第19話 山頭火、納豆を食べる
・秋空、はるゞおくられて来た納豆です
ひと昔前までは紡錘形の藁づとに入っていたが、いつの間にかプラスチックの容器に入って売られるようになった納豆。
昔はしょう油を混ぜるのがごく普通だったが、これもいつの間にか小袋入りのタレ、からし付きで売られるようになった。
刻み葱を加え、時計回り、反時計回りを何回かくりかえし、引いた糸で全体が白くなるまでかき混ぜるのは、まぜればまぜるほどおいしくなると誰かに聞いて以来の事。
温飯にかけ、まんべんなく均等に敷き詰め、垂直掘削露天掘り方式で食べる。
納豆を飯にかけるやいなや、ぐちゃぐちゃにかき混ぜる人がいるが、それではさっき右手が腱鞘炎になる危険を冒してまでひたすらかき混ぜた努力がふいになる。
私は飯の白と納豆の茶色のくっきりとしたコントラストを保ったまま、口中に静かに成仏させてやるのである。
さて冒頭の句の秋空は、昭和7年10月16日の日記にあるそれである。
「けさの空はうつくしかった、月はもとより、明星のひかりが凄絶、いや冷徹であった」という日の秋空である。
山頭火の元に送られて来たこの納豆、現在スーパーの棚に並んでいる糸引き納豆とは違う。
塩辛納豆である。塩辛納豆は奈良時代に中国から伝わり、古来寺院の食として作られてきたそうな。生産地によって浜納豆、大徳寺納豆、唐納豆などと呼ばれ、とくに大徳寺納豆は一休がその製法を伝えたとされ、一休納豆とも言われているそうだ。
山頭火は上掲の句の前書きにこう書いている。
「浜納豆到来、裾分けして」
納豆の贈り主の名前も、おすそ分けした相手の名前も前日10月15日の日記に、山頭火は律義に書き残している。
「松の会の同人(平野多賀治)君から、浜松名産『浜納豆』を贈って下さつた、さつそく頂戴する、これで一杯も二杯も三杯も飲めるといふものだ、私一人には多すぎるから、樹明、冬村、両君にお裾分する」
浜松在住の小児科医であった平野多賀治には句集『袖村句抄』(昭和三十一年初秋 浜松 青蓋書屋発行)がある。
浜納豆は今川義元や豊臣秀吉などの戦国武将が兵糧として珍重したそうで、特に徳川家康は浜納豆が気に入り、その後江戸時代には歴代の将軍にも献上されていたそうな。
見た目は小さな乾いた味噌の粒、見かたよってはヤギや鹿のフンを連想させられ、食事時はその連想を振り払わねばならないが、山椒の風味がきいていて、山頭火にならって酒のつまみ、お茶漬け、あるいは我家ではすでに実験済みだが麻婆豆腐にも使える。
この到来ものの浜納豆について、山頭火は3日後昭和7年の10月19日の日記にこう書いている。
「今日の御飯は可もなく不可もなし、やっぱり底が焦げついて香しくなるやうでないとおいしくない。朝課諷経は食後にして、大根おろしに納豆で食べる、朝飯はいちばんうまい。」
ちなみにこの日の彼の昼めしは
「早目に昼飯、塩昆布でお茶漬さらさら」
私も納豆はもっぱら朝食時に食べる。ぎりぎり妥協しても昼食まで。
山頭火も納豆朝飯派と知り、大いに我が意を得た思いがする。
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