第十一話『かたいパンはきらいだ!』

 この世界がしっかりと現実の暦と同じく、土日が休みで本当に良かったと思うと同時に、ちゃんと土曜日の朝から目的に向かって動き出していた私を褒めてあげたいくらいには、クロをブランディ家に招き入れるのには難儀した。

 とはいえ自分はブランディ家たった一人の令嬢だ。召使いの雇用くらいは、わがままという形にはなったとしても許可が降りたのだけれど、とにかくはまず彼女を洗いまくってピッカピカの清潔にして、風邪を引く前にとりあえずメイド用の衣服の採寸をさせ、家にあった私のお下がりの服を「勿体無い事を!」なんて嫌がるメイド長あたりをなだめながら着させて、家での重要な立ち位置の人にのみ挨拶をさせ、事情を取り繕い、なんて事をしている間に、土曜日はもう夜になっていた。


 ちなみに、私をニア様と呼ばせるまでに注意した回数は思い出したくもない。 


「ねーニア様ー、ずーっと剣ふってんね、あの人」

 私の部屋の窓からブラウンボンクラ執事を眺めるクロは、元々はボサボサだった黒髪をツヤツヤに洗われ、綺麗なショートカットに切り揃えられ、白を貴重とした衣服に身を包んでいた。

 元々見た目だけは良いのだ。だからか性格を除けば私の妹と名乗ってもいいくらいにはお嬢様らしくなった。

 それでも、それに見合う程度の労力は彼女にもあったようで、食事の前の小休止という事で、彼女に小パンを一つ渡すと、その途端彼女は耳がピンと立つくらいに動揺と興奮を隠せないまま、パンにがっついていた。そういえば、私が平気だったせいか気が付かなかったけれど、結局あのクソッタレ施設から彼女を連れて帰ってから数時間経って、見栄えだけを整えたは良い物の、食事の一つも与えていなかった事にやっと気づいた。

 私と彼女の境遇は明らかに違う。そんな事にも頭が回っていない自分に、少し苛立ちを覚えた。

 それと同時に、食事を与えられないという事が当たり前になっている彼女の境遇にも、悲しみを覚えた。

「あぁ……私も馬鹿ね。順序が違う、少し頭を冷やさないと」

 悔しさと溜め息は小さな呟きに変わる。私が私を擁護するのならば、人を買ってきたのなんて初めてなのだから、そんな事をアドリブで全てこなせるかという話ではある。

 だけれど、あんな施設でひもじい思いをしていた子を前にして、まず最初に食事を与えなくてどうするというのだ。私は自分の目的について確固たる意思を持っているつもりだ。だけれど、事を急ぐあまりに、大事にしなければいけない人に気を配れないでいる。

 最近は目的が増えてきたせいか、少し焦ってきている事を自覚した。

「どーしたー? ニア様」

 そんな私の失敗、小さな胸の痛みを何ら気にもしない様子で、クロは私の顔を覗き込む。あまりにがっついて食べるあまり、頬にパンくずをつけたまま、彼女は不思議そうな顔をしている。

「どうしました? よ。ま、こういうところからよね……」

 私はそのパンくずを彼女の頬からそっと取ると、どうやらまだまだ食べざかりの様子の眼の前の黒猫のような少女は、私の手からパンくずを俊敏に拾い上げて口に含んだ。

「何も取りゃしないわよ……でも、うん。こういうところからだ。クロ、まだお腹減ってる?」

「減ってるな!」

 そりゃそうでしょうよと思いながら、私は外で剣を降っているブラウンボンクラ執事に大声で「ブラウン! パン持ってきなさい!」と叫んだ。

 遠くから「かしこまりました!!!」という叫びと共に地面を蹴る音が聞こえる。

「おー……ニア様は偉いんだな」

「はぁ、口調はもう良いか……でもニア様だけは守りなさいね。ちなみにクロもアイツよりは偉いわよ?」

 実際ブランディ家に於けるクロの権力は無い物としてもらうけれど、実際は私専属のメイドとして、必要な時には必ず近くにいさせるつもりだ。つまり結局は私の次に権力を持っているという事になる。

 警備も兼ねているという理由付けをして戦闘訓練全般も然るべき人間に頼んであった。ブラウンは我流で剣を振っているだけでいい。少なくとも今は。

 クロには、なるべく早く私の密やかな刃として、役に立って欲しい所だ。

「うぉー! しょーしんか? 早いな! それで、ニア様はわたしに何をさせたいんだっけ……?」

「お腹一杯の代わりに、私を守るの」

「ん、まもる! だいじょーぶだ! クロはつよいからな! たぶん!」

 言っている間にノックの音が聞こえ、バスケット一杯にパンを抱えたブラウンが現れる。

 やはり彼は彼らしく、クロを見て目を丸くして驚いていたけれど「こちら私のお抱えメイド、貴方の上司よ」というと頭を下げてバスケットをこちらに差し出した。

「いっぱいって! こんなにか! やるなお雨!」

 クロは嬉しそうにぴょんぴょん跳ねながらブラウンの肩をバンバンと叩いていた。


 当人は気づいていないものの、中々気合の入ったパンチである。ブラウンの笑顔がひきつっているのが見えた。

「やめたげなさいクロ、痛がってるわよ。それにまぁ、貴方もやるだけやっているわ。一つくらい持って行ってもいいわよ」

 バスケットの中身は、遠目から見る限りでも一種類のパンでは無く、数種類のパンが二つずつ詰められていた。私はパンとしか言っていないが、彼もおそらくは日がな一日中剣を振り続けていたわけでは無いのだろう。騒々しい屋敷と、誰かしらが私と一緒にいるという事くらいは察せたようだ。

 その気配りが元々持っていたものかは分からないものの、ボンクラと思うのは控えてあげようと思った。

 

 だからそのうちの一つ、私が食べる分の一つくらいは上げてもいいと思ったのだけれど、両者は両様に意識的には反対で、意味としては同じ回答を返す。

「いーや! クロが食べるぞ!」

「頂くなんてとんでもない!」


 自己主張同士ではあるものの、正反対の回答である。

 とはいえ、クロがパンを食べるという事実には変わりはないのだけれど、一瞬殺気みたいな物がふわりと浮いたのが気になった。私はクロに目配せして少し目を細める、すると彼女は笑いその痺れるような雰囲気が消えた。


「にゃしし……きがあうな!」


 ブラウンが苦笑するなか、こちらに頭を下げるのを見て私はほんの少しだけ表情を崩して手を振る。

 それを見て少しだけホットした顔をした彼は、そのまま私の部屋を去っていった。

「ひひやふやなー」

「喋りながら食べない! そのくらいは言わせてもらうわよ!」

 クロの躾けは追々として、とにかく今日は私も、おそらくはクロもひどく疲れただろう。

 クロが私よりも元気そうに見え、私の分までパンをほうばっているのは、悔しいが歳のせいなのだろう。

 

 私は身体年齢こそ若返ってはいるものの、元々は酒を煽りながらだらけていた大人だったのだ。

 そんな精神が――この身体を『ピチピチ』なんて言ってしまいたいようなこんな精神が、この身体には宿っているのだ。身体的な疲れこそ無くても、精神的にはひどく疲れた。初めての事だらけ、気丈に振る舞うのは、必須事項。思えばやはり、中々にハードな事は多い。


 とはいっても弱音なんて今の私の脳によぎらせてはいけない。さっきの、クロに食事を与えられなかったなんていう凡ミスの度に落ち込んでいてはいけないのだ。それよりもそれを無くす事を考えなければ、この世界では……きっとあの世界でも生きていけなかったのだろう。


 この子を育成……と呼ぶのは何だか妙な感じだけれど、まるで黒猫のようなこの子に託すべき力と仕事、それに精神性は上手く考えていかなければいけない。

 飼い犬ならぬ、飼い猫に手を噛まれてもつまらないし、ブラウンのような状態の人間がもう一人増えても仕方がない。

 幼いながらも何処か大人びた、というより"何らかの環境"によって子供の心に殺気を宿してしまったこの子を、私はまともな側近に仕立て上げる事で、やっとこの、ゲームを元にした世界で信用の出来る人間を一人得られる事となる。

「期待してるからね、クロ」

「……んぐっ! おー、まかせろー! かたいパンはきらいだ! ずっと此処のがいいぞ!」

 喋る前にちゃんと口に入れていたパンを飲み込んだクロを見て、意外と物覚えが良い事にホッとしながらも、では何故ニア様という言葉があれだけ定着しなかったのだろうと不思議に思いながら、私と側近の出会いの日はおわ……らなかった!


「なんだこれー! ふわふわだ!」

 私の部屋に彼女用の寝具を運ばせたのだけれど、ここまではしゃぐものだろうか。

 というよりも、いくら私よりも若く幼いとはいえ、17歳であるレイジニアとは違って数歳が良い所だ。なのに妙に彼女は子供っぽい。

「そういう時期なのかしらね……ほーらクロ! 寝るわよ! 貴方も大概疲れたでしょ!」

「まだまだいけるぞー! パンいっぱいたべたからなー!」

「私が疲れたの! ほら! ベッド入りなさい!」


――若いって、いいなぁ。

 そんな事を思いながら、ベッドの中で足をパタパタさせる音を聞きながら、笑っている私がいた。

 無垢であってほしい、けれど。私がこれからやる事は無垢とは程遠い事だ。

 それをどうか、この子が理解してくれたらいい。というか、きっとあまり大げさに考えないのかもしれないななんて楽観もしてみたくなる。

 

 眠るには少し早い時間だったからか。声を潜めながら、剣を振る音も小さく開けてある窓の外から聞こえてきていた。

「全く、ほんとに。厄介というか、なんというか」

 ウェヌに始まり、出会う人出会う人が癖の強い人揃いだ。

 それでも始まりに過ぎない、まだまだ出会うであろう難敵の事を、今だけは考えずに、私はそっと目を瞑った。

 そのうちに剣の音が消え、パタパタ鳴っていた音が寝息に変わった事を、何となく嬉しく思いながら。

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