プロローグ

 ラーメンが好きだ。


 特に好きなのは醤油ラーメンの太麺のこってりしたやつ。だけど家系はそんなに好きじゃない。でもアッサリ系もだめ。ラーメンを食べている、という感じがしないから。大盛り全部のせで、と頼むと、初めて行くラーメン屋では、大抵驚いた顔を一瞬したあと、そのまま何事もないように業務が遂行される。

 だが今日のラーメン屋は乙津の行きつけだった。「醤油ラーメン大盛り全部乗せ」と息継ぎもナシに乙津が注文すると、店主が笑って「はい、いつものね」と返すくらい。

 しばらくしてからドン、と乙津の目の前に置かれた大きめのどんぶりに、隣のサラリーマンがすこしだけ驚いた顔をした。乙津の細い体のどこにこのラーメンが、とでも考えたのだろう。だけど乙津はこうやって食べるぶんのカロリーを毎日きちんと消費している。腹筋がきれいにシックスパックになるくらいには。

 ぶ厚い太麺を音を立てて啜り、時折スープも味わいながらチャーシューを噛み切る。お茶で味を一度リセットしてから、また皿まで喰らう勢いでラーメンを食べ進めた。具の一切なくなったどんぶりを見て満足気に目元をゆるめ、両手で皿を持ってスープを一気飲みする。ごくごくと白い喉が何度か動き、ぷは、と乙津が息をつく頃には皿の中には一滴のスープも残っていなかった。


「ごちそうさまでした」


 大盛り全部乗せは税込み千円。会計のしやすさと腹の中の満足感に息をつきながら、乙津は財布を取り出す。そこでちょうど電話が鳴った。ワンコールもしない内に即座に応答ボタンを押す。二言三言会話したあと、店員に押しつけるように千円を渡した。


「お仕事ですか」

「はい、急ぎで。レシートもいりません」


 もうレシートの準備をしていた店員に早口で述べると、駆け出すように暖簾をくぐって外へ出ていく。店員はそんな後ろ姿を見て、残されたレシートをぽつんと片手に握っていた。


「あの人、なんの仕事してるんでしょう」

「あれ。知らなかった?」


 店主がぱちりと瞬きをする。


「刑事だよ。捜査一課の、ね」


 * *


 港区、新橋のある公園。セミがけたたましく己の存在を主張するなか、立ち入り禁止のセキュリティテープをくぐり、ブルーシートも越えたところが、乙津の目的地。警備している制服警官にお疲れさまです、と声をかけながら歩いていく。

 ブルーシートをくぐると、屋外だというのにまだ血の匂いがした。手袋をつけたままスン、と鼻をこすれば、先輩の刑事である歌川が「遅かったな」と乙津をニヤリと見る。


「あれえ? たった一人でどうしたんだよ。相方くんは置いてきたのか」

「うるさいな。状況はどうなんです」

「敬語使えバカ」


 バシン、と頭を思い切りはたかれて患部を押さえた。歌川の相棒かつ、班長である西山が目じりのシワを深くして笑った。親子ほども歳の離れた西山に、まるで兄弟喧嘩のような有様を微笑ましく思われているのが如実にわかり、さすがにきまりが悪くそれ以上の口論はやめておく。

 乙津の相棒はつい二日前、交通事故に遭った。重傷ではなく足の骨を折ったのと全身打撲くらいなのだが、一月は入院するということでこの二日乙津はひとりで行動していた。事故に遭ったと聞いた時はさすがに面食らって見舞いにも行ったのだが、「オレ来週彼女とデートするって約束だったんすよお! またドタキャンしたら今度こそ別れ話されます」とさんざ喚いてたので、まあ元気そうだった。

 乙津は横たわる遺体を見下ろした。青空の下にある晴れやかな公園とは何一つ合わない、目を見開いたまま血に染まった己の服を握りしめている遺体。


「機捜の方がいま来るので、もうすこし待ちましょう」


 西山が柔和な顔立ちとおなじくらいやわらかな口調で言った。警部だというのに階級が下の者に対しても常に敬語を崩さない、捜査一課では珍しいくらい人あたりの良い人である。はい、と乙津も頷く。


「ん?」歌川がスン、と鼻を鳴らす。「なんかニンニクのにおいしねえか」

「ああ。たぶん自分です。つい十分前までラーメン食ってたので」

「今十時半だぞ!?」


 早すぎるだろ、もっと健康的で規則的な時間にだな、と説教を始める歌川に顔をしかめる乙津。歌川は今年で三十五で、つい最近娘が産まれたばかりだった。それ自体はめでたいことではあるのだが、それ以来乙津に対し説教じみた話をすることが多くウンザリしていたのだ。乙津だってもう三十一なのに、ほとんど歳の変わらぬ同僚に父親のような顔をされたくはない。だったら西山の方がまだマシだ。


「そうっスね、飯はちゃんとした時間にちゃんとした量を食わないといけないスよね」

「その通り。良いこと言うじゃねえかおまえ……、エッだれ!?」

「────」


 歌川の背後にいつの間にか立っていた、背の高い男。大袈裟に肩を跳ねさせて距離を取った歌川に「ああ、すみません」とニコニコしていた表情から一転、眉じりをキュッと下げた。童顔で、雰囲気がどことなく動物っぽい。チャウチャウとか、カピバラとか、ちょっと抜けてるタイプの動物。


「一機捜の三木です。機捜で情報すり合わせてたんで遅れました」


 ぺこ、と頭を下げる三木に合わせて乙津と西山も会釈する。歌川はぞんざいに頷くだけだった。


「検視によると、被害者は三十代後半の男。身分証も財布も、身元のわかるものは持っていませんでした。スマホが尻ポケットから見つかったので、今解析班に回してます」


 乙津は遺体を見下ろす。四十代くらいかと思っていたが、それよりは若いらしい。三木は手帳を見ながら続ける。


「死因は出血性ショック死、死後硬直から死亡推定時刻は昨夜の二十二時から二十四時。死斑から移動された形跡もなし。致命傷はこの……、胸の傷ですね。だけど胸・腹あわせて五箇所刺されています。争った形跡もあり。傷口から凶器は市販の包丁だと推定。ただ公園周辺には見当たらず、どのメーカーの包丁かはまだ特定できておりません。現段階の聞き込みだと夜中はどうもかなり人通りが少ないようで、目撃者もナシ」


 簡潔に情報を並べた三木は人懐っこい笑みを浮かべ、「以上です!」と元気よく言いきった。なかなか聞かない声量に圧倒された歌川は、「はあ、どうも……」と曖昧に返事をした。


「仕事帰り、っていうわけでもないですよね」


 遺体の男は見たところただの私服だった。長袖の黒のパーカー(夏だというのに)とジーンズ。夜中にすこしコンビニに出かけた、と想定するほうがまだ合っている気がする。

 乙津は遺体のすぐそばに落ちていた不織布の白いマスクを指さし、「あれは?」と三木に訊ねた。


「おそらく被害者のものだろう、って」

「仕事から帰ってきて……、すこし出かけようと思って、公園を通りがかった。そこでグサリ」歌川は呟きながら、空中に包丁を差し込む仕草をする。

「いちおう言っておくと」三木がページを繰る。「一番近いコンビニはここから二百メートルほど離れたところです」

「通り魔的犯行なのか、怨恨によるものかがわかりませんね」


 西山の言葉に乙津は頷く。財布がなくなっていることから強盗殺人と捉えることもできるし、五度も刺されたこの遺体を見れば怨恨だとも判断できる。


「目撃者は?」

「いま聞き込みしていますが、夜中はどうもほとんど人通りがないみたいです。朝になって──一時間くらい前ですね、通りがかった主婦が第一発見者で、それが端緒です」


 乙津の言葉に三木が手帳を見つつ応えた。西山がなるほど、と頷き、


「通り魔による犯行の可能性もあります。警邏けいらを増やしてもらいましょう。機捜さんには迷惑をかけることになりますが」

 街中のパトロールは何も制服警官である交番勤務の警察官だけが行っているわけではない。機捜による覆面パトカーの巡回も治安維持には重要だ。


「全然!」三木はまたニコニコして自分の胸をどん、と叩いた。「街の平和を守るのがおれたち警察です。なんともないすよ」


 西山は一瞬きょとんとして、そうですね、とほがらかに笑った。


「なんにせよ、ガイシャの身元確認を急ごう。機捜の方は引き続き地取りききこみを頼みます。おい乙津、おまえ付近の防犯カメラ確認してこい」

「班長ならまだしもなんであなたに指図されないといけないんですか……」

「くそ生意気だなおまえはホントによ!? 俺が先輩だからだよ!!」


 とっとと行け、と肩を押されて乙津は顔をしかめたまま公園内をぐるりと見渡す。澄みわたる青空と、慌ただしく動く捜査員たち。

 乙津は目を閉じて、時計の針を午前十時半から、昨夜の深夜に時間を巻き戻してみた。誰もいない公園の中で歩く被害者の男性。


「なんでこんなところを通ったんだろう……」

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