朝のボオト

紫鳥コウ

朝のボオト

 馬車には、美しい女性と恰幅かっぷくのいい男爵だんしゃくが乗っていた。これから料亭にでも出かけるようだ。ふたりには、朝山のことなど目に入っていない。あの男爵の居住まいは――いや、筆者は朝山の風采を眺め続けていたあまり、あの男性を「男爵」と断定してしまったのだろう。本当に爵位しゃくいがあるかどうかは分からない――売文商売も廃業しかけている朝山とは違い、威風堂々としている。日々を享楽しているように見える。…………


     *     *     *


 朝山は、考え続ける――


 誰にいくら借りたのか、どれくらい返していないのかなんて、もう覚えていない。帳面にまとめるには、借りた相手の数も、頭を下げた頻度も多すぎる。

 今日も「最後の友人」の馬場から、今後は借金には応じないと断りを入れられた上で、幾分か金を貸してもらった。しかしそれは、生活を糊塗ことするためではなく、淫することのために費消ひしょうするのである。


 この橋を渡れば、そこには小さな色街がある。

 ボロボロの帯は、月夜でも目立つくらいだ。もう秋も深いのに、上に羽織る着物などひとつも持っていない。売れそうなものはすべて、しちに出してしまった。

 すべてはおゆきのためだ。あのおゆきのためならば、喜んで身を滅ぼすつもりでいる。シェエクスピアの劇の主役にしても見劣りはしないであろう、あのおゆきのためなら。


 橋の下を流れる川の音が聞こえてくる。冷ややかであるがゆえに、とげがない。時に逆らわずに、素直に海へと流れていく。

 心身にこたえる寂しさが、ここにはある。いったい、川というのは不思議なところだ。色街へ向けている歩みを、ぴたりと止めてしまうのだから。

 いま「はやり」の、身投げなどしたくない。だけど、橋の上で横になって、ずっとこの音を聞いていたい。おゆきへの想いが、水底へと沈んでいくようだ。いつも、そうだ。


     *     *     *


 おゆきは風邪を引いたから、別の子と酒をむよう勧められた。醜態をさらしてまで借りた金だ。おゆきのために使わなければならない。

 それなのに、なぜ一晩で費消してしまったのだろう。人肌が恋しくてしかたがなかったといえば、それまでだ。いや、この愚行の正体なんてとっくに分かっている。


 ボロボロの服は、夜明けによく似合う。みすぼらしくない。風流に見える。なんなら、男前のように、ひとの目には映るかもしれない。

 風邪なんてウソだと分かっている。会いたくないという意志を、さりげなく示したに過ぎない。


 きっと、なにをしでかすか分からないから、おかみさんの口を借りたのだろう。そうだ。なにか気に障ることがひとつでもあれば、暴れていたかもしれないのだ。なにしろ、これが最後の逢瀬おうせになるかもしれないのだから。

 機嫌良く酔っ払いたいし、愛想よく振舞われたい。しかし、おゆきと会うことは叶わなかった。そしてこれからも、会うことなんてできないだろう。ならば、誰と呑んでも変わらないのだ。


 この日のことを一篇の小説にして、方々に葉書を書いて、どこかの雑誌の片隅に載せてもらうことはできないだろうか。

 もうこうした創作物は読まれないだろうけれど、余白を埋めるには丁度いい。だが原稿料は、原稿を取ってくれた雑誌社のなにがしへの借金の返済に使われるだけだろう。

 文科の学生の同人どうじんにでも採ってもらおうか。いや、たいした金にはなるまい。八方塞がりだ。あの橋の向こうにあるのは、地獄の分身だ。


 そのときだ。川上から、一艘いっそうのボオトが現れたのは。


 曙光が鍍金めっきをかけた水面に、もの静かに白波を立てて、凪いだ朝を、まるで一陣の風のように、力強く走っている。

 どんどんオオルの影が見えてきた。いでいる男たちのかけ声まで、だんだんとはっきり聞こえてくる。あしが揺れているのは、波紋になぶられたせいだろう。


 それでも静寂が打ち破られないのは、彼らが時に逆らう意志を持っていないからに違いない。自然のなかに、見事に調和したボオトが、橋の下をくぐろうとこちらへ向かってくる。

 川下には、海がある。そこまで漕いでいくのだろうか。少なくとも、どこまでもぐいぐいと進んでいくようなエネルギイが、あのボオトにはある。


 しちから万年筆だけは取り戻そう。インクと原稿用紙は誰かに頭を下げて分けてもらおう。なにも食べずとも、呑まずとも、慾せずとも……川の流れに逆らわず、海へと至って見せてやろう。土左衛門どざえもんとなって、砂浜に打ち上げられてもかまわない。


 最後に巻煙草くらいは吸っておこうか。この興奮を一度落ちつかせなければ、感傷を羅列したくだらない一作になるに違いないから。

 この朝山権太郎の遺作を、将来、だれかが評価してくれるだろう。いまの文壇は、しょせん、俺のことなんてなにも分かっちゃいない。



 〈了〉

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