東雲編・4

 白色の照明は確かに室内を明るく照らしているのにそこはかとなく暗く見えるのはこのビルが古いからか、それとも、ソファに脱力して座っている女から発せられる陰気のせいか。何度も脱色して傷みきった毛をまとめることもせずあちこちに跳ねさせたまま、女は力のない目でぼんやりとこちらを見上げた。その動きも錆びついたブリキのようなぎこちない所作だ。際立って美人というわけでもなく、化粧もされていない顔からは血の気がまったく感じられない。肌の張りからまだ若いだろうことがわかるのに表情のせいで実年齢よりも遥かに老けて見えた。

「『スミレ』さん、ですよね」

 女はほんの少し唇を開いて「はい」と返事をしたように見えたが、その声は東雲にぎりぎり届くか届かないかくらいに小さかった。

「呼び出しに応じていただきありがとうございます。僕は東雲祥貴と申します」

「……聞いています、警察の人って……」

 東雲が資料から感じていたほど、心神耗弱状態に置かれているようには思えなかった。確かに生気は感じられず弱っている様子ではあるが、受け答えは思いの外はっきりとしている。

 ――それとも、逆なのか。

 通常では信じられない事象に遭遇してしまったからこそ、普段通りに振る舞おうとしている可能性はある。実際、現場に放置されていた新生児は謎の物体に包まれていた。破壊不可能の謎の被膜。女が実際に『それ』を産み落としたかどうかに関わらず、第一発見者である『スミレ』の気が未だ動転しているのであれば、過剰適応が発生していることも不思議ではない。

「……実はこの店には何度か訪れたことがあるんですよ。客としてではなく、所謂『お巡りさん』の業務としてですが。でもなかなか他の従業員の方とお話する機会はないので――お会いするのは初めてですよね」

 東雲は扉のそばからやっと離れて『スミレ』の目の前に置かれたひとり掛けソファに腰を下ろす。東雲の動きを追うように女も首をぎこちなく動かし、そして口元にだけ笑みを浮かべる。しかし、それもギギギッと音を立てているように不恰好な微笑みだ。

「はい……でも、あなたのことは、みんなから聞いたことがあります……」

「みんな?」

「他のスタッフ……東雲さんが来るたびに、みんな噂するんです……直接会わなくても控室から待合は確認できるから……」

「そうですか――悪口じゃなければ良いんですが」

 東雲がおどけながら話せばそれに呼応するように女も「ふふ」と笑い声を弱々しく漏らした。

「東雲さんにとっては悪口もある、かも……でも大体は綺麗な人だとか、イケメンだとか、そんな話ですよ……噂通りの人が来て、驚きました」

「期待に応えられているようで安心しました」

 垂れかけた前髪を耳の後ろに撫でつけながら東雲が笑うと、『スミレ』は一瞬だけ表情を失くした、ように見えた。あまりに一瞬のことであったため、己の見間違いかと東雲は不思議な違和感を抱く。

 目の前の女は挙動不審ではあった。妙な顔を見せるのも本来であれば妙なことではない。東雲は違和感を一旦は無視することにして微笑みを浮かべたまま『スミレ』の力のない目を覗き込んだ。

「――『スミレ』さん。あなたはここに呼び出されている理由をわかっているという前提でお話を進めますが、よろしいですか」

「理由――『赤ちゃん』……」

「そうです。単刀直入にお伺いします。あの『赤ちゃん』はあなたがあそこで産んだのですか」

 女の瞳は明らかに動揺で揺れ動いていた。痙攣でも起こしているのかと思えるほどの身震いまでし始めた。東雲は表情を変えないまま、女の様子を観察していた。

「わ、わ、わ――わからないっ……わからないんです……私かもしれない、でも、でも」

「でも?」

「だって、私、私……妊娠なんか、してなかった、本番も何も……避妊のために薬も飲んでた……!」

「ええ、検診の記録では確かに――あなたは妊娠していたことを誤魔化したりしていませんか?」

「そそ、そっ、そんなっ、そんなことできるわけ……!」

「本当は妊娠をしていたが働き続けるために嘘をついていたということはありませんか?」

「だっ、だから! そんなことっ、できないって言ってるでしょ! あんなの!」

 女は取り乱していた。頭髪を毟らんばかりに両手で頭を強く何度も掻き上げていた。弱々しかった声に俄かに力がこもり、己の潔白を証明しようとしている。

 そのように、女は取り乱していた。しかし東雲の目から己の視線を逸らすことはなかった。否定をしながらも縋る思いの切実な女の目。

「――わかりました。嘘はついていないという前提で話しましょう」

「だから! あんなの誤魔化せないって……!」

「ええ。でも僕はあなたの『私かもしれない』という言葉がどうしても引っかかるんです。記憶がないということですか?」

「記憶、記憶……?」

「はい。あなたはあそこで『出産』をした記憶がない、ということですか?」

 女は頭を一生懸命掻き毟っていた両手をぴたりと止める。目を見開いたまま、東雲の微笑を見上げたまま、女はもう一度「記憶」と呟く。

「記憶にない、ということですか」

「記憶……記憶……」

「『赤ちゃん』を産んだ記憶です」

「――『赤ちゃん』、は、『居た』」

「……『居た』?」

 そこでようやく東雲は微笑みを崩して綺麗に整えられた眉を怪訝に寄せる。

「『居た』ということは、あなたは『出産』はしていない?」

「そそ、そっ、そうだったら、よっ、よかったのに!」

「よかったのに? ということはやはりあの『赤ちゃん』はあなたの――」

「私の子どもじゃないっ!」

 女の怒声は部屋全体をビリビリと揺るがした。女はそれまでの弱々しい様子から大変貌を遂げ、全身を怒りに包んで怒鳴り続ける。

「私の子どもじゃない! あんなの! 私は! 私はァッ!」

「しかしあなたは『そうだったらよかったのに』と言った。『出産』したことは確かですか」

「違うっ、違う! お腹に『居た』の! いつの間にかっ、いつの間にかあそこに『居た』! 私の子どもじゃない!」

「――腹の中に『居た』のに『私』の子どもじゃない……?」

「体調がおかしかったの! でもほんの三日くらいのことでっ……気持ち悪くて、でも出勤しなきゃいけないし、出勤したらっ……ここに来たらっ、いつの間にかっ……」

 プログラムを強制的にシャットダウンされた機械がうんともすんとも言わなくなるのと同じだった。女の心は様々な負荷に耐えられなかったのだろう、すうっと白目を剥くとそのまま瞼を閉じ、体を仰け反らせてソファへ倒れ込んだ。

「『スミレ』さん!」

 東雲祥貴は咄嗟に立ち上がり女の呼吸や脈を確認する、と同時に部屋へ受付の男が飛び込んできた。

「ああ……やっぱり――」

 呼吸、脈は荒いものの、しっかり生きている。東雲が救急搬送しようとデバイスを起動させようかというところで男が首を振りながら「待て」と女の方へ近寄って来る。

「祥貴、大丈夫だ。救急車は呼ばなくていい」

「……それは信用していい言葉か?」

 東雲は半ば男を睨むように見上げる。男はそれに怯むことなく頷いて、女を両腕に抱えた。

「ああ――しばらく休ませておけば目を覚ます」

「――何度かこういうことが起きているんですか?」

「そう……警察が話を聞きに来るたびにこれだよ。コイツに金もないからしばらく病院にも入れられねえってさ」

「そういう、ことか……迷惑をかけてすまない」

「ホントだぜ……何度も同じこと聞きやがって」

「――証言は変化することもありますから……だが、すまない」

 控室に休ませに行くのだろう。男は女を抱えたまま器用に鉄の扉を開き、乾いた笑い声を漏らす。

「謝るくらいならさっさと解決してくれや、お巡りさん」

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