真理愛編・1

 私は実習を控えた医学生だった。大学での座学や研修を終えて、ようやく現場での実習が始まるかと思いきや、元々悪かった国の情勢がさらに悪化した。貧しさに傾き続けていた母国で、大学生、しかも医学生として学業を修めることができる程度には私の家は恵まれていた。しかし、私も私の家族ももはやこの国にいること自体が危ういだろうと判断する程度に国全体が危険な地帯へ変化していた。

 幸い私たちは「恵まれた」家庭だったため、国外へ逃れる際にとある日本人が身元を引き受けてくれることになっていた。私たちは縁のあった日本へ逃れるために難民申請の手続きを行なった。両親が国外脱出するためには仕事関係で少々準備に手間取ることがわかったため、私ひとりだけが先に日本行きのチケットという名の大量の個人情報を入力した小型端末を握りしめ、今か今かと飛行機を待っていた。

 そこは国外へ逃れるために旅客機を待つ人々で溢れかえっていた。コンクリートの捲れも目立つような手入れのされていない、空き地にも思えるほど荒れた広大な土地だったが、そこは確かに飛行場だった。飛行場周辺を取り囲むように幾つものテントが建てられ、噂では何週間もこの地に滞在している人もいるというほど国外脱出の手続きは混迷している様子だった。国外の支援団体により、この難民キャンプはある程度統制されてはいたものの、それでも食料や物資は少なく、医者の手も足りていなかった。この難民キャンプに辿り着くまでで紛争に巻き込まれて怪我をしてやってくる人が後を絶たない。医者の手を必要としているのはそういった怪我人だけではない。キャンプで過ごすうちに病気にかかることもある上、お腹の中に新しい命を宿して正しく命懸けでこのキャンプへ逃れてくる女性もいる。

 現場での実習を経験してはいないが、その直前まで医学を修めてきた私だ。キャンプに滞在しているわずかの間だけでも、助けられるだけの存在ではなく人に力を貸せる存在でありたかった。支援団体から派遣されていた医師のひとりに大学の学生証と今までの成績を小型端末から提示して、医療行為を手伝わせてほしいと懇願した。その医師は困ったような表情を作り、どこかへ行ったかと思えばすぐに戻ってきて「わかった」と一言だけ返してくれた。おそらくキャンプの責任者に相談に行っていたのだろう。相談に行ったにしては短時間での帰還だった。

 今にして思えば、医師の資格もない人間に医療行為を手伝わせるというのは本来的には触法行為だっただろう。しかし、キャンプには怪我人や病人で溢れ返っており、場が混乱していた。「逃れてくる人は皆、君のことを本当の医者だと思って接するだろう。だから、君も『本物の』医者として振る舞う覚悟で挑みなさい。この場では君は『本物の』医師だ」と言われたとき、一介の医療従事者として認められたようで高揚した。しかし私はおそらく冷静ではなかった。医師の語る真意に気づいていなかったのだ。医者でないとバレてしまえば私も、その医師も、支援団体もひっくるめて、難民からの信頼を失ってしまう可能性があったから、「忠告」されたのだと思う。信頼を失えば何が起こるか、予想するのは容易い。人は危険な生き物だ。

 冷静でなかったが、それが良いように作用していたとも思う。私は医師然として働き、語り、癒した。短期間ではあるものの人の世のためと思い身を尽くした。難民の誰も私がただの学生であるなどと疑いもしなかっただろう。加えて、本物の医師たちが私には重篤な患者を回さず、比較的対応のしやすいケースばかりを回してくれていたというのも理由のひとつではあった。

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