彼女の言葉を。

杏杜 楼凪(あんず るな)

聞いていただけますか?

 本来であれば、こんな話をインターネットの海に放流してはならないのでしょう。

 頭では分かっているのですが、これ以上心に秘めておくことに耐え切れず、筆を執った次第です。


 あの日からただ、私は恐怖しているのです。




 私はとある小学校で学習支援員をしていました。

 学習支援員という名の通り、本来は勉強が苦手な子の手助けをしたり、担任の授業準備の手伝いをしたりする仕事です。

 しかしながら、教育現場は常に深刻な人手不足に悩まされています。個別対応が必要な児童が年々増え、担任の負担も指数関数的に増加してゆく昨今ですから、私のような支援員も駆り出され個別対応に走り回るのが常でした。



 

 小学一年生の彼女――ここではKさんとさせていただきます――もまた、個別対応を必要とする児童の一人でした。

 肩まで伸びた艶やかな黒髪と、襟の伸びただらしの無いTシャツが不釣り合いな少女でした。



 

「やだ! やだあ!」


 毎朝、彼女の癇癪かんしゃくの声が校内に響き渡る所から私の一日が始まります。

 

 彼女の母親は、泣き喚くKさんの腕を引っ掴んで登校してきます。しかし、母親は私を見つけると手を離して目も合わせずに帰っていってしまうのです。

 ですから私は、Kさんが校門から逃げ出さないよう抱きかかえるしかありませんでした。


「Kさん、よく来たね。一緒に教室に行こうか」

「いやああああああ!」

「ほら、担任の先生も待っているし、今日は音楽の時間もあるよ」

「やだ! やだ!」


 彼女は金切り声を上げ、小さな手足をばたつかせて暴れます。私の腹を蹴り上げ、腕に噛み付き、手に持つ水筒で腕を殴りつけます。

 Kさんが入学してからの二ヶ月、私の身体には生傷が絶えなくなりました。しかしきっと彼女には他に苛立ちや不安を表現する方法が無いのでしょうから、私なんかよりもずっと苦しいに違いないのです。


 そう、思うようにしていました。




 彼女が落ち着いて授業に参加できたことは、正直に言えば一度もありませんでした。

 

 彼女は何の脈絡もなく金切り声を上げたり、クラスのお友達の物を奪っては壁に投げつけたり、教室を飛び出して走り去ったりするのです。

 私はそんなKさんに一日中ついて回り、お友達や彼女自身がケガをしないよう、身を呈して守る役目を仰せつかっていました。


「やねのうえ、いきます。ぶーん」


 彼女は屋上を『やねのうえ』と呼びました。しきりに屋上に行きたがり、突如走り出して向かってしまうのです。それがあまりにも危険だということで、屋上へ向かう扉は施錠されることになったのでした。

 

「今はダメだよ。鍵がかかっているからね」

「やねのうえ、いきます。やねのうえ、いきます」


 彼女は虚空を見つめながら呟き続けています。


「行かないよ。ほら、次は図工だから、粘土をやりに教室に戻ろう?」


 宙をさまよっていた彼女の視線が私に向き、唇がぷるぷると震え出し。

 (しまった)

 そう思った時には遅く。


「うっせーんだよ! だまれころすぞ!」


 彼女は金切り声を上げ、廊下に置いてある物を手当たり次第に投げつけ始めました。その瞳には光の一つもありません。ただ真っ赤に染めた顔をブンブンと振り回して歯を食いしばり、暴れるのです。

 私は仕方なく彼女の身体を抱え上げて、薄暗い空き教室へと飛び込みました。


「やめなさい! 危ないから、やめて!」

「しねよ! やくたたず! だまれ!」

 

 そうです。彼女は常に単語のみを並べて話すのですが、暴言だけはやけに流暢なのでした。

 子どもは想像以上に大人をよく見ています。周囲の大人の言葉や振舞いに影響を受け、無意識に真似をしているものです。

 毎日のようにKさんから吐き出される、淀みのない暴言を耳にする度に(彼女は親にこんな事を言われ続けているのだろうか)と私は切なくなるのでした。




 しかしこの日に、アレが起こったのです。


「おまえしねよ! だまれころすぞ! うるせぇっていって――」


 と、矢継ぎ早に飛び出していた暴言が突如止まりました。私の拘束から逃げ出そうと突っ張っていた腕から力が抜け、だらんと垂れ下がったのです。


 私が慌ててKさんの顔色を伺うと、


 


 彼女は、笑っていました。




 見た事がないほど満面の笑みで、私に抱きかかえられているのです。

 私がそっと彼女の身体を下ろすと、彼女は未だ貼り付けたような笑みを浮かべ、気をつけの姿勢のまま立ち尽くしていました。


「K……さん? 大丈夫? 具合でも悪い?」


 そう言って彼女の顔を覗き込んでも、彼女の目の焦点が私に合う事はありませんでした。


「Kさん? どうしたの? Kさん?」


 幾度も名前を呼び、肩を叩いても、彼女は直立不動のままでした。

 他の職員を呼びに行くか、このまま彼女を抱きかかえて保健室に連れて行くか……私が決めあぐねていたその時。

 

「じんしんくぎ」

「え?」


 彼女は一言、そう呟きました。


「やねのうえ、じんしんくぎ、じんしんくぎ、もうすぐかみがきます、じんしんくぎ、じんしんくぎ」


 じんしんくぎ、じんしんくぎ、と彼女はひたすらに繰り返します。笑顔のまま、手を胸に当てて、嬉しそうに。

 

 そして、彼女はパッと目を開き、


「ねぇ、せんせ?」


 開ききった瞳孔で私を見つめ、微笑み、


「おまえはじんしんくぎだよ」


 そしてそのまま、前方に倒れ込みました。

 両手を広げて、細いその身体を空に預ける姿は、まるで小さな天使のようでもあり。


「あっ……ぶな……!」


 間一髪腕を伸ばし、どうにか彼女の身体が床に打ち付けられる事は防げたものの、受け止めたその小さな身体は信じられないほどの熱をもっていました。


 私は震える手で彼女を抱きかかえ、纏わりつく嫌な予感が早く消えるよう願いながら、足早に保健室に向かうのでした。




 彼女のその後について、私からお話できることは、実はさほど多くはありません。


 彼女は四十度近い熱を出していたようで、すぐに早退する事となりました。

 Kさんを迎えに来た母親は、相変わらず彼女の腕を掴み、俯いて足早に帰ってゆきました。


 その次の日から、Kさんは学校を欠席するようになりました。

 連絡帳には「風邪が長引いている」「家の都合」など、様々な理由が書かれていたそうですが、結局、夏休みまでの一ヶ月半の間、彼女が学校に来ることは一度もありませんでした。

 担任が両親に電話をかけても、家庭訪問をしても、Kさんはおろか、母親や家族と言葉を交わす事もできなかったそうです。


 そして彼女に会うことができないまま、夏休みの間にひっそりとKさん一家は県外へと引っ越してゆきました。




 今でも考え込んでしまいます。


 じんしんくぎ、という言葉を調べてみると、人身供犠じんしんくぎと表記されることが分かりました。読んで字のごとく、人の身を生贄にすることです。


 もしKさんが、「お前は人身供犠だ」という周りの大人の言葉を聞いて育っていたのだとしたら。

 もし、あの流暢な暴言と同じように、その言葉を真似したのだとしたら。

 もし、人身供犠のために「やねのうえ」を目指し、柵の向こうから天使のように前に倒れ込むのだとしたら。




 今となっては真実を知る術はありません。

 彼女のあの笑顔を見たのは、あの言葉を聞いたのは、私だけですから。


 しかし、未だに恐怖があるのです。

 彼女は言いました。「」だと。




 お前、とは。

 

 いったい、誰に向けられた言葉だったのでしょうか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

彼女の言葉を。 杏杜 楼凪(あんず るな) @Anzu_Runa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ