第10話 花弁
マーガレットが馬車に揺られていたのは、手紙を受け取った二日後のこと。
向かう先はスプリング公爵邸だ。
ワープゲートを通り抜けたマーガレットは、来た時とは違って吐き気を感じていなかった。シャルルから事前に飲むようにと渡されていた薬のおかげだろう。どうやらゲート酔いを和らげる効果があるらしい。
「気分はどうだい?」
「問題ないです。すぐにでも出発できます」
「そうか。だけど我慢だけはしないで。もし何かあったらいつでも言ってくれ」
シャルルの言葉に頷く。
体調を崩した日から思っていたことだけれど、彼は少し心配症なのかもしれない。前世の家族は小春が体調を崩していても知らない顔をしていたから、なんだか新鮮だ。
もし前世の家族もシャルルみたいに心配してくれいてたら……いや、もう得られないことを望んでも意味はない。
今回は休憩することなく、そのままスプリング邸に向かうことになった。
窓の外に広がっているのは、そこまで馴染みのない光景だ。
スプリング領は桜の咲く季節は観光地として人でごった返しているけれど、桜が散ってしまうと人の数も少なくなる。だけどその分、人々が忙しなく過ぎた日を思い浮かべながらゆったりと過ごしているようにも見える。
すっかり桜が散ってしまった木は、少し寂しさを覚える。あんなに綺麗な花を咲かせていたのに、いまではすっかり枝にもうしわけ程度に緑を乗せているだけ。
窓の外を眺めていると、「そういえば」とシャルルが口を開いた。
「マーガレットは、地面に落ちる前の桜の花弁を掴んだことはあるかい?」
「桜の花弁を?」
「ああ。こんな言い伝えを聞いたことがあるのだけれど――。桜の花弁が地面に落ちる前に掴むと、願いが叶って幸せになるって」
「幸せに……」
確かにそんな話を幼い頃に聞いたことがある。あれは五歳の頃だっただろうか。
母から教えられて、マーガレットは庭園の桜の木の下で、必死に花弁を掴もうと手を伸ばしていた。
まだ、弟妹が産まれる前だったと思う。
妹なのか弟なのかその時はわかっていなかったけれど、新しい家族の誕生を心待ちにしていた。
ずっとずっと幸せに暮らせますように。
桜の花弁を掴むことができたら、そう願うつもりだった。
風が吹いて落ちてきた花弁に必死に手を伸ばして、そして――。
その花弁を、掴むことはできたのだろうか?
記憶はおぼろげで、よく覚えていない。
「オレは、結婚式の前に掴むことに成功したんだ。だからもしマーガレットが花弁を掴むことができなくても、オレが代わりに掴むから心配しなくてもいい」
「代わりに?」
ズキッと、頭の片隅が痛んだ。
なにか忘れていた記憶の片鱗に触れたような、そんな痛みだ。
前世の日本でも桜は咲いていた。空から落ちてきた桜の花弁に必死に手を伸ばして――。そうだ。あの時も幸せになりたいと願っていたんだっけ。
だけどそれは叶わなかった。あの家にマーガレットの居場所はなかった。だからスプリング家でも、すぐに諦めることができたのだ。
これから向かうのは、今世で居場所のなかったスプリング邸だ。
前世とは違って、嫌悪や蔑みの視線を向けられることこそなかったけれど、同時に幸せと呼べるものもなかった。
だから、きっとマーガレットはまだ桜の花弁を掴めていない。
◇
スプリング公爵邸に着くと、すぐに応接室に案内された。
応接室には、兄であるアントニオ・スプリングが待っていた。
マーガレットと同じ燈色の髪に、理知的なカナリア色の瞳の青年だ。歳はマーガレットよりも三つほど上であり、十六の頃から父の傍で領地経営や事業を学んでいる。
根が真面目で優秀なので、次期スプリング家は安泰だと言われている。そのため、まだ婚約者がいないことから、夜会などの社交の場で令嬢から人気があるらしい。
「久しぶりだね、マーガレット。元気にしていたかな?」
「……はい」
その暖かな笑みが自分に向けられたのは久しぶりだ。
アントニオとは、後継者教育や成人してから事業などで家を空けることが多かったから、家でも顔を合わせることは少なかった。家族が揃う夕飯の席では会えたかもしれないけれど、マーガレットは基本的に自分の部屋で食事を摂っていた。他の家族もそれが当たり前で、マーガレットが食卓に居なくてもあまり気にしていなかったはずだ。
「公爵閣下もお越しくださり、ありがとうございます」
「マーガレットのためだからな」
シャルルは口元に笑みを浮かべているが、その瞳は目の前にいるアントニオを見定めているようでもある。
次期公爵のアントニオとは、今後も関りがあるからだろうか。その力量を推し量っているのかもしれない。
「それで、マーガレット。母上のことなんだけれど、できればすぐにでも会ってほしいんだ」
「ここまでゲートを通り、馬車で時間かけてやってきたんだぞ。休憩をする時間もないのかい?」
「確かに、そうなのですが。……実は、ずっと母上が寝言でマーガレットの名前を呼んでいるんです。だから、できればすぐにでも会ってほしくって……」
どこか苦しそうにそう言うアントニオが、カナリア色の瞳でマーガレットに訴える。
その真剣な瞳には見覚えがあった。
幼い頃、部屋に引きこもるようになったマーガレットの許に、彼は同じような瞳で訪ねてきたことがある。
『マーガレット。どうして、夕食の席に来ないんだい? よかったら、理由をお兄ちゃんに聞かせてくれないか? 母上も父上も心配しているんだよ。トーマスやリリアーナも姉に会いたいだろうし……』
『もしなにか不満があれば、僕に話してほしい。僕はマーガレットのお兄ちゃんなんだから』
その言葉を聞いて心が揺れたりもした。だけどマーガレットは答えなかった。
アントニオは少し悲し気な瞳をしながらも、部屋を後にした。その背中に手を伸ばしたかったが、それをマーガレットは諦めた。
その後、双子が立って歩けるようになった頃だっただろうか。
ちょっとした寂しさから、夕食の時間に食堂を覗きに行ったことがある。
そこにはまさに家族団らんと呼べる仲の良い、笑顔に包まれた光景が広がっていた。弟妹のやんちゃに笑う兄や父の笑顔。にこやかに注意する母。
そこにマーガレットが入り込む余地はなくて、すぐに背を向けて逃げ出したのだ。
「マーガレット」
シャルルの呼び声に顔を上げる。
「どうしたい?」
「……私は……」
熱に浮かされた母が自分の名前を呼んでいたなんて、すぐに信じられない。
だけど、ここまできたのにまた逃げ出してもいいのだろうか?
「……会いに行きます」
マーガレットの返答に、アントニオは救われたような笑顔を見せていた。
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