人魚の恩返し

月餠

第1話

 「なぁヤマル。オレを食ってくれよ」


 夏の青空の光が水面に反射し、青く光り輝くネモー洞窟の中で、若い男の囁く声がひっそり反響する。声の主である長い金髪の人魚…ナギノは、オレが乗っている小舟に近づき、ヘリにかけてあったしわくちゃの俺の手に触れ、俺の顔を見つめながらそう言った。


 「だから、食わねえよ」


 傷のない右目でナギノを見下ろしながら、何度聞いたかわからないその言葉に、俺は毎回決まってそう返していた。

 人魚。その血肉を人が喰らうと不老不死になるという言い伝えがあり、大昔には人間の手による乱獲すら起こし、今では幻の生物だという。実際俺もナギノ以外見た事はなかった。


 「クソー、頑固爺…ヤマルさぁ、多分もうあと20年くらいしか生きれないだろ?不老不死になったら今より若い姿で元気に生きられるし、良いことずくめじゃん。それに左目も見えるようになるかもだろー?」


 ナギノは俺の左目の傷痕を指でそっとなぞった。

 俺の目の傷はガキの頃からのものだ。8つの時に親に安銭で売られ、送られた先のクソみたいな親方に、ある日酔っ払った勢いから包丁で殺されかけた時にできたものだ。しかし俺も親方ともみくちゃになった挙句に、逆に刺し殺してこの異国の地まで逃げてしまったので、あまり相手のことを悪くは言えないが。


 「…俺は普通に生きて死にたいから不老不死には興味ねえ。それにこの目の傷のことも、大して気にしてねえんだ」


 俺は顔を上げて洞窟の入り口から見える空を見た。透き通るような青空にカモメが2、3羽、心地良さそうに飛んでいた。


 「でもさぁー普通とかつまんないじゃん。長く生きたらその分いいこともっとあるかもだし、だから…」


 「ナギノ、お前さんのその気持ちは嬉しいが、そんな無理して『恩返し』をしねえで良い。俺はもう十分だ」


 顔に触れる手を下ろさせて俺がそう言うと、ナギノは目を伏せた。


 「別に無理してないけど…」


 ナギノと出会ったのはずっと昔、俺がまだ25の時だった。仕事の漁を終えて小舟で帰っていたら、たまたまこのネモー洞窟の入り口の岩っぺりに倒れていたのを発見した。

 俺の焼けた肌や傷みうねった黒髪と違って、白い肌に腰下までの長い金髪だったから、最初は人間の女が倒れてるのかと思っていた。しかし近づいてよく見てみたら、服も着ていない上半身は男の体で、下半身はどう見ても尾鰭のついた魚の形で、そうじゃないのは明らかだった。その上、顔や体は酷く損傷している状態だった。てっきりもう死んでるかと思っていたのに、それでもナギノは生きていた。

 俺は人魚を初めて見た驚きなんかよりもそっちの方が衝撃的で、尾鰭まで含めたら大柄な俺の身長をゆうに超える大きさのナギノを家に連れ帰って手当することにした。

 面倒事には首を突っ込まない主義の俺だったが…あの時は、親方に殺され海に投げ捨てられた仲間達の死体を思い出してしまったのもあって、そうしたのかもしれない。

 なんにせよそれ以降、「助けてもらった恩があるから」と言って、この人魚は俺に「恩返し」をするようになったのだった。


 「…しかし普通に生きると言っても、お前さんと出会ってからは色々あったな」


 「そうだっけ?」


 「ああ。例えば朝、俺のこの舟いっぱいにお前さんが魚をとって入れてた時があった」


 「あーあったな。ヤマルは仕事で魚捕まえてたからそれを手伝いたかったんだ。オレ泳ぎが得意だからさ」


 「そうだな。あの時はあんがとさん」


 俺の言葉にへへッとナギノは嬉しげに笑った。俺も銛突きなんかをしているので泳ぎは得意だが、やはり人魚には敵わないものだ。しかしあの時は魚の量も量だが、それだけの量の魚をとって入れている時に、ナギノが人間に見つかって捕まりかねないと思ったので、すぐにやめさせて、会う場所も人が来ないこのネモー洞窟の中と決めたのだったか。


 「水宮に連れて行ってくれた時もあったな」


 「あったなー。アンタが『そんなに綺麗な場所があんなら、一度は見てみたいもんだな』って言ってたから、この洞窟の奥と海底の水宮を魔女に繋げてもらって連れてった…オレの言った通り、綺麗な場所だっただろ?」


 「ああ。天国ってもんがあるなら、きっとあの場所を指すんだろうって思ったくらいに美しかったよ」


 「ふふーん、そうだろ。あ、でも…」


 意気揚々としていたナギノは、ふと口元を手で押さえた。


 「あの時無理やり時空を繋げたから、確かあっちからこっちに戻ってきた時に時間がずれて、ヤマルは10年間神隠しにあったことになってたんだよな…ほんとにすまん…」


 「大丈夫だから、気にすんな。お前さんと行くことができて楽しかったぜ」


 謝るナギノに、俺は気にしてないの意味も込めて、少し笑ってみせた。確かに当時は多少大変ではあったが、あれだけ美しいものを見られたのだから、後悔は全くない。

 ナギノは今年で368歳になるが、長命の人魚からしたら、10年と言う年月はきっと些細なものだろう。しかしそういった人間の時間感覚を理解できるようだった。

 ナギノの「恩返し」は他にも、この洞窟でシャチやイルカとの曲芸をして見せたり、どこで見つけたのか金銀財宝の詰まった箱だったりと多岐に渡る。前者は何度でも見たくなるくらい俺は好きだが、後者は明らかに面倒事になりそうなのがわかったので断った。


 「どれも愉快な思い出だ…ああでも、嫁の正体がお前さんだった時は、流石に度肝を抜かれたな」


 「ああ、ナギコちゃんね…アンタが欲しいもんをちっとも教えてくんないから、魔女に『ヤマルが本当に望むものは何か』を聞いて、擬態のまじないをかけてもらったんだ」


 ナギノは笑って小舟から離れ、周りを仰向けで泳ぎ始めた。泳ぎに合わせてナギノの長い絹糸のような金髪が水面に広がって、差し込む太陽の光を反射させて輝いていた。


 「アンタの理想の人間の女だっただろ?黒髪で、華奢で、お淑やかで、とびきり可愛い若い女だ。なんなら演技力も役者顔負けだったろー!」


 「ああ、そうだな」


 「でも残念だ、結局『擬態』だからな。外っ面しか人間の女になれないから不完全な上、まさか人間じゃないってバレたらその場ですぐ呪いが解けちまうなんて…」


 「ナギコ」はある日突然俺の元に現れた。身寄りがなく、足が不自由なのか歩くことができない、どこか儚げな女だった。目の前のナギノとは雰囲気も口調も容姿も、何もかもが違うので、あの時は本当に驚いた。


 「…確かに、俺が聞いたらすぐに戻ってたな」


 「なー、本当、残念だ」


 ナギノはため息をついた。ナギノの言う『擬態』の呪いはどうやら加齢からくる外見変化に対応していなかったらしく、「ナギコ」はいつまでも同じ姿のままだった。それ以外でも不自然な点は色々あったと今なら思うが、しかし当時の俺がその違和感に明確に気づいたのは「ナギコ」と夫婦になってしばらくした後だった。


 「ちゃんと人間の女になって、ヤマルに『家族』を作ってやって、喜ばせたかったんだけどなぁ…」


 「……」


 そう残念そうに呟くナギノの言葉と表情を見て、俺は閉口した。

 正直、この件に関してはいまだに俺も完全な感情や思考の落とし所がついていない。やはり人間と人魚では何か根本的に感じ方や考え方が違うのかもしれない。ナギノと「ナギコ」は別人で、そしてあの姿になったのも俺の願いを叶えるというナギノなりの「恩返し」のつもりなのだろうから。

 しかしそう考えると、余りにも貰いすぎている。俺がナギノにしてやれたことなんて、ナギノの好物の蒸かした芋や果物をやったり、髪が絡まると言っていたので昔櫛を贈ったくらいだ。欲しいものを聞いても答えないのはお互い様とも言える。とはいえ老耄おいぼれの人間の俺がくれてやれるものなんて、たかが知れてはいるのだが。


 「…俺は呪いが解けてよかったと思ってる」


 「えー…それあん時にも言ってたよな…なんでそう思うわけ?失敗してアンタを騙した形になるのに、全然怒らんし…」


 「騙したなんて思ってねえさ。一時的とは言え、『ナギコ』と過ごした日々は夢のような暮らしだった…俺には過ぎた幸せだ。それをくれたお前さんには心から感謝してる。だが…」


 「だが?」


 「…やっぱり俺の為にお前さんにそんな負担を強いさせたくはねえし、それに心配だったんだ」


 「…心配って?」


 ナギノは仰向けに泳ぐのをやめて、俺の方を見た。外は陽が傾き始め、差し込む光で洞窟内は黄金色に染まっていた。


 「『ナギコ』が来てから、ナギノはここに来なくなっただろう。どこかで幸せに、元気にやってんなら良いが、別れの挨拶もなかったし…もし人間に捕まっていたら…と思ったら、どうにもずっと苦しかったんだ。だからあの時呪いが解けて、お前さんが生きてるのがわかって、『ああ良かった』って心底安心したんだ」


 「…ヤマルはやっぱり良い人間だな」


 「お前さんが思うほど、俺は良い人間じゃねえよ」


 そう言いながらナギノの方を見ると、どこか悲しげな顔で微笑んでいた。


 「そんなことないさ…そういや初めて会った時もアンタ『食わねえし殺さねえよ。不老不死にも、お前さんの肉の味にも、俺は興味ない』って言ってたな。オレ、あん時に初めて会ったよ。人魚の血肉に興味がない人間にさ…」


 それを聞いて、俺も出会ってすぐにナギノに言われた言葉を思い出していた。あの時のナギノは、


 「アンタもオレを食べる気なんだろう…だったらもう、先に殺してくれ…頼むよ…」


と、ボロボロの顔と諦めたような声色でそう言っていた。ナギノがそう言うに至るまでになったそれまでの人生や当時の内心を想像して、胸が締め付けられた。


 「しかも『人魚はお湯で風呂に入って良いのか?』とか『人魚ってのは魚以外の、芋とか麦は食えるのか』とかアンタ聞いてくるもんだから、オレもうおっかしくて笑っちまったよ」


 「…仕方ねえだろ、それまで人魚と暮らしたことなかったんだからよ」


 「ハハハ!だろうなぁ!」


 洞窟内にナギノの楽しそうな笑い声と、尾鰭で弾いた水音が大きく反響した。


 「はあーぁ、笑った笑った…オレ、アンタのそういうとこが…なんていうか嬉しくて、好きなんだ。だから、アンタの喜んでる顔がもっと見たくて、何回も会って話したくて、そんで、少しでも長く一緒にいたくなって…色々『恩返し』をしてたんだ」


 「…ナギノ、お前さん…」


 「でもまぁ、そうだよな、不老不死にすんのはやっぱダメだよなー。うん。いくら『恩返し』で長生きして欲しいっていってもな」


 陽はさらに傾ぎ、洞窟内に濃く暗い影が落ちる。話しを続けるナギノのその表情はよく見えず、青い目だけが滲んで光っていた。


 「オレも、不老不死を望む奴なんて、嫌いだし。そんな奴、皆自分勝手で最低最悪なのばっかりだし…ヤマルは、そうじゃないんだもんな…そうだよなぁ…」


 ナギノがまるで自身に言い聞かせるかのように絞り出したその声は、次第に掠れ、震え、そして最後には嗚咽に変わっていった。



 その小さな泣き声と夜の波のさざめきだけが、ただただ静かに辺りに響いていた。

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