第10話 山頭火、グリコを食べる
・うらうらこどもとともにグリコがうまい
昭和13年3月17日の日記にある句である。
この頃、山頭火は大分県を旅している。この日は朝湯朝酒を楽しみ、中津から宇佐へと向かった。
朝から一片の雲もない快晴だ。
宇佐で山頭火の目にとまったのは丘、白壁、宇佐餅を売る店。
宇佐餅とはなんだろうと思いネットで調べたところ、地元で作る紅白の餅を指すようだ。
さて、この項の主題のグリコは、この日山頭火が旅をしている大分県の隣、佐賀県の出身である江崎利一が創始者である。
1919年(大正8年)、郷里の有明海沿いの堤防で漁師たちが牡蠣の煮汁を捨てているのを見てひらめいたそうな。
牡蠣に含まれるグリコーゲンを活用して、子ども達の体に良く、かつ喜んでもらえる菓子を、当時洋菓子として人気が高まっていたキャラメルに入れて作ろうと江崎利一が思い立ったことからグリコは誕生した。
山頭火が子ども達と口にしたグリコの箱には、今もおなじみの、バンザイしてゴールインするランナーのトレードマークがプリントされていた。
現在のものと違うのは箱に「文化的滋養菓子」といういかにも時代を感じさせるキャッチフレーズが見られることだ。
山頭火が子供とともに食べた80数年前のグリコの箱と現在のそれを比べて見ると、ユニホーム、バンザイと上げた手の角度、足の上がり方などが変化している。
特にバンザイポーズは昔のそれと比べて手の位置が下がってきているが、このデザインが変化してきた理由はどこにあるのか、メーカーに聞いてみたいものだ。
さらにグリコと言えば忘れてはならないのが「おまけ」。
昭和13年3月17日に山頭火が食べたグリコのおまけは何であったか、彼の日記には言及がないので謎だ。
ちなみに今も隠然たる人気を持つ同じ江崎グリコ社の「ビスコ」は1933年(昭和8年)に発売されている。
食いしん坊の山頭火だって口にしただろうと想像するが、ビスコについて、山頭火は日記でも言及していなければ、句にも残していない。
これもまた残念なことだ。
山頭火と言うとまず酒で、甘いものなどは口にしなかったかのような印象があるが、実は甘辛どちらも来いの両刀遣いだった。
グリコ以外に以下のような甘味の句を彼は残している。
・夜ふけの甘い物をいたゞく
・さみしい夜のあまいもの食べるなど
・甘いものも辛いものもあるだけたべてひとり
・お祭りの甘酒のあまいことも
・すすめられてこれやこのあんころ餅を一つ
・秋の日かたむき餡パンたべてもう一ト山
・みんないただく甘露水私もいただく
・今日の乞ふことはやすくておいしい汁粉屋の角まで
・旅の或る夜はお彼岸団子のうまいこと
・けふは仲秋すゝきや団子やお酒もちよつぴり
・秋晴れおいしい団子をいただく岩に腰かけて
・もなかおいしやひとつでたくさん
・春のくばりものとし五色まんじゆう
・日向はぬくうて子供があつまる回転饅頭
・まんぢゆう、ふるさとから子が持つてきてくれた
・まんぢゆうたべたべ出船の船を見てゐる、寒い
上記以外にもまだたくさんあるが、こうしてざっと挙げただけでも彼がいかに甘味好きであったかが分かるだろう。
さて、グリコというと忘れてならないのが「一粒300メートル」のキャッチフレーズだ。
私の小学校時代、グリコは運動会に絶対に忘れてはならない秘密兵器だった。
なにしろたったの一粒で300メートルである。
小学校の運動場のトラックは大きめに見積もってもせいぜい200メートルだったろう。
徒競走やクラス対抗リレーの前になると、ポケットに忍ばせていたグリコを一粒口に含み、体中にみなぎるエネルギーを感じながらスタートラインに立ったものだ。
効果はもちろんてきめんで、小学校時代を通じて運動会の花形だったのは、忘れられない思い出だ。
私の人生で唯一栄光に包まれた瞬間だったと言っていいだろう。
グリコとは何の関係もないが、この昭和13年3月17日の日記に「ふんどしに異変」とある。
彼のふんどしに如何なる異変が起こったのか。
ひもが切れたのか、ふんどし本体が破れたのか?
山頭火が亡くなっている今となっては、永遠の謎となった。
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