第二話 『コンパスのさきが幸せ』

 ふたりが見つけた写真の中にはポルノ写真だけでなく盗撮写真も混ざっていた。被害者(いや、もはや加害者か)のスマホでは証拠を見つけられなかったけれど、押収したパソコンの中に写真が保存されていたので、暴行事件は被疑者死亡の書類送検で終わるだろう。

 写真が撮影された日にちから、被害者はターゲットとなる女性をストーキングしてから犯行に及んでいたと推測された。警察に保存されている記録と照合して、盗撮写真は見つかったが被害届を出していない女性たちに乙津と三木が訪問しにいくこととなった。

 訪ねた一人目の女性は宮本といった。平日だったので職場を訪ねると、幸薄そうな美人が「わたしが宮本ですけど」と出てきた。会話が漏れないように会議室で待っていた乙津は、安心させるように柔らかな笑みを浮かべて、警察手帳を開いて見せる。


「警視庁の乙津と申します。こっちは三木」


 ふたりでお辞儀をすると、一拍遅れて彼女も会釈する。警戒するように──あるいは怯えるように顎を引いたまま、「それで……、なんでしょう」と口を開いた。

 乙津はスーツの胸元から被害者の写真を取り出して彼女に見せる。は、と宮本は目をみはった。


「この男に見覚えはありますか」

「こ」震える声で宮本が訊ねる。「このひと、が、どうか……、したんですか」

「殺されたんです。一昨日の深夜」


 宮本の瞳が波打つように大きく震えた。そして直後、わっと泣き出しながら地面にくずおれた。驚いた三木が手を伸ばすが、それより先に乙津が彼女の背を優しく抱える。綿のような優しさを含んだその手つきに、この人こんなふうにもできるんだ、と口に出したら殴られそうなことを考える三木。


「……被害届は、出されなかったんですね」

「け、警察に言ったら、写真をネットにさらすって……。こん、こんなこと、だれ……っだれにも、いえなくて」

「…………」

「こわかった。本当にこわかった……」


 自身の肩を抱きすくめながら唇を震わせる宮本の背中を、乙津は何も言わずに撫で続けた。三木は伸ばしかけていた自分の手をひっくり返して、その手のひらを見つめた。宮本になにか声をかけてやりたかったし、乙津と同じように寄り添ってやりたかった。だってそれが、三木が憧れた刑事の姿だ。

 だけど今の自分はちっともそうじゃなかった。それどころか宮本を怯えさせる要因にすらなりえる。


「がんばりましたね」


 乙津の言葉が全身の骨に響いた。宮本はいっそう強く泣きだして、乙津に縋った。乙津は彼女のことをしかと抱きしめる。

 宮本は頑張った。乙津も頑張っている。

 だけど自分が頑張っているだなんて、三木にはどうしたって断言できなかった。


 * *


 次にふたりが向かったのは佐川という女の職場だった。彼女だけは盗撮写真しかなかった――他の被害者と同じようなポルノ写真がなかったのだ。そして彼女の写真がもっとも日付が新しかった。故に彼女はまだ被害に遭っていないのではないか、事件のこともなにか知っている可能性はないか、という考えもあった。


「初めまして。佐川と申します」

「ああ、ご丁寧に」


 宮本と同じようにごく簡単な自己紹介をする。佐川は茶色に染めたボブの、利発そうな女性だった。白いパンツスーツを身に纏い、いかにも仕事ができそうな雰囲気がある。


「早速ですが、この男を見たことがありますか」


 被害者の写真を見せると、佐川はキョトンとした顔になって、不可解そうに首を振った。嘘を吐いているようには見えない。全く知らない男について尋ねられ、困惑している一般人にしか思えなかった。


「この方がなにか……?」

「殺されたんです。一昨日の夜」

「────」

「なにか知りませんか?」


 佐川は一瞬だけ目を伏せた。それは自身の行動を思い返していたのかもしれないし、あるいは、全く別のことを考えていたのかもしれない。それを二人が判断するより早く、彼女は顔をあげ第一印象と同じく「知りません」とはっきり答えた。

 乙津はわずかに顎を引いたのち、三木に「写真」と短く言い放つ。何の写真かわからずポケ、と突っ立つ三木の腰を小突き(身長差的にどうしてもそうなる)、「被害者宅の!」と形容詞をつけくわえた。慌ててポケットの中に手をつっこんで数枚の写真を取り出す三木。そしてそれを佐川に見せた。


「あなたはこの一ヶ月近くにわたり、この男にストーカーされていたんです」


 えっ、と口を押さえる佐川。三木が見せた写真は明らかに盗撮写真だった。カメラに目線が向いていないし、遠くから撮影しているのか画質がかなり荒い。佐川は心底ぞっとしたような様子で自身の腕を擦った。


「し」こくん、と白い喉が動く。「しりませんでした。……いえ、でも、確かにここ最近、誰かに尾けられているような気はしてて」

「警察に相談はされましたか?」

「いや、そんな。だって、まさか自分がストーカーされてるなんて思わなかったし……。でも、あのう、本当に知りませんでした。この人を見たことも……、あるかもしれないけど、覚えてません」


 乙津と三木が会社を出ると、ビルの反射光が強く二人の目を刺した。手を掲げて目元に影を作りながら、「手がかりなかったですねえ」と三木が独り言のような調子で言う。


「死亡推定時刻も、佐川さんは会社にいたっていう証言が取れたし。……死ぬのが被害を受ける前で良かった」


 被害者が殺された夜、佐川が零時過ぎに会社を出ていく様子がビルの防犯カメラに映っていた。いちおうデータは本部に持ち帰るが、佐川はほぼ確実に犯人ではない。巻き込まれただけの──いや、巻き込まれる前の一般人。

 乙津は一瞬だけ足を止め、何も気にせず歩いていく三木のスネを蹴り飛ばした。「あイッデェッ!」と叫んでしゃがみこむ三木に、「あんまり言うな。そういうことは」と忠告する。


「なんで……。ゴミ野郎じゃないっすか。被害者がこれからずっと怯えて生きて、加害者がのうのうと世にはばかるほうがダメでしょ」

「私だって警察じゃなかったらいくらでも言うよ」


 怒られる前提で反駁した三木の耳に届いたのは、予想よりも柔らかく、しかし冷たい声音だった。


「だけど私たちは警察だから」


 絶対に正しくなければならないんだよ。


 * *


 捜査本部に戻り、事情聴取の結果をまとめていた三木の頬にキンキンに冷えた缶が当てられる。


「つめッッた!」


 驚きで体が飛び跳ねた拍子に机の横に積み上げてあった書類をはたき落としてしまい、「あァーッ!?」と悲鳴が響く。三木に缶を押し当てた張本人はその様子を見てげらげらと哄笑した。三木の見知らぬ男だった。


「な、なにするんすか、誰なんすか!?」

「なんだよ。せっかく差し入れしてやろうと思ったのに」

「ありがとうございます」

「変わり身がはやいな……」男は含むように笑った。「藤野浩一だ。はじめまして」


 藤野はわざとらしく挨拶をした。見た目は四十代にさしかかっていて、笑みを見せた時に増える目元のシワが印象をだいぶ柔らかく見せている。だけれど三木をまっすぐに射抜く眼光は刑事としての鋭さを失ってはいない。受け取った缶コーヒーを三木はありがたく頂戴した。昨夜は結局家に帰らず警察署に泊まったし、メシは一番近くのコンビニでセールだったものを適当に買ってきた。朝飯だか夜飯だかわからない弁当を腹の中にかきこんだのはもう数時間前だ。


「乙津はどうだ」

「──? いい先輩ですけど」


 三木は自分の素直な考えを口にした。ちょっと口が悪いしけっこうすぐ手も出すしかなり犯罪まがいのことをやっているけれど、でも、はたから見てる乙津日葵という刑事は、本当にいい先輩だった。

 藤野は一瞬だけ動きを止めて、そうか、とシワを深く刻んだ。普段笑う人間にしかできないシワだ。


「おまえ、昔のあいつに似てるよ。直情的で、言うことは素直にきくのにどっか生意気で……」ふ、と藤野は息をもらす。「顔が幼いところもな」


 反射的にぺたりと己の顔を触る三木。いまだにコンビニでの年齢確認が欠かされないことはわずかなコンプレックスでもあるのだ。だけど乙津と似ている、と言われることは嬉しい。複雑な気持ちが彼の唇をキュッと引き結ばせた。


「あの頃がなつかしいよ」


 遠い過去を見るように目を細めた老人に、三木は「昔、ていつすか?」と悪気ない質問を口にした。単純に『似てる』と言われたことが疑問だったのだ。確かに童顔っぽさはふたりとも同じくらいだ。三木は初対面の時乙津のことを同年代だと思っていたし。

 だが正直いって乙津がその言葉を聞いたら怒り出すくらい、性格面では似ていないと思う。彼女と接してからまだ数日の自分だけれど、それくらいは流石にわかる。ただ乙津にもこんなポンコツな自分に似てる日があったかと思うと、それは気になった。

 藤野は一瞬だけ、まるで初めてのものを見るように目をみはって――すぐに表情を消し、ガタリとパイプ椅子から立ち上がった。


「喋りすぎたな」

「え?」

「今言ったのは気にせんでくれ。……そろそろ事件発生から四日だ。さっさと犯人捕まえんぞ」


 バシン、と力強く三木の背中を叩く藤野。げほ、と咳き込んだ三木が顔をあげれば、会議室から出ていく彼のスーツが見える。

 ──おれと似てるなんて、想像もつかないな。

 彼女の横顔を思い浮かべた。まっすぐに通った稜線のかたち。まろい頬と、濃い口紅の色。烏の濡れ羽色のような黒い瞳。


『私たちは警察だから』


「……やっぱり、全然似てないと思うけどなあ」

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