第一話 『せめて結末を呪いにいこう』
昼には捜査本部が設置された。一番最初に捜査に当たった西山の班──乙津にとっては既知の情報も出てくるが、情報は常時更新されるので話を聞かないワケにはいかない。もっとも眠気に耐え忍ぶ乙津の脳がいったい何割の話を理解したのかは謎であるが。
管理官の「以上!」という鋭い声に頬杖をついていた乙津はガクッと頭を落としつつ、ほかの捜査官に混じり背筋をぴんと伸ばしてそれを誤魔化した。前の席にいた歌川は一瞬だけ振り返って乙津を睨みつけたが、素知らぬ顔で貫きとおした。
不思議と会議が終われば脳は冴えるもので、瞬きをする間に覚醒した乙津は背もたれにかけていたジャケットをひっつかんで会議室の外へ出る──その首根っこをガシッと掴まれる。ぐえ、と絞殺体になる間際のような声を出した乙津が振り返れば、歌川が呆れた顔で乙津のシャツ襟を掴んでいた。
「無駄なところだけ早えんだな、おい」
「歌川さんに褒められても」
「褒めてねえよ! なんで俺が褒めてると思った!? 国語の成績1かおまえ」
そのままいつもどおりの反論が飛び出るかと思われたが、意外にも歌川はそこで口をつぐんだ。そして乙津の首根っこを親猫のように掴んで離さないまま、会議室の後ろへとズカズカ歩いてゆく。しぬ、首しまってる、と暴れる乙津の戯言を聞き流した歌川は唐突にその手を離した。げほっ、ごほ、と咳をする乙津の滲んだ視界に、背の高い男が現れる。
「──? ケホ」
「機捜からヘルプを呼んだ。今回はコイツと組め」
咳が止まった。ぽかん、と口を開けて間抜け面をさらす乙津の目の前で、背の高い男が人懐っこそうな笑みをニコ! と浮かべ、
「ども! さっきぶりスね。三木
乙津は日光に当てられた吸血鬼みたいな顔をわざとらしくして首をぶんぶんと振った。それを無視して歌川は、
「三木、おまえの階級はなんだ」
「巡査部長です!」
三木は柴犬みたいにぺかっとした笑顔のまま勢いよく言った。
「だそうだ。おまえより上だな」
乙津は肩を竦めた。階級がなんになるっていうんだ。階級でメシが食えるか。ていうか巡査部長ならアンタと一緒じゃないですか、なんでアンタは『自分はコイツより上だが?』みたいな顔してるんですか? という言葉が一瞬で乙津の頭の中に駆け巡ったけれど、それを言ったら本当に顔面をぶん殴られそうなので口を噤んだ。
歌川の後ろから西山が出てきて、「乙津さん、今回の事件だけですから」といつもと変わらぬ柔和な顔で宣った。グ、と喉に小骨が刺さったような顔をする乙津。歌川と違って西山はれっきとした乙津の上司だった。そして警察という組織は、上司の命令に従わないようなドアホは全くいらないのだ。
「………………よろしく。乙津
「はいっ! ふつか……、ふつつか? ものですが、よろしくお願いします!」
歌川がぶはッと噴き出して、結婚かよ、とげらげら笑ったので向う脛を蹴ってやった。それを見た三木が笑ってしまうくらい目をきれいにまんまるにしていたので、それでいくらか溜飲が下がった。
* *
乙津と三木が向かったのは被害者の自宅である。スマホから被害者の身元が割り出せた。
「今時は怖いっすよね。スマホ一個の中に個人情報ぜんぶ入ってんだから。なんか昔そういう映画ありませんでしたっけ?」
「しらん」
「スマホといえば、おれこの前ばあちゃんに買ってあげたんすよね。いろいろ設定してあげたら先週くらいから毎日ばあちゃん家で飼ってる猫の画像が送られてきてるんすよ。見ます!? 驚かないでください、マジでかわいいです」
「みない」
「おれも独り暮らしするときに猫飼おうかなと思ったんですけど、警察官って仕事やっぱり不規則じゃないですか。機捜に配属されてからはけっこうマシになったんですけどね、丸一日の休みがちゃんとあるし」
「…………」
乙津は立ち止まり、きょとんとした顔でこちらを見る三木のことを上から下までまじまじ眺めた。こいつ、喋ってないと死ぬのか?
「あ! それに」ぴんと人差し指を立てる三木。「女性で捜査一課なんてすごいっすよね! 会議室、びっくりするくらい男ばっかでしたもんね」
乙津の手首の筋が浮き出た。乙津が二十代だったら、三木は三秒もしない内に鼻血を流して倒れていた。だけどその代わりに、肉食獣のような低い声で「バカにしてんのか」と唸る。
言葉遣いが荒くても、声が高くなくても、かわいらしくなくても、乙津は女だった。それは乙津の人生に一生付きまとうもので、けれど警察官──しかも捜査一課にならなければ、今ほど意識もせずに生きていけるはずのものだった。
今の班には恵まれている。西山は優しいが、女にも男にも平等に接する。歌川だって言動はパワハラ上司そのものだけど、あれでいて危険な所からは乙津を遠ざけようとする時もある(それが不愉快であるのには違いないが)。女である、という事実は──少なくとも乙津にとっては、あまりに変えがたく、耐えがたい事実なのだ。
「──? ちがいます」
三木がはにかむように頬をあげる。
「おれ、捜査一課になるの夢なんす。ほんとにガキの頃からの夢で。だから乙津さんと組めるって聞いたとき、メチャクチャ嬉しかったんすよ」
それは、本当に、一点の曇りもない笑顔だった。
つらいことなんて何にも知りません、みたいな。犬ころが新しいおもちゃのボールを差し出されたみたいな、心底しあわせそうな顔だった。
「────」
無意識に力を入れていた乙津の肩がストン、と重力に従って落ちた。乙津はあらためて目の前の男を見つめた。ほんの数秒前に見た人間とはまるで変わっているように見えた。そんなことはあるわけがないのに。
フ、と息を吐く。「……おまえ、あまりそういうことを言うなよ」と視線を前に戻すと、キョトンとした三木が首を傾げてうしろに続く。
「なんでっすか? 女のひとで刑事になるのは大変だって聞きますよ。乙津さんガンバったんでしょ」
「がんば……、……。そういうの、嫌われるぞ。頑張ってても、それを他人に見られたくない人間だっている。おまえのそれは、その人間の全てをぶち壊す行為だよ」
「──? おれなら褒めてほしいっすけど」
乙津は「おまえ
「……あ、ここすかね」
三木はトタタッと軽く走り、石塀に記載されたアパートの名前を確認する。乙津もスマホの地図を見て頷いた。目的地──被害者の自宅だ。
二階建ての古いアパートだ。壁は元々そうだったのか、風化によるものなのかはわからないが、水彩で描かれたようにぼんやりとした色だった。階段は黒い塗装がところどころ剥がれ落ち、乙津が靴を乗せるたびに甲高い音がした。被害者の部屋は二階の一番端にある。
ドアノブに手をかけても、当然だが扉が開く様子はない。ぐるりと風景を見渡してみた。乙津にとっては、『被害者の家のまわり』。だけど被害者は、ここを毎日当然のように通り、そして死んだ日も当然のようにここを通るはずだった。音の鳴る階段を上って、一番端のこの部屋まで来て、鍵を回すはずだった。
「乙津さーん! 大家さん今いないみたいでえー!」
近所迷惑のことなど一ミリも考えていないだろう声量で三木が階段を駆け上がってくる。あした出直しましょう、と言う三木をちらりと見上げてから、乙津はおもむろにポストの中に手を突っ込んだ。エ、と間抜けな声を出す三木を無視してそのまま中を探る。被害者はこまめにポストの中を見るタイプではなかったらしい。数枚の紙が擦れるガサゴソという音と、指先に硬質なものが触れる感覚。ポストの中から手を引き抜いた彼女は、人差し指と中指で挟んだ鍵をぷらぷらと揺らした。
「んなボロアパートに住んでる人間の防犯対策なんてこんなモンだよ」
三木は唖然としたまま口を開けていたけれど、乙津が手首をくるりと返してドアノブに鍵を差し込もうとするのを見て「まっ、待って!」と慌てて制止する。
意味がわからなそうに眉をひそめる乙津。なんでおれがこんな顔されなきゃならないんだ? と思いながら、「い、違法捜査ですよ。不法侵入……です……よね?」と三木は正論を述べる。乙津があまりにも『それがどうした?』と言いたげな顔をしているので、自分が正しいのかどうか不安で声はどんどんと消え入りそうになっていった。
「大家に確認取るかどうかだけの違いだろ。どうせやるこたァ同じなんだから」
「いやそう……、そうですけど。でもあの、流石のおれもよくないと思う、」
「知らね」
「ああーっ!」
もだもだと悩む三木の手を軽く振り払い、サッと鍵を開けて中にずかずかと入っていく乙津。自分よりずっと小さいその背中が部屋の中へと躊躇なく入っていくのを、その場に立ち尽くしたまま見つめる。助けを求めるように周囲を見渡せば、自分を捜一の人に紹介してくれた機捜の大先輩の幻覚が現れた。
期待をこめて先輩を見つめる三木。
完璧な笑みで親指を立てる先輩。
「…………」
「三木ぃー? 来ないのかよ」
ガックリと肩を落とした三木はぐしゃぐしゃと自分の髪をかき混ぜ、吐き捨てるように「行きますよ!」と叫んで、手袋をつけ中に
室内はかなり乱雑な様子だったが、まあ一人暮らしの成人男性ならこんなものか、ともいえる。荒らさないように慎重に動く三木とは対照的に、乙津はタンスの引き出しを開けたり散らばった衣服をひっくり返したりと好き放題だ。ざっと見渡してみても事件の手がかりになりそうなものは何もなさそうだ。
機捜の仕事は主に屋外だ。丸一日車で街をパトロールし、110番があったらいちはやくそこに駆けつける。屋内での通報があればもちろんそこも捜査するが、こうやって一人の他人の家を捜査することはほとんどなかった。けれど流石捜査一課というべきか、乙津の手際はかなり良い。泥棒だと言われても納得する。
なんもなさそうすよ、と言いかけた三木の前を通り過ぎて、乙津は寝室へ向かう。
寝室は布団が畳まれもせずに敷かれており、洗濯物がまだハンガーにかけられたままだった。乙津は布団を畳んで床の痕跡を調べたり、洗濯物に触れたりする。
「……普通に帰ってきてたみたいだな。何日も帰ってこなかった感じじゃない」
その言葉ではたと気付く。何を調べているのだろうと思ったけれど、被害者のいた痕跡を見ていたのだ。床に溜まった埃。洗濯物の様子。洗われたあと、まだ仕舞われていない食器たち。
三木はぎゅっと手を握りしめた。
──ちゃんとしないと。
おれも刑事だ。捜査一課だとか、機動捜査隊だとか、そんなん被害者と犯人とは何の関係もないんだから。
「手がかりはなさそうだな」
乙津は呟きながら押し入れの襖を開ける。
「────」
そこにあったのは、大量のポルノ写真だった。
絶句する二人。三木はそれを頭で理解するのに数秒時間がかかって、処理しおわった瞬間にバッと目を背けた。冷や汗がドッと出る。
──なん──え? どういうことだ。ここは、被害者の自宅、のはずで。あれ、本物か? え、本物、って。だったら、どう、どういうことなんだ。
頭の中を意味のない言葉がぐるぐる駆け巡る。完全に硬直してしまって動けない三木の耳に、銅鑼を叩くほど大きな舌打ちが届いた。びく、と肩が跳ねる。
「三木」
「はっ……、は、い」
どもりながらも返事をして、薄目で彼女の方を見やった。乙津は動揺した様子はなく──しかし明らかにその全身に怒気を滲ませていた。
「連続婦女暴行事件、覚えてるか。最後が……、たしか二ヶ月くらい前」
もちろん覚えている。なにせ、
「しょ、初動捜査は、おれが担当しました」
乙津はびっくりした顔で振り向いた。初めて彼女の意表を突けたのがこんなことだなんてめちゃくちゃイヤだけれど、「そうか」と頷いた彼女に認めてもらえたみたいで、それはちょっとだけ嬉しかった。
「今回のガイシャが恐らくその犯人だ。ほら、このひと──二件目の訴えを起こした女性だろ。リベンジポルノ用に撮影してたんだ」
乙津が一枚の写真を手に取ってぴら、と三木に見せる。途端ギュ! と目を瞑る三木に嘆息し、「それで刑事が務まるか!」と一喝する乙津。スミマセン、と三木は顔をぺしょぺしょにしながら謝った。
たく、と息を吐きながら乙津は写真に映った人物を確認していく。胸糞悪いことには違いないが、気分が悪いだけで捜査をやめることなんてできない。乙津は本格的に捜査に参加した訳ではなく捜査資料をかるく見たくらいだが、大量の写真のうちの数人には見覚えがあった。
「これ。と……これ、あとこれ。これも」
写真の人物を仕分けしていく乙津に、三木が顔色の青いまま「よく、覚えてますね」としぼりだした。
「顔は一度見たら忘れないタイプでな」
乙津はそう言って肩をかるくすくめた。三木は見ているだけでもきついのに、自分の記憶と照らし合わせて被害者の把握に務める乙津は、やっぱり立派な刑事だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます