第五話 『氷の中であなた笑ったのね』

「一ヶ月前に辞めましたよ?」

「……はい?」

「ですから。一ヶ月前に、急に辞めちゃったんですって」


 ──目黒区のキャバクラ店へとたどり着いた二人を出迎えたのは、開店前に警察の二人組が来てあからさまに面倒だと思っている黒服のそんな言葉だった。乙津がサッと三木のことを見るが、三木はぶんぶんと首を振る。まあ、元々彼女の同僚から聞いた噂話程度のものだったし、現在勤務していなくともいい。


「あの。彼女たちに話は聞けますか」

「まあいいですけど。仕事の邪魔はしないでくださいね」


 はい、と乙津は頷いて、ボケッと後ろに突っ立っている三木に「あっちにも佐川の話聞いてこい」と顎で示す。仕事を与えられた三木は太陽みたいにぺかーっとした笑顔を見せて「はい!」と元気よく返事をした。自分が持ってきた情報で乙津の役に立っているのが嬉しかったのだ。乙津はちょっとだけその笑顔に面食らって、「静かにするんだぞ」と犬のしつけみたいなことを言った。実質捜査一課の仕事に慣れるためのしつけであることには違いない。


「従業員名簿と……あとシフト表ってありますか。佐川さんが出勤していた時のもの」

「ありますけど」

「ではそれを」




 ──所変わって、キャバ嬢たちの待機場。


「えイケメ〜〜ン!! 捜査一課? 捜査一課って年収どんくらいなの?」

「やっぱ拳銃持ってたりするんだ。アハ持ってる〜! みしてこれ」

「いやちょっ、あの、あんま触んないでくださ」

「あ彼女いないんだ? かわい〜〜。あたし枕もしてるよ。おにいさんなら割引したげてもいいかも」

「刑事ってストレス溜まるでしょ。わたしたちのとこ来たらいっぱい癒してあげるって言ってよ、お客さんたくさん連れてきたら今度アフターするよ?」

「いや、ちが……っ! おれ捜査! 捜査しにきたんす! いったん離れてもらってもいいすか!?」


 痴漢を疑われたサラリーマンみたいに両手をあげる三木。プチプラとデパコスの化粧で国境警備隊並みのフル装備をした女性たちが、顔よし身長よし体格よしの美紀にサブマシンガンをぶちまけるような勢いで迫る。三木はといえば、付き合ったことがあるのは高校の時に文化祭前に彼氏を作りたいというなんともまあ高校生らしい理由の女子くらいだ。デートは一回しかしてないし手も握ってない。以来警察官になるためその道一本でやってきた三木は、まあなんというか、有り体にいえば、全く女慣れしていなかった。キャバクラに足を踏み入れたのなんて人生で初めてだった。

 女性らの大きく開いた胸元を見ないよう、顔を真っ赤にしながら目を瞑る三木を彼女たちはもうちょっとだけからかって、それからようやく本題に入った。三木はべたべた触られたスーツを整えなおし、ほつれた前髪をかるくかきあげて、仕切り直すようにエホンと咳をする。キャストたちは必死に大人ぶろうとしている小学生を見るような気分で、くすくす笑いながらイケメンで将来有望そうな刑事を見つめた。


「じゃあ、あの。聞きたいことがいくつかあるんすけど」

「はあい。なんでしょう」

「佐川琴子さんを知ってますか? 写真は、えっと」


 もたもたと写真を取り出そうとする三木をほっぽって、キャストたちは口々に「だれだっけ」「ねえ誰かあたしのカラコンしらない?」「えオトさんでしょ」「オトさんって佐川琴子っていうんだ? エはじめて知ったあ」「あとで誰かヘアアイロン貸してくれません?」と喋り始めた。誰が誰の質問に答えてるのかもどうでもいい感じで、昼に整えたばかりのネイルをいじる人もいたしインスタを更新しながら喋っている人もいた。会話が完全にめちゃくちゃだ。三木からしたら完全に別世界である。


「あの……、ええと、オトさん? その人が──」

「えでも辞めたでしょ」「そうだよね、いつだっけ」「色恋してたんじゃなかった?」

「ちょ、ちょっといいすか」

「それトーコさんでしょ。あんたいつの話してんの?」「あれじゃん、DIERの新作出た日だよ。わたしそれ聞いたあと買いにいったもん」「誰かと特別仲いいとかあったかなあ。だれかなんか知ってる?」

「あのお! ちょっと! いいすか!!」


 高校の時のバレー部で鍛えられた爆音を真正面から浴びて、彼女たちはキョトン! とびっくりした顔で口を止めた。何故彼が自分たちの会話を止めたのか、意味がわからなかったのだ。だって彼の訊いたことを喋っているし、彼が訊きたいであろうことも喋ってあげているのだから。

 でも三木のほうこそ、なぜあのスピードと誰が何を喋っているのかわからない状態で会話を続けられるのか全く理解できなかった。大仰に前に手を突き出して、「いったん、止まってください」と落ち着いた声音で言う。閉じてしまった手帳をもう一度繰って、カチリとボールペンのノックを鳴らす。


「まず──オトさん、っていうのは、誰すか?」

「佐川さん」

「……? なんかのあだ名すか?」

「え、や。普通に源氏名」

「……げ、源氏名ってなんすか?」


 もう一度言うが、三木は全く女慣れしていなかった。そしてキャバクラに入ったことも、人生で初めてだった。

 だから源氏名のシステム──キャストたちが本名とは違い店だけで使用する名前が源氏名といい、彼女らの個人情報や身の安全を確保するためのもの──も全く知らなかったのだ。はたとそれに気づいた彼女たちは、一気にマリアみたいに慈愛に満ちた表情になって、それからはゆっくり優しく三木に教えてあげた。彼女たちのもっぱらの仕事はおじさんたちに無知なオンナノコを装って、「へえそうなんだ!」「すご~い!」という言葉を発するだけの機械になることなので、気持ち悪くもなくて無理に連絡先も聞いてこなくて若くてイケメンな三木におねえさんぶれるのは、もうめちゃくちゃに楽しい役割だったのだ。彼女たちはふわふわに巻いた髪の毛をいじったり、三木が必死にメモを取る姿を見て鈴の音を転がすみたいに笑いながら喋った。


「だからあ。辞めたんだって、佐川さん。一ヶ月くらい前に。DIERの夏色コスメが発売された日にさあ」

「え? 理由は知らないけど。うちで一番仲良かったのはナツミちゃんだけど、その子も知らないって言ってたし」

「気になったこと? ないよ。営業もそこそこうまくいってたし、客とトラブルになったって話も聞かないし……」

「あ」

「そういえば、なんか言ってたわ。たしか、夢?」

「うん。夢、かなえたいんだって。大切な夢」


 * *


 本日の捜査会議もほとんど事件は進展しないまま終わり、乙津は眠そうにくありとあくびを零した。その様子をじっと三木に見られていたことに気づき、溶けたように細められていた瞳が別の意味できゅっと狭まる。


「なんだよ」

「いや……なんか、乙津さんも人間なんだなあ、って」

「おまえマジで私のことなんだと思ってるんだ?」


 なんでしょうね、と三木は笑った。自分でもよくわからなかった。たまたまこの事件に参加して、たまたまバディを組んだだけの相手。機捜に戻ったらきっと乙津と会うこともほとんどなくなるだろう。でもそう考えると悲しくなるから、あんまりそういうことを考えないようにするくらい、三木は乙津のことが好きになっていた。元々人懐っこいところはあると自分でも思っていたけれど。

 乙津はその笑顔を見て、ちょっと黙った。三木が乙津を気に入ったように、乙津も三木の笑顔になんだか弱かった。乙津はその口の悪さと態度で人から嫌われがちであったから、こんなふうに気兼ねなく接してくる年下なんて本当にこの男くらいだった。


「──乙津さん!」


 不意に呼ばれた自分の名前にパッと振り返った乙津は、その人物を見て「モチさん」と呟く。モチは──名字の望月を縮めてモチさんと呼ばれている──五十代くらいの肥満体形で、彼が走って体重移動する度にズボンのベルトに乗った肉がぶるぶると揺れる。警察官にあるまじき体形であるが、彼は現場には出ないのでここ五年くらいはずっともだもだと言い訳を重ね、奥さんに健康診断の結果が来るたびに怒られているような男だった。クマみたいに横幅も縦幅もデカくて、一八〇近い三木よりもさらに大柄だ。


「ああ、もう、いたあ……」駅伝に参加したけれど途中で走れなくなってリタイアしたおじさんみたいな声でぜえぜえ息を吸った。「おっさんにこんな運動させんといてください、ほんま」

「連絡くれればよかったのに」

「朝したでしょ! あんた『あとで』つったのにその後なんの音沙汰もないから!」


 乙津はしばらく考えこんでからスマホを確認する。その画面に映った『いったん話したいんですが』『あとでいきます』というやりとりをバッチリと確実に確認し、しかめっつらをしたままの顔をあげて、「朝言われても困ります」とぬけぬけと言った。確かに今から思い返せば彼からそんな連絡をもらったことが記憶の片隅にあるのだが、朝があまりにも弱すぎて、起きた直後に得た情報は全部頭の中から飛んでしまうのだ。彼は「そんなことあります?」と完全に呆れた様子で言った。


「……あの、乙津さん、この人だれすか?」

「モチさん」

「いや、乙津さんが呼んでる名前じゃなくて、なんかこういろいろな情報を含んだ誰なのかを教えてほしいんすけど……」

「で、なんかわかりましたか」


 三木のことは完全に無視だった。三木は心の中でやっぱり優しくない、とめそめそしながら喋る必要のないボディーガードみたいに彼女の後ろに立った。望月は乙津の冷淡さに「仮にも相棒なんじゃないんですか」とツッコむ。


「望月です。防犯カメラの解析やSNSの監視なんかのサイバー関係をやっとります。乙津さんにはよくお世話になっとります……というか、ぼくがお世話してます」

「お世話された覚えはありませんが」

「本当にご丁寧にありがとうございます」久々に人の優しさに触れた気がして感動する三木。「乙津さんがいつも迷惑かけてるみたいで……」

「おまえ私と出会って一ヶ月も経ってないだろうが」


 口を挟む乙津をスルーして、三木は望月と固い握手を交わした。並々ならぬシンパシーを感じたのだ。『いつも頑張ってるんですね』と目だけで伝えると、望月も『いやいや、あなたもきっと大変でしょう』といたわりの視線を向けてくる。男同士の熱い友情に乙津は全く意味がわからないようで、気持ちの悪い生物を見たように顔を歪めていた。


「ちょっと。あの、もういいですから。なんかわかったんですか?」


 二人をむりやり引き剥がした乙津は、望月を見上げてそう訊ねた。なんのことだ、と目を丸くする三木とは対照的に顔を歪めた望月。片手に持っていた資料をトントンと叩き、言いあぐねるように眉間に皺を寄せる。


「……なにもわからんかったです。残業も徹夜もなんでもありで調べて、なにも」

「行方不明者リストはあたりましたか」

「ぼくのことなんだと思ってるんですか。いちおうここ最近のは全部あたったし、年齢や身長が合致してる昔のものも調べました。そりゃ全部見れたわけじゃないですが、周囲の防犯カメラも」


 三木は望月が持っている資料をじっと見つめる。濃い色のクリアファイルだが、中がすこしだけ透けて見えた。誰かが映っている一枚の写真だ。それは──


「っ、あ!? ちょ、」

「……なんすか?」


 油断しきっていた望月の手からサッとクリアファイルを奪った三木は、即座に中からその写真を取り出す。固まった望月と、黙りこんだ乙津。


「これ、誰すか」


 相棒に目を向けた。相棒であるはずの乙津は、三木と一瞬だけ視線を合わせて、ファイルと写真を奪いかえした。動揺している望月の豊満な腹にどんとそれを押しつけ、「ありがとうございました。またなにかあったら」と暗に帰れと言い放つ。

 望月は当惑した表情で乙津と三木を交互に見た。それからその体格に見合わぬしょんぼりとした顔で(ぜんぜん自分は悪くないのになあと思いながら)、しょんぼり肩を落としたまま帰っていった。心なしか彼が歩くたびに振動が伝わってきた。

 その悲しそうな背中を見届けたのち、三木はしっかりと乙津に向き直る。普段は真正面からそれを見返す乙津は、今回ばかりはばつが悪そうにそっぽを向いていた。


「誰すか、あの写真」


 三木が見た写真には、一人の女の子が映っていた。十代か、二十代前半くらい。それ自体はさほど問題ではないけれど──その子の背景は、明らかに佐川の家の玄関だったのだ。似たような玄関口なんて東京都内にはいくらでもあるけれど、でもこのタイミングで、乙津が望月に頼んだということは、佐川の家の玄関で間違いない。けれど三木には写真の人物には全く心当たりがなかった。


「佐川ん家ですよね、あれ」

「……ウン。まあ、そういうことも、あるかもな」

「業務時間外に張ってたってことすか?」


 ただでさえ朝から夜まで三木と一緒に行動して、彼女は決してショートスリーパーではないだろうに。自分の睡眠時間を削って佐川の家を張り込んで、あの写真を撮ったということなのか。

 乙津は「そういうことも、あるかもな」とさっきと全く同じセリフを吐いた。普段は三木の方が子どもらしいのに、こういう時だけ幼く見える。三木はガシガシと後頭部をかき、伏し目がちに逸らされた乙津の長い睫毛を見て息をつく。


「……言ってください。おれ、頼りにならないかもしれないすけど。今は乙津さんの相棒です」

「────」

「別に……、おれに内緒でなんかやってても、それが乙津さんの考えなら、怒んないす。でもンなことされたら悔しいし、寂しいす」


 三木は俯いた。なにせ憧れの捜査一課と共に仕事をしているのだ。そんな捜査一課で踏ん張ってきた乙津に『役に立たない』と判断されるのは、三木にとって本当に悔しい。今だって地団太踏みたくなるのを我慢してるのだ。なんもできないかもしれないけれど、でも彼女の助けにはなりたかった。それは、本当に、確かなのだ。

 仔犬の尻尾が力なく垂れ下がっている幻が何故だか見える。乙津はほとほと困り果てたように眉尻を下げた。そんなふうに言われても、という気持ちが正直なところだ。乙津の独断は今に始まった話ではないし、悔しいだとか寂しいだとか言われても、そんなこと自分には関係がない。だから今まで通り、どうでもいい、知るか、と吐き捨てれば済む話だった。

 でも本当に悲しそうな顔で、そんな、子どもじみたことを言うから。


「……ウン」


 ぱ、と三木の顔が上がる。

 乙津は英語を初めて習った小学生みたいにカタコトで、「まあ。なるべく……ウン。言うわ」と喋った。ものすごい居心地の悪さだった。

 だけど三木は、その言葉だけで嬉しくってしょうがなくって、「はい! あざす!」と太陽みたいな笑顔を浮かべた。そんな顔をされると、乙津もなんだかいろんなことがどうでもよくなってしまって、こいつは前世はゴールデンレトリバーだったのかなあなどと考えていた。

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