東雲編・5

「――ええ、順当に考えれば診断ミスと本人の錯乱が重なったとしか言いようがないですね……同じような状態の『モノ』が何件も出ている説明にはならないですが……ええ、はい……明日はその予定です。はい――お疲れ様です」

 ユートピアは今はレトロとなってしまったアナログボードゲームをプレイしながら飲食できることを売りにしたコンセプトカフェバーである。本日、ユートピアは閉店しているが店内では三人の男女がひとつのテーブルを取り囲んでいる。東雲の所属するPMC『Occult Ludic Company』の定例ミーティングの日だった。

「――電話終わったぁ?」

 バーカウンターから独特のイントネーションで問いかけてくるのは『Occult Ludic Company』代表の千葉恵吾という男だ。緩い癖のついた前髪の下から明るく輝く茶色の目を覗かせ、東雲の様子を伺っている。彫りの深い整った顔には朗らかな笑みを湛えている。

「ああ、待たせてすまない。始めようか」

「東雲さん個人への依頼ですか?」

 東雲の隣で愛らしい緑色の瞳をパチクリとさせながら、金とピンクのグラデーションの髪を弄んでいる女が言う。アヴェ真理愛――本業は医師の女だ。

「前の職場から依頼があってね。先程まで少し調査に出ていたんだよ」

「――本当に、よほど人が足りていないんだな」

 東雲の斜め前の席に座った男が(いつものことではあるが)不機嫌そうに顕になっている方の左目を顰める。本業・タクシードライバーの綿奈部綱吉。皮肉のこめられた声色だが東雲に対しては特にいつものことなので誰も気にしない。そして皮肉でもなんでもなく、本当に警察の人員は足りていないのだ。

「そうなんだよ。応援を頼まれてしまってね。詳細は報告できないが……」

「ま、俺らを便利屋扱いしてたツケが回ってきたってことやな」

 千葉が快活に、しかし意地悪に笑いながら四人分のカップをのせたトレーを運んでくる。ミーティング用の茶を代表自ら淹れていたというわけだった。

「何を言っているんだか……君は実際『便利屋』なんだろう?」

「さあ? 俺は『ユートピア』の用心棒で、PMC登録をした『ただの市民』のつもりやけど?」

「まったく……ところで他の三人は?」

「カミサマと山田くんはふたりとも本業の方で今日は予定入っているって言ってたわ。魔魅子ちゃんはご家庭の事情、らしいで」

 自ら入れた紅茶に思う存分砂糖を注ぎながら千葉が答える。『Occult Ludic Company』の構成員は合計七人であり、そのうちの三人がミーティングを欠席していた。基本的には『Occult Ludic Company』を専業にしている者の方が少ないため欠席者が出ることも理解できるのだが。

「定例ミーティングなのに休み? 意味がわからんな」

 綿奈部は元々顰めていた左目をさらに細める。前髪で隠れている右目もおそらくとんでもない形相になっていることは想像に易い。東雲も言葉にはしないものの綿奈部の意見には同感だった。

「まあまあ、本業優先はしゃあないやろ」

「それにしてもだな……」

 綿奈部はさらに何か言いたげにするもののここに居ない人間の話をしても仕方ないと思ったのか口を噤んだ。

「今は『うち』全体で動いてる任務もないし特に支障はないからええねん……ところで、祥ちゃんの方はどれくらいで片付きそうなん?」

 東雲は目の前のティーカップをゆっくり持ち上げて縁に口を付けようかというところで千葉の問いに動きを止め、曖昧な笑みを浮かべる。

「暗中模索、という言葉がぴったりかもね。決定的な証拠に欠けるために、なんとも動きづらい」

「ふうん……捜査方針が立ってない、ってことか」

「そうとも言うねえ――で、その方針を決めるために専門家に意見を貰おうかと思っていてね」

 そう言い終えたところでようやく紅茶を口の中に含むことに成功したが、淹れたてであるが故に思ったよりも量を入れることができなかった。少量の液体から茶葉の豊かな香りを感じ取り、一旦はそこで満足しておくことにする。東雲はティーカップをソーサーの上へ置くと、隣で同じく熱々の紅茶に苦戦している真理愛に視線を向けた。

「アヴェくん、人は妊娠をすればおよそ十ヶ月ほど胎児を体に宿すことになるが――妊娠を隠すというのは可能なのかな」

「あっ、専門家って私のことですか! ええー……そうですねえ」

 東雲の視線に気づいていなかったらしい真理愛は慌ててティーカップをソーサーに置くと、東雲の方へ改まった様子で向き直った。

「元から体型がふくよかな方であれば妊娠が気づかれにくいことは多いですね……東雲さんは新生児の死体遺棄事件などに立ち会ったことは?」

「……悲しいことに、あるね」

「そうですか……先程ふくよかな方は気づかれにくいとお答えしましたが、東雲さんもご存知かもしれませんが大体は『気づかれる状況にない』が正解ですね。家族と疎遠にしていたり、故意に隠したりということばかりで十ヶ月間本当の意味で『気づかれない』という状況はほとんどないと思います」

「では、母体となる人間が最後まで気づかないという状況は?」

「その状況も、よほど本人の認知能力や判断力に問題がなければ、少ないと思います」

「だよねえ……ちなみに現代医学を以てして検診で妊娠に気づけない可能性は?」

「病院での検診であればほとんどないですね。ヤブなら知りませんが、通常の産婦人科であれば診断ミスはほぼないかと」

「それもそうだよねえ……」

 東雲は困った表情を隠さないまま親指と人差し指で眉間を揉んだ。

 資料によれば件の『スミレ』が検診を受けていたのはヤブでもなんでもない一般的な総合病院であり、その中に設置されている産婦人科でも検診を受けている。結果の偽装や取り違いがなければ、『スミレ』はここ一ヶ月の間で妊娠から出産までを経たことになる。ありえない現象だ。

「……ちなみに、一ヶ月で母体の中で十ヶ月並みに育ったり……」

「可能性はゼロに近いと思いますが……」

 東雲は再び「だよねえ」と言いかけて、やめた。わかっていたことだった。当然のことを逐一確認することの重要性はわかっているものの、それでもあまりに馬鹿げた質問だと思った。

 自分に対する呆れの混じった溜め息が思わず漏れ出た。紅茶の温度は少しは低くなっただろうと思い再びカップに口を付けるが、中身はまだまだ熱く、少量をそっと含むことしかできなかった。

 いつもはにこにこと機嫌の良い東雲の珍しく不服そうな表情を見た千葉がニヤニヤと笑い、頬杖をついて揶揄うように言う。

「優秀な刑事さんをここまで悩ませるのはどんな事件なんやろなあ」

「君も……楽しそうだね。僕の元上司も楽しそうだったよ。ホラーやオカルトは得意だろうと言われたんだ……別に僕の専売特許じゃあないんだが」

「オカルト……?」

 千葉の顔からふざけた表情が消え失せて背筋を伸ばして東雲を見つめ直す。彫りの深い顔の眼窩に埋まった目は眩しいほどに輝きを放ちながら、東雲に強い光を浴びせる。

「もしかして、創愛絡みなんか……?」

「まだなんとも。そうなると君たちにも出番が来るかもね――普通ではありえないことが起こっている、とだけご報告いたしますよ、社長」

 次は東雲が千葉を揶揄うように絵画のように美しく真っ白な顔に笑みを作った。


 妙に体が重く、目覚めの悪い朝だった。泥水の中に浸かっているかのごとく、身を起こすのに苦労した。

 いつも焚いている香の匂いがひどく鼻を刺激し、過敏になっているのがわかった。吐き気を催すほどの気分の悪さだった。やはり体調が悪いのだろうと思った。気に入っているからこそ焚いている香であるのに、そんなことになるのは初めての経験だった。香はすぐに消した。

 何も食べる気力も起きなかったが、今日は例の産婦人科への聴取を予定している。何も食べない方が体に毒だと思い、作り置きしていたおかずと少量の冷凍ご飯を温めるが、その匂いがさらに吐き気を加速させ、結果的に嘔吐した。起床直後食事前の嘔吐だったため固形物がほとんどない吐瀉物だったことに何故か安堵した。

 ――これはまずい。このままでは更なる支障が出ることになりそうだ。

 例の産婦人科には別日に来訪することに予定を変更し、だるい体を引き摺りながら自身のかかりつけ医へ向かった。

 症状の説明をすると診察台に寝かされて触診を受ける。かかりつけ医の表情が明らかに青ざめていっているのを目撃してしまってからは、どんな病を患ったのか急速に不安を煽られた。

「東雲さん、とりあえずエコーしましょうか」

 エコーはとりあえずするものなのか、専門家ではないため判断ができなかったが言われるがまま検査を受ける。シャツを胸の位置まで捲ると「ひんやりしますよお」という合図とともに確かに冷たすぎるジェルが容赦なく塗りたくられ、やがて機器を押し当てられた。

 医者はこれ以上青ざめないだろうというくらいまで血の気を失くした顔で何度も何度も腹部を機器で確認している。やがて意を決した表情に変えるとエコーのモニターをこちらにも見えるように近づけてきた。

「――東雲さん、このあたり見えますか」

 これだけ医学が発達してもエコー検査はまだ白黒のままらしい。医者が白黒のモニター上で指し示したのは白い楕円型をした何かだ。腹部の容量に対して随分大きいように見えた。

「白い……なんですか、これは」

「医学的な表現では『腫瘍』と言います」

 妙に引っ掛かる物の言い方に思わず医者を問い詰めるような口調になってしまう。

「……癌、ということですか……」

「――いいえ、これは……」

 その後に続く言葉のおかげで、医者が何故これほどまでに青ざめていたのか理解してしまった。

「これは、『胎児』ですね」

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