第3話

 中学生の頃のことはあまり覚えていない。勉強に熱心な学校だったからひたすら勉強をして、授業が終わればバスケットボールに集中して、部活が終わったら帰る、ということを繰り返していた。

 わたしは身長が170センチまで伸びて、体格もひょろっとしているわけではなく、案外に筋肉がついてきて体幹がしっかりとしてきたのでゴール下での競り合いにも負けなくなった。もともとリバウンドを取ることは得意だったけれど、しっかりポジションを確保したうえでそれを行えるようになってきたのだった。

「すごいね」

 とバスケットボール部の同じ学年の子が言った。

「一年生でもうレギュラーなんて、なかなかいないんじゃない?」

 たまにはいるんじゃないかと思ったが、わたしはそれを言わなかった。なんと答えても嫌味になってしまいそうで、ただ静かにうなずいた。

「いいなあ、わたしも頑張らなきゃ」

 この子は中学校からバスケットボールをはじめていて、だいたいの子がそうなのだが、まだ基礎ができていない。体力も、ゴール下で競り合う力も、果敢にドリブルで攻め込んでいくコースを考える力もまだ持っていない。でもそれが普通なのだ。

 同じ学年の子はわたしの方をちらりと見る。そんなことないよ、とか、がんばろうね、とか言ってほしいのだろうとわたしは推測する。けれどそういう言葉にはどうも魂がこもらなくて、適当に言うことになってしまうし、そんな適当な言葉を同じプレイヤーに浴びせてしまうなら何も言わない方がいいと思ってわたしは二度うなずいてロッカールームに戻った。

 この学校ではスポーツができればそんなに日常で苦労することはなくて、みんな勉強熱心だったので、友達がいなくてもとくに困ったことは起こらなかった。

 ただ、一部の女子たちの作っているグループが揉め事を起こしてクラスをざわつかせることが時々あって、それはほんとうにつまらないし無駄な時間だなとわたしは思った。その騒ぎの中でものが取られた、と一人が訴えたので学級会が行われたこともあり、当たり前だが犯人は出てこなくて、呆れてしまった。


 誰がやったのかは知らないが、わたしのバスケットボールシューズが画鋲だらけにされていたことがある。全面に執拗なほどに画鋲が打たれており、もしこの画鋲を全部抜いたとしてもバスケットシューズは使い物にならないだろうと思われた。

 わたしはお母さんにバスケットシューズがくたくたになってきたから買い替えてほしいと申し訳なく思いながら頼んだ。お母さんはもちろん、とスポーツショップに行ってよいバスケットボールシューズを買ってくれた。

 そのバスケットボールシューズを履き始めてようやく慣れはじめたころ、部活指導の先生がやってきて、

「新しいバスケットボールシューズはいくらだった」

 と聞いてくるので、わたしは値段を答えた。

「わかった」

 と先生は答え、数日後にその値段に少し上乗せした金額を封筒に入れて持ってきた。

「前のシューズを傷つけた子が、弁償したいということで持ってきた」

「そんなつもりで値段を言ったんじゃないです」

 わたしは訴える。お母さんに靴がぼろぼろになったからといってお金を出してもらってしまっているのだから、ここでお金をもらってもそのお金をなんといってお母さんに渡したらいいのかわからない。

「いいからもらっておけ」

「でも」

「もらっておきなさい」

「はい」

「お前は」

 先生は言う。

「誰がシューズを傷つけたのか、知りたくはないのか」

「知りたくないです」

「そうか」

「はい」

「すまなかった。練習試合が近いから、よろしく頼む」

「わかりました」

 シューズ代としてもらったお金をわたしはポケットに入れて自分のものにしてしまうこともできず、かといって先生に返すのも変で、受け取ってはきたものの、お母さんになんて言って渡したらいいのだろうと悩んでいた。

 家の前まで歩いてきて、玄関でぼうっと立ち尽くし、しばらくしてそっとドアを開けた。

「おかえり」

 とお母さんは言い、お父さんはもう帰ってきていてリビングでテレビを見ていた。わたしに気がつくとお父さんは軽く手を上げた。私も手を上げて返す。これがわたしとお父さんのコミュニケーションの形なのだ。

「あのね」

 夕飯の支度をされる前にわたしはダイニングテーブルに封筒を置いた。

「これは?」

「ごめんお母さん、わたし、靴がぼろぼろになったのは、誰かに画鋲をいっぱいに刺されたからだったんだ。先生が、その子からの謝罪金だって、バッシュのお金をくれた」

「その子っていうのは誰なの? 同じ学年の子?」

「わからない」

「わからないっていうのは、その子をかばって言っている? それとも本当にわからないの?」

「本当にわからない」

「お母さんは、部活の先生にその子が誰なのかを聞いて、親御さんに謝罪をしてもらいたいと思っている」

「え」

 わたしは驚いて言ってしまう。

「なんで?」

「お金をもらうことについて、誰のものかわからないお金はもらえないし、きちんと謝罪をしてもらっていないのはおかしいよ。ちゃんと謝ってもらって、誰が悪かったかを明らかにしなきゃ」

「そういうのいやなんだよね……」

「いやであってもはっきりさせなきゃいけないことだと思うな」

「お母さんがやるのは止めないけど、わたしは誰がやったかは聞きたくないし、知らないでいたい」

「バスケットボールシューズをそんなふうにされたのに?」

 わたしはしばらく考える。慣れたバスケットボールシューズが画鋲でひどい姿にされたことはとてもいやだったし、周りのチームメイトの目も気になった。かわいそうだな、という顔を先輩たちは一瞬して、けれど、明るく、気にしないでいこう、というように振る舞ってくれた。先輩たちはとても優しくて好きだ。けれど同期の子たちについてはどうやって接していいかがわからないままだ。きっと、バスケットボールシューズに画鋲を刺したのも同期の子だろうと思っていた。でも、わたしにとって同期の子たちはどの子も同じに見えた。だから、どの子でもやったのでも別によかった。

 そのことをお母さんに説明するのはあまり好ましいことではなかった。わたしは黙って、とにかくいやなのだということがお母さんに通じるように願った。

「わかった」

 お母さんは言った。

「このお金は使わないでとっておく。学校や部活の先生にも連絡しない。それでいい?」

 うん、とわたしはうなずいて、夕飯を食べた。


 バスケットボール部の同期の子が何人か辞めたらしい。それはきっとバスケットボールシューズの件と関係があるのだと思った。けれど、わたしはどの子がどの子かもわかっていなくて、あまり気にしていなかった。

 きっと、その子たちの中にも人間関係があるのだと思った。それは、わたしが悪いのではなくて、わたしのことで崩れてしまったりするような弱い人間関係であるから悪い、とわたしは考えるようにした。

 練習試合にはおおむね勝った。ある時の練習試合で、一年生同士の試合が行われ、一年生が負けているのを見た。簡単なパス回しを彼女たちは失敗していた。わたしはそれを見ても何も思わなかった。まだ一年生なのだから仕方がないとしか考えなかった。檄を飛ばすときにも先生はわたしの名前を出さなかった。それはとてもありがたいことだった。ストレッチをしながら、水分を補給して、時間ギリギリになって一年生の遠くへとぶん投げたシュートが決まったのを一年生たちが喜んでいるのを見た。わたしは、そんな偶然のものをあんなに喜んではいけない、と思った。でもそれを支えにしていたいという人たちのことは忘れてはならないとも思った。

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