第9話 山頭火、ビフテキを食べる


昭和10年7月20日の山頭火の日記より

「夕方から、招かれて学校へ行く、樹明君宿直である、例によって御馳走になる、六日ぶりの酒肴である、おそくなったので、勧められるままに泊まった、食べすぎて寝苦しかった。歯のぬけた口で茹章魚を食べビフテキを食べるのだから自分ながら呆れる、むろん噛みしめることは出来ないからほんとうには味えない。」


大酒のみの山頭火は、酒肴には精進料理のようなものだけを口にしているイメージが何となくあるが、実はビフテキも好きだった。


(ちょっと一言)


1:樹明君とは?


樹明君とは県立山口農学校に勤めていた国森樹明の事だ。

昭和10年7月20日、山頭火が招かれて行ったのもその山口農学校。

宿直だった樹明君が一杯やろうと山頭火を招いたのだ。

夜間の宿直とはいえ、職員が学校で酒盛りが出来たとは、今とは隔世の感がある牧歌的な時代だった。

山頭火は昭和7年9月20日に山口県小郡に住まいを求め其中庵(ごちゅうあん)と名付けるが、そのために尽力してくれたのも国森樹明だ。

樹明にとって「山頭火は自分のすべて」とも言える存在で、定職がなく、食べる米にもしばしば事欠く山頭火の元に、彼はせっせと酒や食べ物を運んでくれ、かつ度々二人で泥酔し、脱線した。

当時小郡にあった県立山口農学校には農、林、養蚕、獣医畜産の4学科があり、畜産ではソーセージの製造実習があった。学生のための寄宿舎もあり、その周辺には菜園、果樹園、養鶏場もあった。

樹明君が何度となく山頭火の住まいに運んできてくれたソーセージ、鶏肉、野菜類はひょっとして学生たちの実習の産物であったのかもしれない。


2:ビフテキの句


・飾窓の花がひらいてゐるビフテキうまさうな


この句は昭和12年3月9日の山頭火の日記にある。

あの日の日記には、この句に続けてこう書いてある。

「飲食店前の即事である」

当時、彼は宿痾ともいうべきなじみの憂鬱に襲われていた。

あの頃の日記にはこうある。

・昭和12年3月1日 曇。

春は来たが、私は冬だ。――終日不動無言。身心頽廃。せめて美しく滅ぶべし。――

・昭和12年3月3日 雨。

春雨だ、間もなく花も咲くだろう。亡母祥月命日。沈痛な気分が私の身心を支配した。

私たち一族の不幸は母の自殺から始まる、……と、私は自叙伝を書き始めるだろう。……

母に罪はない、誰にも罪はない、悪いといえばみんなが悪いのだ、人間がいけないのだ。

・昭和12年3月8日 晴――曇。

沈欝たえがたし。


そしてその3月8日に憂鬱を抱えたまま九州へ渡り、門司駅の待合室で夜を明かし、句友を訪ねて小遣いをせびり、八幡へ向かったのだ・

窓辺に花が飾ってある八幡の洋食屋の前を通りかかり、ふと見ると窓際のテーブルの客がビフテキを食べていた。

指をくわえて窓のそばを通り過ぎたが、そのとき拾ったのが(これは山頭火の口癖)上掲の句だ。

これが山頭火が生涯でビフテキを詠んだたった一つの句になった。


3:飾窓の花は何?


ところで、あの洋食屋の「飾窓の花」は何だったのだろう?

昭和12年(1937年)と言えば日中戦争が始まった年で、今から87年も前のこと。

3月上旬という時期からすると、チューリップ、ヒヤシンス、シクラメン、スイセンと言ったところだろうか。

ヒヤシンス、スイセンは食べ物屋の窓辺に置くのには少し地味だからこれは違うとしよう。

チューリップは3月上旬には少し時期が早いかもしれないが、まあ、ありうる。

しかし、違うな。

チューリップではない。

なぜなら山頭火はこの花を俳句に詠んだことがないからだ。

残るはシクラメン。

山頭火の詠んだシクラメンの句? 

あった。

・物乞ふとシクラメンのうつくしいこと

・シクラメン 女の子がうまれてゐる

・さめざめ濡れてかたすみのシクラメン

さらにもう一句、私の自問に答えるそのものずばりの句を山頭火は詠んでいたではないか。

・飾窓の牛肉とシクラメン

あの窓辺の花は薄紅色のシクラメンだったのだ。


4:別のシクラメン


(しかし、待てよ?)

この

・飾窓の牛肉とシクラメン

は昭和7年3月5日の日記にある句だ。

それは「飾窓の花がひらいてゐるビフテキうまさうな」を詠んだ昭和12年3月9日のちょうど5年前だ。

5年間、同じシクラメンが咲き続けることはないだろう。

それでは昭和7年3月、山頭火はどこで何をしていたか?

…あの日、彼は佐賀市にいた。

昭和7年3月5日の日記にはこう書いたのだ。

「大隈公園といふのがあった、そこは侯の生誕地だった、気持のよい石碑が建てられてあった、小松の植込もよかった、どこからともなく花のかをり――丁字花らしいにほひがたゞようていた、三十年前早稲田在学中、侯の庭園で、侯等といっしょに記念写真をとったことなども想い出されてしょうぜんとした」。

侯とは内閣総理大臣を務め、早稲田大学の創設者であり、初代総長を勤めた大隈重信のこと。

さらにこう書いた。

「佐賀市はたしかに、食べ物飲み物は安い、酒は八銭、一合五勺買えば十分二合くれる、大バカモリうどんが五銭、カレーライス十銭、小鉢物五銭」。

大バカモリうどん、とはどんなうどんだったろう?

大モリうどんなら二玉のうどん入り、と想像できる。

それが、大バカモリうどんとなればひょっとして三玉入り?

三玉なら丼には入らないだろうに。

謎だ。

さらに山頭火の指摘した「佐賀市はたしかに、食べ物飲み物は安い」は今でも言えることなのだろうか?


いずれにしろ昭和7年の佐賀の洋食屋(肉屋だったかも?)と、昭和12年福岡での洋食屋の飾り窓で山頭火が見た花はシクラメンだったのだ…。


5:友情について


わがままな性格にもかかわらず山頭火は樹明君の他にも友人に恵まれていた。

昭和9年11月19日の日記では友情についてこう書いている。

「私にもし友達といふものがなかったならば、私はこうした生活をつづけることが出来なかったであろう、友情は人間愛情の最高なるものである、私はその友情にめぐまれすぎるほどめぐまれている。」


6:アルゼンチンの焼肉


私が、かつて日本語を教えていたアルゼンチン人の友人ウーゴから聞いた話。

アルゼンチンの牧場では牛一頭を炭火で丸焼きにし、各人がお気に入りの部位をナイフで切り取り、地元の赤ワインをがぶ飲みしながら、思うさま肉を食う豪勢な宴会をするそうな。

牛一頭までは望まないが、夏の夕暮、そよ風が吹き抜ける木陰で、でかい骨付き肉を炭火で焼いて、気のすむまで食べるのが私の夢だ。

手づかみであばら肉にかぶりついては赤ワイン、かぶりついては赤ワイン、山頭火や樹明君たちをあの世から呼び戻して、夕日を浴びながら、果てしなく食べ続け飲み続ける、歌えや踊れの山頭火流の大宴会をやらかすのだ。

歯のない口でビフテキを食べるようになってからでは「本当には味へない」と山頭火も昭和10年7月20日の日記で教えてくれているではないか。

何時までもあると思うな、鉄の歯と健やかな胃袋。



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