第四話 『眠れぬ夜のための天文学』
三木は会議室の中をずっとウロウロしていた。そのせいで事件が進展しないことにイライラが溜まっている周りの刑事たちから「じっとしていろ」と三回くらい怒鳴りつけられ、それでようやく席に座ったくらいだった。
「おはざーす……」
だるそうな声が小さく聞こえる。ぱっと顔をあげた三木はその声の主を警察犬並みの素早さで見つけ、これまた警察犬ばりの素早さで彼女の元に走っていった。
「乙津さぁん! 遅いですよお、もう……どんだけ寝坊してんですか。おれがどんだけ待ったと思ってんすか」
「はァ? 知らねえよ……」
乙津は低血圧で寝起きがめちゃくちゃ悪い。起きたあと一時間はこんな調子で、普段も決して良いとは言えない目つきが三割増しで凶悪に見える。長いストレートの髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜて「どうしたんだよ」と水分の足りない喉でそれだけ言った。それでも優しさだとわかるようになったのは、ここ数日の二人が過ごした時間の密度ゆえだった。なにせ仮眠を取っている時以外は常に二人で行動している。
「佐川についてなんですが、あの、新情報です」三木はそこまで興奮ぎみに言って、ハッとした顔でさっきまでいた席に戻り、今度は右手に手帳を持って戻ってきた。「彼女──幼いころ児童養護施設に入っていたらしくて」
「──施設?」
「はい。父親から虐待を受けていたようです。高校卒業と同時に施設をでて、そこから借金の返済に追われて……キャバクラでも働いていたようだと、同僚から証言がありました」
「どこのキャバだ」
「えっと、目黒区の……」スマホを取り出して調べる三木。「ここです。行きますか」
乙津は「開店時間になったらな」と頷く。三木は「じゃあそれまで何をするんすか?」と書いてあるような顔をした。ダウナーな様子で息を吐いた乙津は「さっき頼まれたんだ」とスマホを操作する。ブー、と三木のスマホが振動した。なにかとみれば、大学病院の位置情報だ。
「司法解剖の結果が出た。いくぞ」
「なんで運転すんのオレなのにそんな態度なんすかァ〜……?」
「るせえな黙って運転してろ!」
「相手おれじゃなかったらパワハラすよそれ!」
司法解剖とは、その死が犯罪に関わるものであった場合に行われる解剖である。法医解剖医により、臨床検査技師、記録員と最低合わせて三人で行われる。
「検視だけでは正確な死因は特定できませんからね」
今回の法医解剖医は三十代くらいの、比較的若い見た目の医者だった。「そうですね」と相槌を打った乙津とは反対に、三木は困りきった表情で乙津と解剖医──秦野と名乗った──を見比べた。三木がいたのは初動捜査を担当する機動捜査隊であり、司法解剖だのなんだのと『事件性がある』と判断されてからの対応はほとんど知らなかったのだ。
秦野はハハハ! と笑い声をあげ、
「検視、行政解剖、司法解剖なんかは、それぞれ役割が違うんです。検視は検視官が行い、行政解剖は監察医が行い、司法解剖はわたしたち──法医解剖医が行う。刑事さんがたが強盗、詐欺、殺人と、それぞれ担当が違うようにね」
ほへえ、と間抜けな顔をさらす三木のことを肘で軽く小突いた乙津は、目の前にある書類を指し「話をしても?」と促した。そうですね、と秦野も頷く。
「まず死因ですが、検視結果と相違ありません。複数の刺し傷、そのうちの一つが心臓に到達して死亡しています。刺した人物は傷の深さからみて女性か、子どもか……、少なくとも、力が弱い身長一六五センチ以下の人かと思われます。五回も刺すならば怨恨の可能性が高いですが、それにしては傷が浅いので」
力の強さによって傷の深さは当然違ってくる。また包丁の刺された位置、角度によっても当然傷に違いが出てくる。何によって死んだか、何故死んだのか──それを調べるのが法医解剖医であり、そのための法医学だ。
乙津と三木は咄嗟に佐川のことを思い浮かべた。乙津は一七◯センチに満たない程度だが、彼女はそれより十センチ以上低かった──あてはまる。
「あ、あとこれなんですが──ああすみません、入れ忘れてました」
三枚重なった紙のうち二枚を二人に手渡した秦野は、「いただいたDNAの鑑定結果ですね」と口にする。
「被害者の爪の間に残っていた皮膚片と、警察から受け取ったDNAの照合結果です」
「──一致、していませんね」
「はい」秦野は気負う様子もなく肯いた。「もちろん被害者本人のものでもありませんでした。……わたしたちは、誰が犯人であるとか、犯人でないとか、そういったことは言えません。あなたがたに、ただ事実を提供するだけです。──そしてその方のDNAは、一致しませんでした。つまり、」
全くの別人です。
秦野の言葉は、実質『佐川は犯人ではない』と言っているようなものだった。爪に皮膚片が残るほど力強く誰かの肌をひっかいたのなら、ほぼ間違いなくそれは犯人のものであるからだ。
乙津は診断結果がまとめられた書類をめくる。要領よくまとめられた書面は見やすいが、故に冷淡すぎる事実を突きつけてくる。犯人のDNAがみつかっても、そのDNAと一致する人物を手あたり次第に見つけられるわけがない。
黙りこくってしまった刑事二人を見て、秦野も同じように書類に目を落とした。折れてしまった書類の痕を指でなぞる。
「……日本の解剖率を知っていますか?」
「──え?」
ふと顔をあげる三木に、秦野は目をあげることなく続けた。
「変死体の解剖率です。検視だけでは具体的な死因がわからない遺体が、日本でいくら解剖されているかご存知ですか」
三木はバッと勢いよく隣の乙津を見た。乙津はなんでもないようないつもの澄ました表情をして、でも決して三木と目を合わせようとはしない。心の中で泣きながら、三木は恐る恐る「え、えーと。半分くらい……すかね?」と適当に言った。全く知らなかった。
「一割です。アメリカでは約六割、オーストラリアでは五割、スウェーデンに至っては九割の解剖率を誇るというのに。……異常死の九割が解剖されない。しかも日本は火葬だから、葬式が終わってしまえば、再度解剖することもできない」
「────」
「どういう意味だかわかりますか。この人は──この人は、運が良かっただけなんです。死因がたまたまわかりやすくて、たまたま解剖されただけなんです。この仕事をやっていると、どんなご遺体でもそう思います。ああ、この人は運が良かったな、って。……死んでいて、運がいいわけがないのに……」
法医解剖医は現在、全国合わせて一五〇人程度しかいない。どう考えても人材不足であり、そのうちの一人が秦野だ。毎日毎日遺体を切って、解剖して、そして思う。死者の声を聞くたびに──その声をきっと自分は聞き取れている、と思うたびに。
「死因がわかるのと、犯人がわかるのと、どちらがいいんでしょう……」
秦野はほとんど口の中で呟くような音量で言った。──いつか自分が死ぬとき、誰かに殺されたかもしれないとき、自分の声は誰かに届くのだろうか。伝えることのできない死した自分の声を、だれか聞いてくれるのだろうか。聞いてくれるとしたら、それは刑事か、解剖医か、どちらなのだろうか。
「──どっちもです!」
ガタン、と甲高い音が鳴った。三木の乗っていた椅子が、彼が立ち上がった勢いで倒れる音だった。
秦野はふらりと頭をあげる。三木は力強く、「どっちもです」と繰り返した。その言葉とその瞳が、秦野の脳にまっすぐにぶつかって、透き通っていった。換気のためすこしだけ開かれた窓から勢いよく風が吹き込んで、カーテンがはためく。夏の強い日差しが部屋を満たす。
「これからもそう、ってワケにはいかないかもしれないんすけど。おれ、あの、解剖医さんのこととかあんま知らないし……。でも、今回の犯人は絶対見つけます。だから──だから、どっちもです」ピシッと背中を伸ばし、丁寧に頭を下げる。「死因を見つけてくれて、ありがとうございました。今度はおれたちが犯人を見つけます」
三木は顔をあげ、心臓を握るみたいにシャツをぎゅっと握りこんで、そう言った。
秦野はポカンとして、三木のことをじっと見つめる。──それから眩しそうに目を細めて、ふ、と口許を緩めた。笑うように零れた息が「ふ、……ふは、」と何度か続く。そのまま肩を震わせて、秦野は断続的な笑い声をあげながら顔を覆い、机に肘をついた。笑うを通り越して、秦野はもう泣きそうだった。目の前にいる、自分よりも年下の青年が、あんまりにも眩しかった。だのに当の本人は、そんなことちっともわからないみたいな顔をして急に笑い出した秦野に目をまん丸にしている。
──そうか。そんなことを言ってくれるんだね。諦めざるを得ない話なのに、たかが仕事の愚痴というだけなのに。
──そんなふうに言ってくれるんだね。
秦野は喉をぐっと詰めて、、ふーっと息を吐いた。また顔を上げたときには、その翳は見えなくなっていた。
「そうですね。……がんばってください。わたしも頑張ります」
秦野は大学病院を出るところまで送ってくれた。白衣が薫風にパタパタとはためき、彼のやわらかなシルエットを映し出している。乙津は短く会釈をしただけだったが、三木は何度も秦野のほうを振り返って、何度も手を振った。乙津が意外だと思ったのは、秦野がずっとそれに応じていたことだ。呆れる様子なんてちっとも見せないで、彼はずっと手を振り返してくれた。
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