第13話 山頭火、トマトを食べる
・すつかり好きになつたトマトうつくしううれてくる
昭和8年7月26日の句である。
ここに詠まれたトマトの生い立ちを山頭火の日記に見てみよう。
このトマトが山頭火の畑で生を受けたのが昭和8年5月21日だ。
同年5月22日の日記にはこうある。
「茄子苗はうまくついたらしい―トマト苗も―これは昨日樹明君が植えてくれた―も好結果らしい」
このトマトの苗のそれ後の成長の後を日記に追ってみよう。
・6月25日 「蔬菜の手入れ、トマトと茄子とは上出来、胡瓜と大根とは不出来」
・6月26日 「午後は畑を中施肥した、トマトよ、茄子よ、胡瓜よ、伸びよ、ふとれよ、実れよ」
・7月17日 「野菊(嫁菜の花)が咲きはじめた、トマトも色づいてきた」
・7月23日 「じっさいうれたトマトの肌はうつくしい」
・7月24日 「午後、樹明君来庵、魚と焼酎とをおごってくれる、ツマは畑から、トマト、胡瓜、蓮芋、紫蘇、とても豊富である」
そしてついにこの句の生まれた7月26日の日記にはこうある。
「トマトを食べる、トマトのうまさがすこし解ったように思う」
それまでもトマトを口にはしていたろうが、自分の畑で育てたトマトを食べて初めて、山頭火は「トマトのうまさ」を知ったのだ。
山頭火はトマトを酒の肴にしていたのだが、トマトを肴にワインではなく焼酎を飲む人を、私は山頭火の他に知らない。
トマトが日本に伝わったのは17世紀の半ばであるが、最初は観賞用としてであった。食用となったのは明治以降。大正期から昭和にかけて一般家庭に洋風料理が広まるにつれ、トマトが日本人の食卓にものぼるようになったそうな。
従って彼がこの句をよんだ頃は、トマトが一般に食べられるようになって間もない頃。
山頭火はトマトを句にしたパイオニアの一人であったかもしれない。
昭和7年8月29日の彼の日記に、日本におけるトマトの黎明期の事情がうかがわれる次の一節がある。
「野を歩いて、刈萱を折って戻った、いゝなあ。どこにもトマトがある、たれもそれをたべている、トマトのひろまり方、たべられ方は焼芋のそれを凌ぐかも知れない、いや、すでにもう凌いでいるかも知れない。」
スペインの地中海岸の小さな町、エステポーナで少年時代の10年間を過ごしたO君に教えられたトマトの食べ方がある。
まず食べやすい大きさに切ったフランスパンをこんがりと焼く。
そこに生のトマトをこすり付け、その汁をたっぷりとパンに吸わせる。
最後にオリーブオイルをかけ回して出来上がり。
O君が話してくれた太陽がいっぱいの地中海を思い描きながらこれをつまみに白ワインをやると、とめどなく飲めたものだ。
20年以上前のなつかしい思い出だ。
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