第十九話『大雨が嫌いだ』

 教室に戻ると、ウェヌは心配そうな顔をしながら駆け寄ってきた。

「大丈夫だった? 前の授業丸々いなかったけど……」

 あたかも、友達だ。


 もし、こんな友達が、レイジニアになる前の私にいたらと思った。


 クロも少しだけ遠巻きに私達のやり取りを見ているようだ。彼女は空気が読めないように見えて、気配を察するのが上手いというべきか。それはおそらく意識してのものではなく、天性のものなんだろうと思う。

 教室に入った時の私の表情と、それまでのウェヌの表情を読んだ上で、あえてこの場は近づくべきではないという判断。我ながら良い子を側に置いたと、少し嬉しくなった。


 それと同時に、もし、こんな子が私に懐いてくれていたら、会社での生活は変わっていただろうかと思った。

 少し、疲れてきているのかもしれないと頭を振る。頭痛はもう既に消えていた。

 とりあえずそう時間もかからずノア先生は学校を去るだろう。それでもこの世界がウェヌとノア・ガーデナーを近づかせようとするならば、その時は、その時は。

 すぐに手段が思いつかない私が、不甲斐なかった。

「大丈夫、ちょっとお話をしてたのよ。ウェヌって保健室のお世話になった事は?」

「まだ無い……かな。痛みには慣れてるし、手を煩わせるのもなって」

 当たり前に言うその言葉に、歪みが含まれている事。ディーテ家の闇がハッキリと見える。

「痛みには、慣れちゃ駄目。気付かないうちに、壊れちゃうから」

 これは、私が私として生きてきた。本音だった。

 事実、私は壊れかけていた所に、死というトドメを刺されたのだから。

「でもこれからは平気よ。保健室は、私が貰い受ける事にしたの」

 その言葉に驚くウェヌと、流石に笑いが溢れているクロを見ながら、私は簡単に事情を説明した。


 ノア先生が本来は学問を深めたかった事。

 クロには目配せをして、内容こそウェヌには伏せたが、その学問をブランディ家が欲していたという事。

 そうして、私が彼の代わりに保健室を研究室として使い、傷を負った生徒を治療するという事。

「でも、ニアちゃんも生徒なわけだし、授業中の怪我については対応しきれないんじゃ……」

「その為に、先生には明日明後日、学園が休みの間に必要な物を作ってもらうのよ。私の家で働く事になったとしても、ノアは『元保険医』ですしね」

 この、世界へと言い放った宣言が、届いてくれていたらいいなと思った。


 この学校にはイケメン保険医なんてものは存在しない。

 だから、そのフラグの存在は、消滅してくれと、心から願っていた。


――それがきっと、私の中にある疲労と、不安だったのだろう。

「ニアちゃん、顔色悪いよ?」

 ウェヌが私を心配してか、私の手に触れようとする。

 けれど、彼女のその行為が何を意味するのかはハッキリと理解していた。

「使ったら、本気で怒るわよ?」

 その言葉に、彼女は焦ったようにその手を遠ざける。

 その意識から、変えなければいけない。禁呪という事は重々理解しているはずだ。

 だとしても、たった今誰も見ていない資格になっていたとしても。そもそも誰に見られたとして気づかれる事が無かったとしても、それは、それだけは許されない。私にも、誰にも、させてはいけない。

「でもニアちゃん。最近凄く辛そうで……せめて少しでも代わってあげられたら」

 その言葉が、優しさが痛かった。

 確かに私はウェヌの事を考えて動いている。それはもう認めてしまった方が楽だ。

 意固地になっていた。意地悪い人間でいようとしていた。だけれどまだ結果が出ていない以上、私は私を認めて、許してあげることは出来ない。

 ウェヌのような子を、ゲームとはいえ、何十人と、いじめ抜いてきたのが、碇二朱なのだから。

 後悔するような出来事ではない。だけれどその事実が、今こうして自分の肩にのしかかってきている。

「代わる必要なんて、ないのよ。貴方は貴方の優しさを、正しい方向に向けなさい」

「……でもそれは、ニアちゃんも一緒なんじゃ、ないかな」

 その言葉に、私の心臓が高鳴る。


――ウェヌが、私の瞳をじっと見ていた。

 その瞳は、私の心を、真実を見透かしているような瞳。

 焦った私はクロの方を見るが、彼女も少し困ったような顔でこちらを見ているだけだった。

「……私が、レイジニアが優しかった事なんて、無いでしょう? 私はいつも私がしたい事をしているだけ、勘違いするのはお門違いよ」

 その強い言葉が、ウェヌを傷つけると分かっていても、それでも言わなければいけない。

 彼女の為だと、無理やりに思い込んで、いつかの彼女の未来を想うならば、私は悪にでもなる。

「……そっか。でもニアちゃんはその言葉には、レイジニア様の圧が無い。きっとレイジニア様は、同じ事を言うとしても、悪意があったんじゃないかなって、思うんだ」

 その言葉は、明らかに私の真相へと近づいている言葉だった。

 私は、どうせシンデレラストーリーの芋臭い主人公だろうと、ウェヌを甘く見すぎていたのかもしれない。始めて会った時のウェヌは、確かにそんな雰囲気を漂わせていた。だけれど今の彼女は、その見た目こそまだ煌めきを放っていないにしても、明らかに出会った時とは違う。『主人公』の目をしていた。


――あぁ、私の、嫌いな目だ。

 あれだけ想っていたつもりなのに、この子の為に動きたいと願ったつもりなのに、嫌悪感が身体を這いつくばっていく。それを払い除けたくても、彼女の目が、それを許さない。

 きっと、現実的に言うならば、私が世界を改変していっている事の、ツケが回ってきたのだろう。

 ウェヌの強さのようなもの、パラメータ的な物は確かに徐々に上昇していっているように感じた。このゲームにそんなものがあるのかは知らないが、一人のフラグを折る度に、彼女自身の『主人公』としての資質が目覚めていくような、そんな気配は見え隠れしていた。

「私は馬鹿だけど、友達の噂くらい気になる。それと比べてみたら、おかしいんだよ。私と会った頃から、『レイジニア様は変わった』んだって」

 その優しさが、私の命取りになるなんて、思いたくもなかった。想像すら、していなかった。

 彼女はあくまで、私に振り回されるだけの弱者だと、思い込んでいたのだ。

 だけれどたった今、彼女こそが私の最も恐怖する対象に変わりつつある。


 残った折るべきフラグはおそらく王子と、未だ判明していない二つ。

 だが彼女にそれを否定されてしまえば、フラグは成立してしまうだろう。

「私の気紛れがそんなに、気になる? 仮に私が貴方に優しくしていたとして、クロはどうなるって言うのよ」

「私をあの森で助けてくれたのは、クロちゃんだった」

「偶然でしょう? 死ななかったのが幸いだと思うべきよ」

 苦し紛れ、だけれどフラグの事は絶対に言えない。嘘をついてでも、嫌われたとしても、私は私のしたい事を、する。

 それが例え私がこの子の歩む未来にいないのだとしても、そんな事はどうでもいい。


――この世界が気に入らない。理由はそれだけでいい。

 ウェヌへの心配は、二の次だ。

 私はもう、この世界の我儘が嫌いなのだ。

「私ね、ニアちゃんと出会ってから、良い事ばっかりなの。確かにブラウンさんがあんな事したのは悲しかった。けれど今のブラウンさんはとても良い人になってくれた。凄く助かっているんだ。それも、ニアちゃんのお陰、だよね?」

「そもそもあの執事がボンクラなのがいけないじゃないの。目に余ったから鍛え直しただけよ」

「うん……そうなんだよね。きっと。そう言うんだよね、レイジニア様は」

 そうだ、レイジニア・ブランディは、そう言わなくては、いけない。


――私は、悪役令嬢に転生したのだから。

 雨の音が、ポツポツと響き始めた。下校の時間が迫る。

 おそらくノアはもう学園から出た頃だ。急いで私が教えた通り、私の手紙を持ってブランディ家へ急いでいるところだろう。私の読みが正しければ、今この時点で彼についての動きが世界から見られないという事は、彼の分のフラグも消滅したと考えていいだろう。

 だけれど、それ以上の問題が、眼の前で起きている。

「レイジニア様はやめてって言ったでしょう? 私、嫌いなのよその名前……ッ」

 しくじったと思った。私が私の名を好かない理由は、私が嫌いな私と、レイジニアという言葉の類似性からだ。だけれどそれはあくまで私の意識の問題。


 レイジニア・ブランディは、そんな事を言わない。

「うん、言わないよ。だって私が好きで、一緒にいたいなって思っているのはレイジニア様じゃなくて、ニアちゃんなんだ。どんな理由があるかは分からない、けれど沢山沢山頑張ってくれてるんだよね? 私だってさ、馬鹿だけれど、禁呪を学校で使う程馬鹿じゃないよ。えへへ、そこまで馬鹿だと思ってた?」

 思っていた。この子の『主人公』としての成長速度を、完全に見誤っていた。

 それは私があまりにも『主人公』を嫌悪してきたからこその、大きなミスだ。

 読んですらいなかった、興味すらなかった。ただただ、泣いていればいいと思っていた。


――だから、その罰が当たったのかもしれない。

 クロが視線でこちらを心配しているのが見えるが、私は目を逸らす。

「焦り方からして、私の事、かなり気を遣ってくれているんだよね? 体育の時だってそうだよ。あんなに怪我しそうになるなんて、私はドジだけど、どう考えてもおかしい。その度にニアちゃんが助けてくれた。それに、その時にクロちゃんは絶対にいなかった」

 あからさますぎる程の世界の行動は、思わぬ所で功を奏してしまったという事になる。ノアのフラグを消滅させる為にしてきた嫌がらせかのような怪我への誘導、その対応こそが、気づかれてはいけない庇護対象に気づかれるきっかけになったのだ。

「ね、全部は聞かないよ。だけれど、ニアちゃんは悪いこと、してないんだよね?」

 その言葉に、私は沈黙する。悪いことは、沢山してきた。

 ウェヌにだって、最初は本気で嫌悪感を抱いていたのだ。

 ブラウンにだってそうだ。騎士のジェスには未だにそのお詫びも出来ていない。

 ノアはきっと上手くやるだろう。それは何となく自信がある。

 

 上手くいったと思った。これで一息つけるのだと、そう思っていた。

 だけれどそんな時こそ、一番最悪な事態に繋がる落とし穴がある。

「して、きたんだ。それは……私の為?」

「いいえ、最初から言っているじゃない。私がする事は、全部私の為にしている事。私はね、我儘。人間が嫌い。私が嫌い」

 そう、私は私が嫌いだ。


――だけれど、ウェヌは。クロは。

 人間だけれど、二人は確かに人間だけれど。

 二人のような人間が私の近くにいたならば。

「だけれど、貴方達の事は、大事に思っているの。だから、意地悪を言うのは、やめてくれない、かしらね……」

 外の雨は次第に強くなり、雨粒が窓をうち始めた。

「意地悪、なのかな。何も出来ない私が、ただニアちゃんが痛がるのを見ているのが嫌だって思うのは、意地悪……なのかなぁ……っ!」

 その声は、強い雨の中でも聞こえるくらいの大きさで、クラスに残っていた何人かがこちらを振り向いた。だけれどその視線も、クロが立ち上がり、睨みをきかせる事でおさまった。

「私の我儘だって言うならさぁ! ニアちゃんが、私の我儘だって言うんならさぁ。私の我儘だって……!」

「出来ない、それは、出来ないの」

 俯くと、ふと眼の前にクロの足元が見えた。

「ニア様、ほんとーに出来ないのか? 言えないか? 信じて、あげられないか?」

 クロには、大体の事情を話してある。驚きながらも理解してくれたのは、彼女が世界の摂理の外にいた存在であり、彼女の性格によるものであり、彼女本人を取り巻く話ではないからだ。

「ウェヌも、ほんとーに知りたいのか? 知らないと、信じて、あげられないか?」

 だからこそ、彼女にはきっとこの問題の難しさが良く分かっているのだろう。この口論にやっと口を挟んだのは、きっとこの口論が堂々巡りになると察したからだ。

「わたしは……っ!」

「私はッ!」

 私達のその言葉を、クロが大きな声でかき消す。

「あたまをひやすべき!」

 クロのその大きな声に、私もウェヌも一瞬固まって、その隙にウェヌは荷物と一緒にクロに肩を掴まれて、教室の外へと連れて行かれてしまった。

 少しすると、クロが溜息を吐きながら戻って来る。

「ニア様ぁ……どうしちゃったのウェヌ。急にすんごいピンと来てたぞ……」

「保険医のフラグを消してきたわ。詳細は、後で……」

 クロはその言葉で何となく状況を把握したようで、頷いて、私の荷物を取って来た。

「なんだ、みーんな傘、持ってきてないんだな」

 呆れたようにクロが笑う。この状況でも笑っていられるのは、彼女の凄く大事な強みだ。


「あの子は、なんて?」

「ズルいなー、ニア様は。ウェヌは泣いてた、そんだけ」

 学園の入口で、ボウっと外を見ながら、雨が止むのを何となく待っていた。

 だけれど私は、一歩外に踏み出す。クロは黙って、その後をついてきた。

「ニア様。濡れちゃうぞ」

「いいのよ。頭を冷やしなさいって言ったの、アンタでしょ」

 大雨の粒が、頬にあたる。

 その雨が、ツーっと頬をこぼれ落ちていく。


 私は涙を流さない。あの子が泣けるなら、それでいい。

「まさか、気付くとはね。フラグの消滅に関係しているのかしら」

「仲直り、できそーか? 納得、してくれんのかなぁ」

 クロは楽観的な風に笑っている。だけれど、私は泣かずとも、笑う事は出来なかった。

 ただ、ただ、今日は眠りたい。本当は今頃、研究室の入れ替えなんかをしながら、雨が止むのを待っていたのだ。だけれどそれももう、叶わない。

「皮肉なものね……必死に、人生を取り戻す努力をしても、心どころか、空すら晴れやしない」

 雨音だけが響く世界は、まるで私を嘲笑っているかのようだった。


――大雨の中、傘を持たない傷ついた少女。


 そんな、ありきたりすぎる出会いの場面すら想像できない程に、私は疲弊しているのだと気付いたのは、ノアに簡単な保健室用の常備薬の準備を頼み、ベッドで泥のように眠った次の日の、変わらず降り続く雨音のうるさい、朝の事だった。

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