東雲編・3

 四番のサインが灯った扉を開くと室内は真っ暗だった。戸のすぐそばに設置された小さなレバー式のアナログスイッチを人差し指で弾き上げると暖色の照明が室内を照らし出した。薄い間仕切りで部屋は区分けされている。そのうちのひとつはシャワーが付いており、もう一方は簡素な寝台と容量のそんなに大きくない収納棚が設置されているのみだった。現場は寝台の方ではなくシャワーの設置された場所だった。透明なナイロン製のカーテンはシャワー室を乾燥、あるいは部屋全体を加湿するために開けられた状態で几帳面にまとめられている。受付の男の言っていた通り現場は綺麗に片付けられ、その後使用された形跡もなく、水滴ひとつすら残っていなかった。

 左腕に巻いたデバイスを起動させ、警察署でインストールした事件資料ファイルを呼び出す。東雲は腕をゆっくり上下させるとデバイスから発せられている光でシャワー室全体を照らしつけた。数秒も経たないうちにシャワー室全体にホログラムによって通報当時の現場の状況が再現される。

「――これは、なかなか……」

 東雲の声が僅かに震えた。シャワーの真下に存在感を放つ真っ赤の楕円型の物体。捜査資料の通りそれは半透明の赤色の被膜によって覆われたもので、中には生まれて間もない赤子の姿があった。中身の赤ん坊自体は痛みも苦痛も感じていなさそうな表情で、赤い被膜に覆われていることを除けば健やかな寝顔そのものだった。被膜自体も赤であるが、被膜全体が透明の液体に混じって赤い液体に塗れていることがわかった。ここで『出産』が起こったのだとすれば説明はつく。重要参考人の体液と推察することは容易だった。

 東雲の足元にもうっすらとホログラムが浮かび上がっている。自分より一回りも二回りも小さな足跡が左右によれながら寝台の方へ向かっているのが記録されている。東雲はシャワー室から出ると、デバイスの光を寝台の設置された場所全体に向ける。足跡はふらふらと揺れながら進んでいくが、部屋の奥で止まっている。そしてそこには水溜まりがあったことが記録されていた。


「再度確認したい事項があるのですが」

「はいはい」

「この店舗では女性には婦人科の定期検診をしていましたよね」

「そうじゃないと営業許可がおりねえだろ。当然『スミレ』にも受けさせていたし、検診結果も警察に提出済みだろうが」

「…………」

 東雲は再び受付の男と顔を突き合わせていた。店舗は営業時間ではあるものの、待合に客はいなかった。東雲がしたこの質問はおそらく何度も受けたのだろう。男は少し呆れた様子で唇を曲げながら答える。

「……僕は勿論あなたのことを信用した上で質問するのですが」

「その前置きが一番信用を損ねてるぜ、祥貴」

「申し訳ない……ですが、念の為確認をさせてください。この検査結果を偽装したり、他人のものにすり替えたり……そういうことは行われていないですよね」

「ないね。こっちとしても余計なトラブルは避けたいんだ。よそは知らんが、うちのグループは従業員に提携病院で必ず定期検診を受けさせていたし、その結果は直接店舗に届くからな。個人情報保護の観点で具体的な内容はわからないようになっているが、勤務に支障のある疾病や問題がある場合は面談をするように勧告を受ける――少なくともここ一ヶ月以内では面談が必要になるような病気や『妊娠』はなかったってことだよ、お巡りさん」

 受付の男も自らその事実を物語りながら不思議そうな表情を浮かべていた。

 現場の状況からして『スミレ』という女性があの物体を『出産』しただろうことはわかるのに、一ヶ月以内の検診では妊娠している様子はなかった。だが、あの物体の中に存在する赤ん坊は明らかに十月十日を母体の中で過ごしたとわかるほどに大きく育っている。通常であれば検診結果の偽装を疑うのだが、検診方法や病院提携の説明を細かく受けるほどに、検査結果には問題がないという確信を深めるしかなくなる。病院側が検査結果を偽装できる可能性もあるが――それをするメリットが見当たらない。

「どちらにせよ、店側は潔白だと主張するわけですね」

「そうする他ないだろ」

「当然の話ではあるか……病院側へはまたアポイントを取って話を聞きにいきますが」

「それはご勝手にどうぞ。俺たちが証明できるもんは全部出してるからよ――それで? いつまでアイツを待たせるつもりだよ」

 男は自分の背中にある扉を親指でくいくいと指し示す。事務所に『スミレ』を待機させているということだろう。

「辛気臭くて仕方ねえから早く帰したいのに、オニイサン、話が長すぎるぜ」

 つんけんした物言いだが、表情が再び哀れみを帯びたものになっていた。東雲は付き合いの短くない目の前の男のこういう人間臭いところを好ましく思っていた。そして心の底から思うのだ。

「それも、申し訳ない」

 東雲祥貴は美しく整えられた眉を困ったように下げ、ほんの少しだけ頭を下げる。薄暗い照明にキラキラと輝く長い睫毛は青灰の瞳に影を落とす。

 男は何か言いたげにするがそれを飲み込んで、溜め息をひとつ溢すだけに留めた。

「――そう言うなら早く中に入ってくれや」

「ああ……そうさせてもらうよ」

 東雲は再び頭を少し下げると男の背後に回りこみ、客室とは違って鉄で作られた扉をゆっくりと開けた。

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