第11話 母
マーガレットはシャルルと一緒に両親の部屋の前にいた。
扉を開けようとする手が震える。
両親の部屋に入るのは随分と久しぶりのことだった。
まだ幼かった頃、眠れなかったときに両親の部屋を訪ねたことがあった。二人ともこころよく迎え入れてくれて、川の字になって寝たこともある。だけど母が双子を妊娠してからは、それもなくなった。
代わりに兄の部屋に行くようになって、兄はしょうがないなーと苦笑しながらも一緒に寝てくれた。だけどその度に、「そろそろお姉ちゃんになるんだからね。一人で寝られるようにしないとね」と口癖のように言っていたっけ。弟妹が産まれたら兄の部屋にもいかなくなってしまったけれど。
マーガレットの背中を押すように、シャルルが扉を開けてくれた。
広い室内、天蓋付きのベッドに誰かが寝ているのがわかる。そのベッドの脇には、壮年の男性がいる。燈色の髪に、黄緑色の瞳の男性は、マーガレットの父だ。
扉の開く音に気づいたのだろう、父が顔を上げた。
「マーガレット。それにウィンター公爵も来ていただき感謝する」
最後に父の顔を見たのは、縁談を告げられた時だっただろうか。その後は結婚式の準備で忙しくて、まともに父の顔を見ていなかった。
だからやつれた父の双眸を見て、マーガレットは衝撃を受けていた。
いつも公務などで忙しくて家を空けることが多い父だったけれど、それでもここまで疲れた顔を見たのは産まれて初めてのことだ。
「会いに来てくれたんだな。母さんも、マーガレットに会いたがっているんだ。もっと近くに来てくれないか?」
部屋の入口で立ち止まっていたマーガレットは、父の呼び声でハッと正気に返り、おどおどと歩きだす。
一歩ずつ、恐るおそる踏み出した足で近寄ったベッドには、桜色の髪の女性が寝ていた。
母は目を閉じて、浅く呼吸をしている。熱があるのか顔は少し赤くも青白くも見えた。
(……本当に、先がないというの……?)
最後に見た母の顔を思い浮かべようとしたが、うまく思い出せない。
『あなたの幸せを祈っているわ』
そう笑顔を浮かべていたはずなのに――。
「私は少し席を外す。マーガレット、傍にいてあげてくれ」
「はい。わかりました」
マーガレットの返答に父は何か言いたげな顔をしたものの、そのまま部屋から出て行った。
ベッドの脇の棚に、桶に入った水と替えのタオルがあった。
それをぼんやり眺めていると、シャルルが口を開いた。
「タオルを替えてあげるといいよ」
マーガレットはいままで誰かの看病をしたことがなかった。前世でも今世でも、機会がなかったから当然かもしれないけれど。
このまま母が起きるのを待っているのも手持ち無沙汰になるだろう。
替えのタオルを水に浸して絞る。そっと、母の額のタオルと交換する。
こうしてあげるとひんやりと気持ちいいということを、マーガレットは知っている。
起こさないように気をつけていたはずなのに、長い睫毛を震わせて母が目を開いた。
ぼんやりと天蓋を見ていた母だったけれど、ベッド脇の気配に気づいたのだろう。カナリア色の瞳が動き、マーガレットの姿を捉える。その瞳が大きく見開かれた。
「……マーガレット」
掠れた声に、マーガレットは知らずの内に身を固くした。
その肩にシャルルの手が置かれる。それにより気持ちは少し和らいだ。
「まさか、これは夢なのかしら。もう会えないと思っていたのに。……マーガレット、近くにきてちょうだい」
ベッドに更に近寄ると、母の手が頬に伸びてきた。
母の手はこんなにもざらりとしていただろうか。
「夢じゃないのね。本当に、マーガレット、なのね」
「……はい。お母様」
熱にうなされて朦朧としているはずなのに、その目はしっかりとマーガレットを見つめている。
まるで夢じゃないのを再確認するように、母の手が優しく頬を撫でる。その手は温かかった。
「ねえ、マーガレット。ずっと聞きたいことがあったの」
躊躇うような母の声。それでも絞り出すように、言葉を吐きだした。
「あなたは、この家に産まれて幸せだった?」
「……っ」
言葉に詰まる。
「……そうよね」
母の唇が震えて、言葉を紡いでいく。
「……あなたが嫁いでから、ずっと考えていたの。私の選択は、正しかったのか。あなたは本当に幸せになれるのか。……本当なら幸せにするのは母である私の役目のはずなのに」
「……」
「だけど私は……いいえ、私たちは失敗してしまったの。五歳の頃、部屋に閉じこもったあなたと、どう接すればいいのかがわからずに、時間が解決するように祈ってしまった」
思えばそれが間違いだった――。
弱々しい声で、母は話を続けた。
「こうして病に罹ってから気づいても、もう遅いのにね。――あの時、
彼?
「本当に心の底からあなたのことを思っているのなら、もっと言葉や行動で示してあげなければいけなかったのよね……。それができなかった時点で、私は親失格だわ。……いままでごめんね、マーガレット。あなたのことを気にかけてあげられなくって。幸せにしてあげられなくって」
母の言葉を上手く飲み込めない。
戸惑うマーガレットの目元の何かを、母の指が拭う。
「愛しているわ、マーガレット」
愛している。
まさか、その言葉を母の口から聞くことになるとは思わなかった。
愛している。それは、本当なのだろうか
双子が生まれてから、両親や兄は双子につきっきりになって、あまりマーガレットを気にかけてくれなくなった。だから前世の二の舞にならなくてもいいように、傷つきたくなかったから壁を作って――それで――。
「……そっか……」
気づいてしまった。
前世の小春は、家に居場所がなかった。だから決めつけてしまったんだ。
新しい家族も、前世と同じように自分に対して愛情なんて抱くわけがないと。
だから自ら壁を作って、閉じこもってしまった。
本当は、愛されていたのに。家族を信じることができなかった。
「……ごめんなさい。お母様。私、嫌われていると思って……」
「あら、娘を嫌いになる母親がどこにいるというの? ……あなたに不信感を抱かせたのは親である私の失態よ。だから謝らないで、泣き虫さん」
母の言葉で、マーガレットは自分が泣いていることに気づいた。
ポロポロと涙を流すマーガレットの雫を拭うように、母が指を伸ばす。その温かい手を両手で包むように持つ。
いまになって母の愛情に気づいても遅いのかもしれない。なんの病気かはわからないけれど、病に侵されている母の先は長くないという。
(もっと早くに気づくことができていたらよかったのに)
『あなたの幸せを祈っているわ』
あの時の母の表情を、今更ながら思い出す。
あの時の母は優しい笑顔をしていた。本当に心の底から、マーガレットの幸せを祈ってくれていたって、ちゃんと顔を見ることができたら気づいたはずなのに。
ずっと俯いていたから、気づくことができなかったのだ。
「マーガレット。あなたは幸せに生きてね」
思わず頭を振ってしまう。せめて母がこのまま生きてくれてれば、いままでの分の埋め合わせができたかもしれない。
だけどもう先が短い母を見送ることしかできないなんて。
このままで、どうしたら幸せになれるのだろうか。
「……私は、幸せだったわよ」
「……嘘よ。だって、私は酷い娘で」
「そんなことないわ。酷い娘なんて思ったこと一度もないもの。だってさっきも言ったでしょう。あなたのことを愛しているって。私は、あなたを産むことができて、幸せだったわ。アントニオもトーマスも、リリアーナだってそう。お父様と出会えたのもね」
熱で朦朧としているはずなのに、母の瞳は生き生きとしているようだった。
「マーガレット。ウィンター公爵は良い人よ。だから、あなたは絶対に幸せになれるわ……」
母の手から力が抜けたのがわかった。
さっきまで話していた母は目を閉じている。
「お母様!」
遅れて、寝息が聞こえてくる。
最悪な事態を想像したマーガレットは静かに安堵の息を吐く。
(……私はいままで誤解していたのね)
もっと早く気づけていたら。あの時壁なんて作らなければ。
もしもあの時、家族が笑い合っている食堂の扉を開けて中に入ることができていたら、何かが変わっていたのだろうか――。
そんな、後悔。
(でも、お母様が言っていたものね。幸せに生きてって)
幼い頃。マーガレットが熱で寝込んでいた時のことを思い出す。
あの時は熱でうなされていたからただの夢だと思い込んでいたけれど、もしかしたらあれは夢ではなかったのかもしれない。
桜色の髪に、カナリア色の瞳。
あの日、マーガレットの額のタオルを替えてくれたのは、もしかしたら母だったのかもしれない。
だって、あの手の温もりは、いまもまだ変わっていないのだから。
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