第三話 『カーテンコールを引いたのはだれ』
事件発生から一週間が経過したが、捜査本部はいまだ犯人の足取りを掴めていなかった。聞き込みから戻るたびに先輩刑事の視線が矢のように突き刺さり、進展はなにもありませんと報告しなければならなかったのだ。三木の精神はあっという間に疲弊し、彼が幸せなのはチェーン店の牛丼を三つテイクアウトで頼み、それを夕飯だか夜食だかわからん時間にたいらげる時くらいだった。
進展があったのは、ちょうどその日の翌朝――三木が「昨日は牛丼だったから明日は親子丼だな」だとか運動部の高校生みたいなことを考えているときだった。転がりこむように帰ってきた刑事ふたりが、「も、目撃証言でました!」と肩で息をしながら報告したのである。一気にざわめいた会議室の中で、ひとりが声を張り上げる。
「犯行時刻の十時より前、夜九時ごろに、ランニングであそこを通ったそうです。あの日いつも走っている道で工事があり、通行止めだったそうで……通りかかっただけだから詳しくはわからないが、グレーの上着を着た女性があの公園のベンチに座っていたと」
「髪型と身長は!」
誰かが鋭く質問を投げる。一拍おくれて、それが乙津の声だと気づいた。
「髪型は、肩につかないくらいのボブ! 身長は座っていてわからないが、特別低いだとか高いだとかはないとのこと!」
唐突に三木の脳裏に、佐川の姿が浮かんだ。身長は、一六〇センチに満たないくらい。髪型はゆるくウェーブがかったボブ。
バチン、と音がした。三木と乙津の視線が一直線にぶつかった音だった。その音はふたり以外の誰も聞こえなかったけれど、互いさえ聞こえているならば十分だということを、ふたりとも理解していた。
* *
「私が、その公園に?」
三木たちが佐川の家を訪ねると、彼女は外へ出る気が全くなさそうな、薄い部屋着にカーディガンを羽織っただけの状態で出てきた。まさかまた刑事二人が来ると思わなかったのか、咄嗟に扉の角度を狭めようとした佐川。それに自分の手を重ね、扉を開いた状態を維持する乙津。
彼女はすぐに手を引っ込め、なんなんです、と警戒するように訊ねた。乙津は「長くなるかもしれないので、上がらせてもらっても?」と彼女の態度を全く気にせずのたまう。佐川は人を家にあげることに抵抗があるのか僅かに眉根を寄せたけれど、「ちょっと待っていてください」と言い残して中に戻っていく。ふたりがぼうっと部屋の前に立ち尽くしてしばらく、彼女はさっきと変わらない格好のままで出てきた。部屋を片付けていたのだろう。
前置きもほとんどないままに「事件当日の夜、あなたはあの公園にいましたか」と切り出した乙津への返答が冒頭のセリフである。
「グレーの上着を持っていますか?」
いぶかしむような、警戒するような目つきの佐川は首をふる。え、と声を漏らす三木をテーブルの下で彼女にバレないように小突いた。
「クローゼットを見せていただけますか」
「……いいですけど」
前回会った時はかなり協力的であったが、あからさまに乙津たちが彼女のことを疑っているのがわかるのか、態度のそこかしこにトゲがみえる。自分が疑われていると知りながら好意的になる人間はいないだろう。
寝室に備えつけられたクローゼットを佐川が開くと、乙津はなんの躊躇もなくその中に手を突っこんで衣類をかきわける。きちんと整理整頓された様子のクローゼットは、シャツ、ズボン、上着と順番になっているようで、乙津はその中のひとつを取った。
明るい蛍光灯の下に掲げられた春用の上着――見ようによっては白だし、暗いところで見ればグレーといえなくもない微妙な色あいだ。
「グレー、っていうか。白ですよ」
眉根を寄せて腕を組む佐川に、乙津と三木は一瞬だけ顔を見合わせる。どうするんです、と視線だけで問いかけた三木から顔を背け、佐川に「これ、お借りしてもいいですか」と訊ねた。佐川の指先に力が籠り、服のシワがはっきりと形作られる。
「警察ってそこまでするんですか? 私、被害者だったんですよね。私に似た人がたまたまいたからって、そこまで調べられなきゃいけないんですか」
「あらゆる可能性を考慮しているだけです。……ですが協力を拒否するならば、あなたを疑う材料が増えてしまいます」
どうかご理解ください、と乙津は頭を下げた。驚いた三木も、一拍遅れて慌てて頭を下げる。お願いします、と高校生の頃バレー部で鍛えられた三木の音圧に、佐川もたじろいだ様子を見せる。上着、乙津、三木と順ぐりにその視線がめぐっていって、彼女は溜め息を吐いた。
「わかりました。これ以上疑われるのもイヤですし、今日のところは差し上げます」
玄関から出る時、乙津はもう一度「ありがとうございました」と頭を下げた。佐川はきまりの悪そうな顔をして「別に大丈夫です」と顔を背ける。
図体のでかい三木を外に追いやり、自身も外に出ようとした乙津は、そこではたと思い出したように立ち止まった。佐川は片眉を上げ、彼女の様子をうかがう。
「ちなみに、佐川さんは一人暮らしなんですか?」
「は?」捜査に関わることをまた訊かれると思っていたのか、拍子抜けした顔の佐川は困惑したように目線を滑らせた。「……はい、一人暮らしですけど……。それがなにか」
「彼氏が泊まりにくる、ということもない? ご兄妹などはいらっしゃいますか」
当惑した様子だった彼女の表情が不審げに歪む。乙津の意図を図りかねているのだ。
「彼氏も兄妹もいません。なんですか、これ捜査に関係あるんですか?」
「いえ。都内で女性が一人暮らしするとなると、いろいろ危険でしょうから」
虚をつかれたように目を丸くした佐川は、まじまじと乙津のことを見た。初めて乙津が――乙津という人間がそこにいることに気づいたような顔をして、気が抜けるように肩の力を抜いた。ふ、と薬用のリップが塗られた唇から吐息が漏れる。やわらかく緩められた眉尻が、先ほどまでの神経質そうな印象を簡単に塗り替えてしまっていた。
「そうですね。……知らない間にストーカーもされてたくらいだし。気をつけなきゃね」
「洗濯物を干すときに、男性の下着を一緒にしておくのがいいですよ。空き巣などにも狙われにくくなります」
「やってみます」
佐川はやわらかく微笑んだ。二人が来た時からずっと気を張りっぱなしだったのか、今日の中で一番、彼女の心のうちに触れられるような微笑みだった。
玄関を出て鍵のかかる音を聞くなり、乙津は「持ってろ」と抱えていた上着を三木に押しつける。おわ、と落とさないように両手でしっかり掴んだ三木は、ズカズカと前を歩いていく彼女の後ろをちょこちょこヒヨコみたいに追いかけた。
「どうなんですかね」
「どうって?」
「いや、その」
三木は口ごもる。頭の中にあることを言うにはあまりに直接的だし、けれどそれをぼやかして言うだけの回転の速さを持ってるわけではない。視線をさまよわせる三木をちらとだけ見て、乙津はほんのすこしだけ歩くスピードを遅めた。
「気づいたか」
「……え?」
キョトンと目を丸くする三木。乙津は静かに続ける。
「靴が二種類あった。踵をそろえてあるものと、揃えてないもの。揃えてるのは仕事用のパンプスで、そうじゃないのはスニーカー。スニーカーは古びてて、サイズはパンプスよりも小さかった」
乙津の言うことが全く理解できない三木は、困惑したまま「そりゃ、気分によって変えることもあるんじゃあ」と純粋な意見を口に出す。
「シンクに洗いかけの食器。まだ洗剤がついてただろ」
『だろ』なんて言われても、そんなところ見ている訳がない三木はウグ、と口をつぐみかける。「そ、……それがなんなんすか?」
「彼女の手は濡れてなかった。私たちがはじめにピンポンを押してからすぐに佐川はでてきたから、手をすぐ拭いたとしてもきっと湿ってるよな。最初に彼女が扉を開けた時に触ったけど、湿ってなんかなかった」
「――――」
「寝室の布団が不自然に片側に寄ってたよな。ちょうどあのシングルサイズがもう一個ぶんだけ」
「……あの部屋には二人いる、って言いたいんですか?」
「さあな」
ようやく乙津の言いたいことを理解した三木が、ぱたりと立ち止まった。それが今回の事件となにか関係があったとは思えないし、――さっきまで自分も怪しんでいたけれど、やっぱり彼女が人を殺しただなんて思えなかった。あんなふうに人を殺めた人間が、あんなふうに綺麗な顔で笑える訳がないと思った。
「……あの人が殺したって、乙津さんは思うんですか……?」
三木は子どもみたいな顔で、――夕暮れの中にひとりぼっちで置いていかれたみたいな顔で立ち尽くした。乙津は首をふる。
「そういうわけじゃない。彼女が怪しいと思っているわけでもない。ただ──単なる被害者だと見るのも、やめたほうがいいかもしれないな」
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