Another Side『私は、私も、貴方も、嫌いだ』
◆注意◆
【三人称視点】
ブラウンを救出するべくディーテ家に向かったクロの話。
全てを知りながらディーテ家に仕え続けたブラウンの話。
夕暮れも夜に差し掛かろうとしている頃、メイド服に似合わぬマントを羽織った黒髪の少女が森を疾走する。その足には少女の友達がかけてくれた速度増加の魔法。彼女にとっての初めての友人は、少し年上のおっとりとしたお嬢様だった。
「ニア様……大丈夫かなぁ」
いつだったか、短くも整えられた髪も少しだけ伸びて風に靡くようになった事を、彼女は鬱陶しく思いながらも、自分を地獄のような奴隷市場から買い取り、救い出した主の事を想う。
――名前も無かったその少女は、クロと呼ばれた日から、人に変わった。
だからこそ、そう呼んでくれた主、当時の『レイジニア・ブランディ』、今の『ニア・レイジ』の事を案じる。彼女にとって、必要な物は暖かい住居でも、美味しいパンでも、清潔な身体でも無く、彼女の主『ニア様』の幸福になっていた事は、彼女自身でも気づいていないような事だ。
だとしても、彼女は本能的にその感情を受け止めている。
『ニア様はウェヌの事を大事に想っている』
『ウェヌはニア様を信頼している』
『ニア様はまぁ……ともかくとして、ウェヌはブラウンを心配していた』
『ブラウンを心配しているウェヌを見て、ニア様は少し悲しそうだった』
一つずつ、一つずつ組み立てていく。彼女は難しい事を考えるのは苦手だった。
だけれど決して彼女は頭が悪いわけではない。知識や、自由に考えるという事を許されない状況だっただけなのだ。
であれば、考える事を許された彼女は、ニアの従者ではあれど、一時的に完全なる自由という名の一つの行動を許された彼女はひたすらブラウンが連絡を経ったであろうウェヌの邸宅へと駆けていく。
行きは良い良いと言わんばかりに魔物がいなかった道中を戻っているだけで、ちらほら見える魔物の姿は、そう危険視するものではないと判断出来た。
「んん、多いけど、このくらいなら……」
帰りが怖いという程でも無い。クロの身体能力ならば一掃する事も出来たが、ニアとウェヌが二人でいるならば対応が出来るという判断に至った。要は主の力への信頼が勝った事による魔物の見逃し。
個体の確認は、急ぎながらも怠らなかった。そのあたりは彼女自身は当たり前だと思っている感覚のようなもので一瞥するだけで良かった。
――奴隷の身の上に設定など無い。
ニアはおそらくそう考えていたし、クロも自分自身の事は良く分からずにいた。
そもそも名付けすらされていなかったのだ。クロはハッキリと理解はしていなかったがニアの言う『世界の意思』といわれるものの干渉もクロには届かなかった。
それでも、クロは魔法が溢れるこの世界に産み落とされ、ゲームという観点で見れば登場しないが、設定をつけられていないだけで、自然と運命によって育っていった、歴としたこの世界の人間だ。
――設定の無い文章に、ニアは目は通さない。
今頃ブランディ家、元ニアの私室の棚にでも置かれているであろうクロの力の詳細が書かれた書類。
今やそれは奴隷商だけが薄ぼんやりと覚えている。ニアは迂闊にも目を通さず、クロ自身も当たり前だからと理解していない。
「……見つけた」
クロが、倒れているブラウンに見つける。その場所はブラウンと別れた場所、ウェヌの庭園だった。その周りは意外にも魔物の一匹もおらず、倒れたブラウンと壊れた魔法具があるだけで、それ以外は不気味な程に静寂に包まれていた。
「おーい、ぼんくらー、生きてるかー?」
クロは、ブラウンという、部屋は違えど同じ邸宅である程度の期間寝起きしていた執事に対して、ニアやウェヌ程深い感情は持ち合わせていなかったが、それでも多少の情は持っていた。少なくとも嫌いではなかった。しかしウェヌやニアが心配するから生きていればいいなとは思っていた程度にはドライであり、激情に駆られるような事は無かった。それでも、死ぬべき人間かと言われたならば、首を横に振るだろうし、悲しみくらいは多少覚えるだろう。
「ぐ……ニア様……お逃げに……」
「じゃないぞー。私だー。助けに来てやっ……たぁ! 危ないな!」
その気配、殺気はあらぬ所から飛んできた。ブラウンの言う通りにニアが駆けつけて来たならば、一撃貰っていた可能性もある。
クロがそれをその危険を察知出来た理由。
それは彼女が持って生まれた超人的感覚『危険察知』、そうして『無害認定』という力だった。
それは彼女がある程度無意識化で行っている物であり、身の回りに起こる危険を自然と把握する事が出来る。今までは此処まで危険な事が無かった為、彼女自身も忘れかけていた能力の一つだった。
そうして、周りにいても何の違和感を抱かせないという性質もまた、持ち合わせていた。
だからこそ、彼女はどれだけ暴れたとしても奴隷商の手に余る事が無く、そうして買われる事もなかった。
ニアの目的が害を成さない事だったからこそ、そうしてニアの存在が危険じゃないからこそ、クロはニアと出会えたといっても過言ではない。
彼女が奴隷商に奴隷として捕まった経緯は単純。いくら危険察知が出来たとしても。
「いっぱいいるじゃんか……」
――対多数戦闘に於いて、圧倒的戦闘力の前に於いて、彼女は無力に成りえる。
尤もそれは、奴隷商に捕まる前のクロの話。
ウェヌの庭園を取り囲むように、いつの間にか狼が集まってきていた。
何処かおかしなフォルム、歪なそれは、度胸という面に於いてかなり図太い彼女すら悪寒を覚える見た目だった。
傷があったり、何処か身体の一部の毛が剥がれていたり、まるでそれは、狼をイメージして作られた出来損ないの人形を見ているかのようだったのだ。
「なんだ……? これ」
困惑もそこそこに、最初に襲いかかってきた狼に向けてクロは下から蹴りを入れ、狼が浮かんだ瞬間、短剣で器用に心臓を穿つ。
どうしてか、その狼の血液が飛び散る事に、嫌悪感を覚えた。
それはクロが、この庭園が綺麗だと思ったからなのかもしれない。状況が状況だったせいか、彼女は表立って喜んだりすることはしなかったが、彼女は数刻前に初めてこの庭園に入った。その時にこの場所がウェヌの私有地であると察した上で、とても綺麗だと心躍ったのだ。
それが今では、魔物の血が飛び散り、庭園の植物の多くも、多くの何者かによって、踏み散らされている。
「お前らだったら、許さないからなー……」
歪な狼達は、奇妙な程にこちらをジトリと見たまま、獲物とも考えず襲いかかってくる。
倒れているブラウンを狙う物は一体もいなかった。
それを不思議に思いながらも、クロは歪な狼の屍を一体ずつ丁寧に、素早く庭園に積み上げていく。
「ブラウンー、大丈夫かー? 死にそうなら言えよー?」
数は凡そ十数体、十体程始末した所で、クロは倒れたままのブラウンに声をかける。
打撲痕はあったが、致命傷に見える物は無い、足からの出血があったので、動きは封じられているかもしれない。それが打算的なものかどうかは、クロの考えに及ぶ物ではなかった。
ブラウンは、ニアが来ると勘違いしていた。
つまりは、この状況をニアに味合わせようとした誰かがいたはずだ。
クロもそのくらいの事は考える。だからこそのブラウンとの意思疎通。
「え、えぇ……私は無事ですが……此処は、危険です。おそらく今に……クロさんだけでも逃げ……」
「らんないの! だから何が起きてるのかクロにも分かるように言ってくれ!」
流石にこの奇妙な状況に、クロも少し焦っていたのだろう、いつもは私と言うようにしつけられた彼女も、今は喋り方を気にする場合では無くなっていた。
「その……魔物は、禁呪による物です。大凡が、ディーテ家の、使用人……。そうして、この家は……」
その言葉を聞いて、クロの手が一瞬止まるが、彼女は口を固く結び、飛びかかってきた狼を地面に叩きつけるようにしながら、短剣で数度、貫く。
絶命を確認する。
絶命を、確認していく。
「もう遅いからなー、怒られるのはクロじゃないからなー」
血に塗れた手は、もう戻らない。
禁呪が何なのか、何が起こっているのかクロは完全に理解することは出来ていない。
幸いなのは、クロ自身がその事を分かっていたという事だ。
「とりあえず私はな、お前を助けに来たんだ。お前が無事ならそれで良いんだ」
「ですが……私の足は見ての通り、動きようもなく、何よりこのままでは……」
足を引っ張るってこういう事なんだなぁとクロは考える。その程度の緩さでこれまで彼女は生きてきた。自暴自棄という言葉を彼女は知らないが、彼女はとっくにその境地を越えて、今いる境遇こそが全てだと、奇跡のようなものだと思いながら、いつか失ってしまうのだろうという黒い諦めのような物も心に抱いていた。
今だってそうだ。ニアの庭園をグシャグシャにしたのは、他でも無いクロと魔物なのだから、捨てられる可能性が、無いわけじゃあない。
良しと思うわけがない。だからこそ、彼女は今出来る最善の方法として、戦い抜くことを選んだ。
その結果、禁呪によって魔物に買えられた狼達が、絶命した事で徐々に人の姿へと戻り、その真ん中にクロが立ち尽くす事になるのだとしても。
「見た目最悪だなー、これ」
「言ってる場合じゃないですよ……。おそらく、は。この魔物達は禁呪をかけられた人間の力を元に変化するはず……であればまだ……」
そう言って、ブラウンは痛みに堪えながらも、身体を引き摺るように、少しずつ壁際にその居場所を移した。そうしてその目にはディーテ家の邸宅が、映し出されていた。
「ん、見るからによわそーだもんなー。コイツら」
足蹴にこそしないものの、クロはズズズ……と邪魔になっている人へと戻りつつある異形の状態の狼を引き摺って、戦いの場を作る。陽はもう落ち、周りは暗くなっていた。
「陽も落ちてきました。気を……付けてください」
クロにも、ブラウンが言う言葉の意味くらいは、察する事が出来た。
何故ならば、危険はまだ終わらない。
危険察知というクロの感覚が、ある一時から、頭痛を伴う程身体を走り回っていた。
「そーだな。デカいのが、来る」
クロのその言葉と共に、ディーテ家の中から破裂音のような破壊音と共に、大狼が二匹姿を見せた。
「お前らはダメダメだなー、クロでもドアの開け方くらい知ってるぞー?」
大きさこそ違えど、危険を察知こそすれど、それはクロが強者であれば何の問題も無い。
彼女もまた、ニアの元で鍛錬は積んだ。元々兼ね備えていた身体能力にあまり変わりは無いが、その使い方という物を覚えていた。
「にとうりゅう!」
クロは突撃してくる二匹の大狼のうち、比較的小柄な方の足を思い切り片方の短剣で切りつけながら、その後ろにいる、より大きな狼の喉元にもう一方の短剣を思い切り突き刺す。
だが、一本の短剣は血を纏い、もう一方の短剣は金属同士が叩きつけられるような音を出し、弾かれた。
「魔法っ?! じゃない……!」
クロは偵察を主に動く事が多かった為、ニアから教わった魔法に関する技術や知識も偏ってはいたが、それでもこの世界の人間であれば殆どの者がその身体に宿している魔力の感知や、より気配を消すなどの魔法についてはある程度の理解があった。
だからこそ、たった今弾かれた二撃目の大狼の喉元への攻撃が弾かれた理由が、魔法によるものでは無いとクロにはハッキリと分かっていた。
「んんんんー!! これか!」
走り去る大狼からは、クロに対する殺気が一切感じ取れなかった。つまりは攻撃が通った一匹目こそが、クロの相手となる大狼なのだろうと、彼女は思い、それと同時に森の方向へと駆けていった大狼は、ニアとウェヌがどうにかしなきゃいけない類の『世界の意思』というものなのだろうと、彼女は今やっと身を持って理解したのだ。
「真っ白だなー、ツヤツヤだ。他のとは違う。なんだか魔力の匂いもする」
足を切りつけられた白き大狼は、クロを睨みつけながら、唸り声を上げる。
それが元人間であっても、理性は働かないという事が、その唸り声からも分かるほどだった。
「……クロとは大違いだ」
飛びかかるのは、クロの方。
一撃を入れてあるのは彼女も手応えで確認してある、ならば先に手を出すのが得策だと、彼女の勘が告げていた。何故なら少なくとも、彼女の危険察知は激しく唸りを上げていたから。
「お前、魔法使った方が、強いんじゃないのか?」
嗅覚も人より強いクロは、血と土が混じり合う地獄のような庭園の中で、強い魔力の気配を察知する。
嗅ぐという感覚に近い為、その吐き気を催すような匂いの中で、クロは表情を変えずに笑った。
――こんな匂いは、彼女にとって慣れた物だった。
とは言っても、結果的に人間をこれだけ殺したことはない。
というよりも、実際に人間を殺した事なんて、彼女はたった今まで無かったのだ。
だけれど彼女は彼女の行為の芯が『ブラウンを助ける事』に完全にフォーカスしていた。
それがなければもう少し大きな動揺もあったかもしれない。
けれど、彼女の覚悟はもう既に、事実を知った時点で決まっていたし、彼女がやる事も、この場に来ると決めた時点で変わらなかったのだ。
たとえ、それが生身の人間だったとしても『ブラウンを助ける事』の邪魔をするなら、クロは迷わずその刃を抜いただろう。何故なら、殺すなとは、言われなかった。それがズルいという事くらい気づいていたけれど、彼女に分かる大事な事は、ウェヌを苛め抜いて、ニアの敵になったディーテ家の人間よりも、興味こそ薄けれど、近くでその努力を見続けたブラウンの命を守る事だ。
「戦うの下手だなー、お前」
気高き大狼は、唸りながらクロの攻撃を避けようとするばかりで、あまり攻撃の意思を見せなかった。
そのせいか、戦いはどうにも長引いていく。
いくらクロが俊敏だとはいえ、獣の速度に勝てる程では無い。それも能力は明らかに周りの亡骸が変化していた狼より格上だ。
だからこその、危険察知なのだと、クロは思いながら距離を詰め、確実に大狼を弱らせていく。
それを見ながら、ブラウンは何も言わず、言えずにいた。ただ、痛みだけが走っていた。
「ウェヌ様、ニア様……申し訳ございません……」
ブラウンは、狼達の姿を知っている。そうして彼が禁呪をかけられず生かされたのは、ウェヌとニアの手によって、ディーテ家の人間を殺したという心の傷を与える為の餌だという事も、知っていた。
悔しさは涙に変わる。だが、その目は怒りに燃えながら、剣を杖に、立ち上がった。
クロが、大狼を追い詰めていく。
ブラウンが、ゆっくりと一歩ずつ、そこに近づいていく。
ウェヌとニアの方へ向かった大狼はおそらくディーテ家の懐刀、要はボディーガードにも近しい存在。一時も家主の側を離れることの無い忠実な人間だったと、ブラウンは記憶している。屈強な肉体、彼でなければあのような姿になるわけが無い。だが、その彼を魔物に変える理由が、あっただろうか。
クロが、大狼を切り裂いていく。
ブラウンが涙を拭い、近づいていく。
ブラウンは苦痛に足を引きずりながら、こちらをチラリを見たクロに何も言わず、またクロも何も言わず、戦いを続けた。
どうしてこんなことになったのか、ブラウンは理解出来なかった。この禁呪の使用によって、ディーテ家はほぼ没落したといっても過言では無い。
ブラウンを痛めつけ、人を魔物に変える禁呪を使ったマイロは別として、ディーテ家の中で残ったのは、ディーテ夫妻と、ウェヌ。
――それだけに、なる。
大きな狼は動きを止める。もう、抵抗の素振りも見せない。
クロの中の危険察知は、それでもまだ、ドクンドクンと鼓動のように、頭を締め付けるように、響き渡っていた。
「クロ、さん」
「……なんだ?」
思わず出た殺気だった声にブラウンも、そうしてクロもまた驚く。
彼女はその気持ちの悪い危機的な感覚に苛立ちを覚えていたのだ。それをブラウンは知らない。それでもクロがブラウンを守る為なら何でもしようと思ったように、ブラウンもクロを守る為なら何でもしようと、密かに決意していたのだ。
「トドメは、私が」
「いいとこどりかー?」
その言葉にブラウンは小さく笑って、彼はクロの手から短剣を預かると、こちらをじっと見る大狼に、小さく頭を下げた。
「結局の所、報いというのはこういうものなのかも、しれませんね」
彼は知っていた。
全て、知っていた。
ウェヌという一人の、列記としたディーテ家の娘が、虐げられてきた事を。
彼は知っていた。
全て、知っていた。
家主が禁呪をウェヌの身体で試していた事を。
彼は知っていた。
全て、知っていた。
ウェヌと血を分けた、たった一人の姉が、その生涯を捧げウェヌを苛め抜いた事を。
ブラウンは、大狼の腹部へと剣を刺してから、懺悔をするかのように跪き、絶命寸前の大狼の身体に向けて、クロから借りた短剣を深く深く、差し込んだ。
何度も、何度も、何度も。
「自ら、食い破ろうとする程に、ウェヌ様を恨む理由が、ございましたでしょうか……?」
悲しみと、憎しみと、理解の出来ない感情を入り混ぜながら、ブラウンは大狼に問いかける。
返事はなく、ただ、その生命が削られていくだけ。
クロに、その言葉の意味は分からない。だが、危険察知の感覚が少しずつ減っていくのを感じていた。後ろからは、馬の音が聞こえ、クロは思わずそちらを見て、徒手空拳のまま緊張した面持ちになる。
「ブラウン、誰か来る。急げ」
「ええ、ただ、少し待ってください。私の、後ろへ」
クロからすれば、まるでブラウンがこの場を作ったかのように思えて、少しだけ苛立ちを覚えていた。
だけれど、彼がもうそんな事をする人間では無い事も何となく分かっていたからこそ、少しだけブラウンの後ろに下がる。
クロの目的が『ブラウンを助ける事』だったように、クロがあの大狼を倒せると分かった瞬間に、ブラウンにも、何物にも変えがたい目的が出来ていたのだ。
広々とした、天国かのようなウェヌの庭園は、人の死体が転がり、血の雨が降ったかのような、地獄に変わっている事に気づき、クロがハッとした時には、遠くから馬に乗ったいつか見た騎士と、ニア、ウェヌの姿が近づいてくるのが目に入っていた。
「私もまた、加害者です。だからこそ、貴方を殺すのは、私であるべきだった。痛み分けをしましょう。リベラ様」
ブラウンの涙はもう止まっていた。
そうして、大狼の心臓もまた、止まっていた。
ブラウンは地獄の中で苦痛に堪えながら、剣を杖に、短剣を手に、大狼を刺し殺し、その血を体中に塗りたくった。
彼が刺殺した大狼の名は『リベラ・ディーテ』と言う。
大狼の姿は少しずつ小さく、女性の姿へと変わっていく。
あるいはウェヌの持つ禁呪の力がこの、リベラという姉に備わっていたなら、こうはなっていなかったのかもしれない。
「これが世界の意思というのなら。はは、確かに、クソ喰らえ、ですね」
短剣から血を振るい落として、ブラウンはクロへとそれを返す。
そうして、人間の姿へと戻って、絶命しているリベラ・ディーテの心臓に向けて、杖として使っていた剣を、改めて刺しなおして、膝をついた。
「クロさん、ありがとうございます。おかげで、助かりました」
「ああ! 良かったな! 無事で!」
クロは、何も知らない
ブラウンは、全部知っている。
「説明は、私からします」
「おう、頼んだ!」
「それと……」と言い出したブラウンの言葉は、近づいた馬の足音がかき消した。
ただ、その言葉が聞こえていたクロは神妙な面持ちで、小さく頷く。ブラウンは苦笑しながら、息をゆっくりと整えていた。今から聞こえるであろう、泣き声に怯えないように。
彼のした、自身でウェヌの姉を殺すという事が復讐だったのか。
それとも自分が目をそらし続けた事への贖罪の気持ちからだったのか。
クロの立場を守りたかったからなのか。
それは、彼しか知らない。
それでも彼はもう、この世界に指定されて生まれた、弱い彼では完全に無くなっていた。
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