第18話 山頭火、フグを食べる
・これが河豚かと食べてゐる
昭和5年11月16日、大分県中津にある料亭、筑紫亭で山頭火も交えての句会があった。
句会の後は宴会になった。
その日の山頭火の日記を見てみよう。
「朝酒、何といふうまさだらう、いゝ機嫌で、昧々さんをひつぱりだして散歩する、そして宇平居へおしかけて昼酒、また散歩、塩風呂にはいり二丘居を訪ね、筑紫亭でみつぐり会の句会、フグチリでさんざん飲んで饒舌つた、句会は遠慮のない親しみふかいものだつた」
この日の日記の末尾にあるのが上掲の句である。
筑紫亭は明治32年創業の鱧料理でも知られた料亭。
玄関脇には上記の句を刻んだ山頭火の句碑がある。
この句の「これが河豚か」は二つの解釈が可能である。
この日、山頭火は生まれて初めて河豚を食べたとする見方。
今ひとつは筑紫亭の河豚のうまさに、今まで口にした河豚は何だったのか、あるいは長い事口にしていなかったフグとはこんなにうまいものだったのか、という驚きの表現という解釈。
この問題に答えを与えるべく私は山頭火の全集を読み直した。
ちなみに山頭火はフグに対して、俳句や日記の中で「フグ、河豚、鰒」の三通りを用いている。
大正2年の俳句誌「層雲」に発表された彼の句に
・窓に迫る巨船あり河豚鍋の宿
がある。
海沿いの宿で河豚鍋をつついていたら、突然窓の外を大きな船が通っていったのだ。山頭火はこのとき河豚鍋をつついていたと私は想像する。
大正2年といえば、山頭火は31歳。
明治40年に25歳で種田酒造を開業し、当時としては特権階級の納税義務を果たしていた、今でいえば青年実業家時代である。
しかも種田酒造は河豚の本場下関と同じ山口県防府にあった。金に不自由しない立場で、かつ食いしん坊で強靭な胃袋の山頭火がこの当時河豚を口にしなかったとは考えにくい。
「窓に迫る巨船あり河豚鍋の宿」の句を詠んでから3年後の大正5年4月、種田酒造は巨額の負債を抱えて倒産。 父竹次郎は行方不明になり、山頭火は妻子を連れて熊本へと夜逃げ同然に流れていく。ここから山頭火に一生ついて回る貧乏暮らしが始まる。河豚どころか食べる物にも事欠く日が珍しくなくなる。
そして昭和5年、
・焼き捨てゝ日記の灰のこれだけか
の句とともにそれまでの日記を全て焼き捨て、放浪流転の旅が始まる。
日記を焼き捨てた彼はそれまでの自己と決別した。
そして昭和5年11月16日のこの日、ほぼ10年ぶりに口にしたフグに、むかしの味の記憶がよみがえってきた。
(ああ、河豚とはこんなにもうまいものだったのか)
その感動を詠んだ句だと私は解釈する。
この昭和5年は山頭火にとって、河豚に関してはリッチイヤーだった。
筑紫亭のフグを味わってから3日後の11月19日には門司の句友、源三郎宅で「ぞんぶんに河豚を食べさせていただいて」いる。この日の河豚もうまかった。その喜びを、2日後の11月21日の日記に、次の句に詠んでいる。
・久しぶり逢つた秋のふぐと汁
・鰒たべつゝ話が尽きない
11月26日になってまたもや中津の筑紫亭の河豚を思い起こして
・はじめての鰒のうまさの今日
と日記に残している。
筆まめな山頭火は句友への葉書にもフグのことに触れている。
木村緑平へは
「中津から関門へ、―フグのうまさに鉄鉢持つのが嫌になりました」
松垣味々には
「此度はたいへん御世話になりました、ふぐはおいしく話はつきない、はしゃぎすぎたようですね、あつく御礼をもうしあげます」
しかし山頭火にとっての河豚の黄金時代はこの昭和5年11月に限られていたようだ。
その後といえば、昭和7年4月22日の日記に次の句がある。
・汐風を運ばれる鰒がふくれてゐる
しかしこれはおそらく魚市場の情景描写であって、ふぐに舌鼓を打ったのではない。
昭和5年に「これが河豚かと食べてゐる」の句をよんでから8年の月日が流れた。
九州を旅する山頭火は再び河豚の黄金郷中津にやって来た。
昭和13年3月16日の日記にはこうある。
「中津は鰒の本場だ、魚屋といふ魚屋には見事な鰒が並べられてある、それを眺めていたら、店番のおばさんから、だしぬけに、「おとうさん、鰒一本洗はうか!」と声をかけられた。」
と言い、次の句を残している。
・春寒の鰒を並べて売りたがつてゐる
つまりこの日もふぐは山頭火の舌を喜ばせることはなく、山頭火は河豚の前をただ通り過ぎただけだった。
昭和5年11月に流星のように山頭火を訪れた、ごく短いふぐの黄金時代はその一度きりで、二度と山頭火を訪れることはなかった。
種田山頭火のおいしい日記 @evans3
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