタをキュ、と締める。「二ヶ月前、でぴんと来た。勘違いの可能性もあったけど、ビンゴでラッキーだったな」

「……乙津さん、あの、店員さんの話を聞いただけで、そこまでいったんすよね?」

「ん? ウン」


 ハンドルを左に回しながら訊くと、乙津はコクンと頷いた。ということは、だ。


「あの人の住所と名前、今までずっと覚えてた……、てことすか?」

「ウン」

「……目撃証言って複数あったんじゃないすか?」

「そこそこいたよ。でも藤堂さんが一番よく彼女のことを見かけてて、一番情報が確かだったから。……全員に確認に行ったほうがよかったか?」

「……目撃証言してくれた人、全員の名前と住所覚えてるんすか?」

「いや? 流石に。十人くらいだよ」

「ああもういいです」


 心の底からの『もういいです』が出た。大学の同期にピザを四枚食わされて泣きながら言った『もういいです』と同じ質量と重さだ。チクショウ、と心の中で歯噛みする。十人も覚えてりゃ十分だろ。意味がわからない。捜査一課の忙しさをなんだと思ってるんだ。

 乙津はメチャクチャ悔しそうな顔をする三木に不可解げに首を傾げたが、「ともかくだ」と話をまとめる。


「あの家にいた女の子──リンゴちゃんは、家主が殺されたのと同じタイミングであのネットカフェに行き始めた。だけど一ヶ月前からは佐川の家に住んでる……」

「────」


 あらためて説明されても、結局どういうことだかよくわからない。事実だけが並べられていって、熟考する暇がない。

 乙津はしかと前を見据えた。


「会いに行くぞ。それで、確かめる」

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