真理愛編・3

 結果として、女性は健康体を保った状態で出産することに成功した、と言える。母体自体は大量の出血もなく、長時間の陣痛が大変だっただろうこと以外はこちらも驚くほどにするりと胎児は母体から産み出された。

 私が異常を察知したのは出産直後、というよりも真っ只中のことだった。

 通常、胎内で母子を繋いでいたへその緒と胎盤は出産と同時に排出される。そのへその緒が見当たらない。胎盤も排出されない。へその緒は胎児にとって文字通り生命線なのだ。なのに、それが見当たらない。へその緒は人工的に処理をしなければ胎盤と繋がったままになるため、見当たらないなんていうことは有り得ない。

 そして、羊水に塗れて産み出されたその子は産声を上げることはなかった。心音も感じられない。へその緒と胎盤の問題よりも、子どもの命が失われることの方が重大だった。急いで心臓マッサージを試みる。女性を寝かせていたベッドとは別の台に子どもを寝かせ、心臓の位置に両手の指先を揃えて圧迫する。そこで再び異常が「発生」した。胸骨圧迫中、まるで指に反発するような感触を覚えた。一瞬、心臓が動いたのかと思ったが、柔らかな胎児の心臓が大人の力を跳ね返せるわけもない。不思議に思い、一度子どもから指を離して様子を確認する。子どもはまるで眠っているような健やかな顔をしていたが、透明の何か赤いものがその顔面に張りついているのがわかった。心臓付近もよくよく見るとその赤いものに覆われている。最初、それは血液なのだと無視していたがそうではなかった。

「な、にこれ……膜……?」

 思考が整理できず、思わず口から言葉が漏れ出ていた。これでは目の前の子どもは産声を上げることはおろか、呼吸することさえできないに決まっている。理解の追いつかない状況を目の当たりにしながらも、その『膜』をなんとか除去するために刃物を取り出して切り取ろうとするが、刃先は滑るばかりで『膜』を捉えることができない。いくら医療設備が整っていないとはいえ、人体に通らないほど切れ味の悪い刃は使っていない。本当に切ることができないのだ。子どもは人形のように微動だにせず、しかし『膜』は時間が経てば経つほど強固になっているようにも思えた。

「先生……?」

 ナタリーも流石に異常だと思ったのだろう。背後から私を呼ぶ。

 どのくらい時が経っていたのかわからない。遠くで未だ発砲音や爆発音は聞こえている。目の前で繰り広げられている現象にどう対処すべきかわからず、手を借りられないのは承知で他の医師に協力を仰ぐべきだろうと、そんなことを考えていた。だからこそ、ナタリーにありのままを説明してすぐにでも診察室から飛び出そうと後ろを振り返る。

「ヒッ……!」

 再び、私の口から思わず音が漏れ出る。ナタリーが音もなく振り返ったすぐそばに立っていた。汗まみれで髪の毛を乱したままの女性は表情もなく、ただそばに立っていた。

 出産を経て、そして産声を上げない子どもを目の前にしているはずの女性。通常であれば不安そうな顔をしていてもおかしくない。であるのに無表情で立っている。そんな人間に今起こっているすべてを説明して、それから――などと考え、なんとか平静を装おうとしたが、声が少しだけ震えた。

「お、驚いた……出産直後なんですから、無理に立っては……」

「私の赤ちゃんは?」

「実は、その……」

「抱いてもいい?」

 表情は変わらないが、声色はまるで世間話をしてるくらいに軽い。呆気に取られながらも、直接見せた方が話が早いかもしれないと思い、背中に隠していた子どもの姿を見せるため彼女の隣に並んだ。

「少し、不可解なことが起こってて……」

「抱いてもいい?」

 ナタリーは繰り返す。

 私は何が何だかわからなくなってしまった。素人目でもわかるだろう異常事態が子どもの身に発生しているのだ。

 ナタリーは出産するまでの間も極めて通常の精神状態で会話ができていた。通常であれば取り乱すだろう事態を目の当たりにしているのに、「抱いてもいい?」とは何事だろう。それともやはり、ナタリー自身もおかしくなってしまったのだろうか。

「ナタリー、聞いて。赤ちゃんは生きているとは言えない状態にある。この『膜』も私は見たことのない現象で――他の先生にも相談をしてこようと思って……」

「先生」

 ナタリーは首を振りながらやっと表情を変えた。その横顔は慈しみに溢れた笑顔だ。どうしてそんな落ち着いた表情ができるのか。もしかしたらこの子どもは既に死んでいるかもしれないのに。もしかしたらまだ助けることができるかもしれないのに。

「ありがとう。私を助けてくれて」

「えっ……?」

「ああ、私の赤ちゃん……」

 ナタリーは笑顔のまま『膜』に覆われた子どもを台から抱え上げた。まるでそうあることが自然であるように、彼女は『膜』に覆われた子どもを嬉しそうに抱えていた。

「待ってたよ――この世界に来るのを」

 優しく語りかけながら、人形のように動かない子どもをあやすために左右へゆらゆら揺れている。防衛規制が働いていて異常事態を受け入れられていないと考えるのが自然だが、ナタリーにその異常性は感じられない。強いて言えば先程無表情で立っていたことの方が異常に感じられるほどだった。

「先生」

「……はい」

「急いでいて何も持って来れなかったから、この子を包む布があればもらえますか?」

 それは当然の要望だった。しかし、子どもが生きていればという前提が必要だった。

「ナタリー、この子はまだ処置の必要が――」

「先生。これでいいの。爆撃の中で生むことは流石にできなかったから、こうして先生が手伝ってくれて本当に助かりました、ありがとう」

 こちらに何も言わせないというような態度だった。為すべきことはまだあるかもしれないのに、これで完璧だとナタリーの表情が物語っていた。

 本来であればこれは虐待になるのでは、という考えすらその当時の私の思考には上ってくることもなく、ただその子どもを包むための布を探して彼女に手渡すことしかできなかった。

 ナタリーは『膜』の上から子どもを包み込む。終始穏やかな笑顔で人形のような子どもを見つめている。

「先生、本当にありがとうございました」

「いいえ……ナタリー、動かない方が……痛むでしょう。まだベッドへ横になっていても……」

「私ももっと痛いものだと思っていたけど、痛くないんです。不思議ですね。この子のおかげなのかもしれない」

 ナタリーは嬉しそうに私の方を見た。異常な状況下であれば痛みを感じづらいという現象は確かにある。だが、出産したばかりだというのに彼女の足取りはしっかりしていた。

「夫を探さないと……この子の顔も見せたいし」

「それは私が探し人の掲示板に……」

「いいんですよ、先生、ここはまだまだ怪我人が沢山いるでしょう? そんなところまでお手伝いしてもらえないですよ」

 彼女の言う通りだった。まだまだ鳴り止まない銃声は怪我人が絶えることがないことを嫌でもこちらに知らせてくる。しかし、怪我人と同じように子どもの命を助けることも重要なことであるはずだ。そしてはっきり伝えるべきだと思った。ベッドに横になっていなさいだとか、掲示板には私が行くだとか、それはすべて遠回しすぎる表現だった。

「ナタリー。その子は呼吸もしていなければ心臓も動いていない。今ならまだ命を取り留められる可能性はあるから、おとなしくこちらへその子を任せてほしい」

 ナタリーは虚を突かれた表情で一度目を見開き、私の目の中をじっと覗いてきた。ナタリーの目の中の私はまるで彼女を睨みつけているかと思えるほど険しい顔をしていた。

 やがて彼女はもう一度笑顔を浮かべるとさらにぎゅうっと子どもを胸の中へ抱き込んだ。

「先生、本当に優しい人なんですね。ありがとう。でも大丈夫なんです。これで大丈夫なんです」

「……は?」

「この子は『こう』生まれるさだめだったんです。だから何もおかしなことはありません、心配することもありません」

「――待ってください。『こう』生まれるさだめと言うことは……他にもこのように生まれてくる子どもが――?」

「夫を探さなくては……ありがとう、先生」

 汗でぐしゃぐしゃの重さの出ているはずの髪の毛をふんわりと緩やかに揺らして、ナタリーは背中を向ける。出産直後と思えないほど軽やかに彼女は扉代わりのシートを持ち上げてテントを出て行こうとした。

 そんなことを医者として許せるわけがなかった。

「待って、ナタリー!」

 そう叫び声を上げた瞬間、ナタリーと入れ替わりで看護師と共に怪我人がテントへ入ってくる。

「先生! こちらの方の処置をお願いします!」

 目の前には脚部から流血した男性患者がいる。ナタリーのことも気がかりだが、このように患者が舞い込んできては彼女を追いかけることは叶わない。

「……わかりました!」

 一度、目の前のことに集中しよう。

 ――あのような状態であればどちらにせよ子どもの生存率は低い。

 そのように言い聞かせなければ、ナタリーを即座に追いかけなかった自分を許すことができなかった。

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