第3話 初夜の葛藤


 まるでみずみずしく実ったみかんのような、しなやかな燈色の髪に軽く触れる。その毛先に唇を寄せそうになるのをシャルルは全力で堪えた。せっかくスヤスヤと寝息をたてているマーガレットを起こしたくなかったからだ。


(理性がなくなりそうだ)


 結婚式で顔を合わせた時、ずっと求めていた存在とやっと近づくことができたと思った。

 みかんのような燈色の髪に、カナリア色の瞳。前世の彼女と見た目こそ違うものの、魂の匂いまでは誤魔化すことはできない。

 誓いの言葉を口にするときも、指輪を交換するときも、それから誓いの口づけの時も――。


 触れるだけの口づけだったけれど、本当は彼女の唇を貪りたかった。

 隣で寝ている彼女の無防備な姿。きっといまならそのすべてを奪えるだろうけれど、彼女の本心を無視してそんなことをしてしまえば、あの女神に言われたように傲慢で自分の都合しか考えていないクソ男になってしまう。


 長い溜息が出る。

 とてもじゃないけれど、ぐっすりと眠れる気がしない。

 そもそも前世で神だったときは、睡眠なんて必要なかった。

 人間の体は面倒だ。睡眠をとらないと満足に動けなくなってしまう。


(あのクソ女神……おっと。女神サマに聞かれたら、神罰が下るかもな)


 目の前で亡くなった小春の魂を追いかけてこの異世界にやってきた時のことを遠い昔のことのように思い出す。

 この世界の女神クロリスは、他の世界から来た神のひとりである自分を、出会いがしらに攻撃してきたおかしな女神だった。



    ◆



「強引クソ男、滅!」


 目の前で亡くなった小春の魂を追いかけてこの世界にやってきた瞬間、蛇神は攻撃を受けた。

 目の前にいる桜色の美しい髪を持った、明らかに神だとわかるほど神々しい輝きをした女に。


「っ、な、オレは神だぞ!」

「わたくしは女神ですわっ。そもそも他所の世界に土足で入ってきた神もどきを追いだして何が悪いのですか!?」


 女神の言うことは最もである。別の世界と言えども神の世界には掟がある。日本は八百万の神というほど神の存在が多かったから忘れがちだけれど、本来なら神同士は相容れないものだ。特に異世界の神ならばなおのこと。


 だけど蛇神にはやむを得ない事情があった。

 幼い頃から見守り、やっと自分の許に来てくれそうだった花嫁――小春の魂を見つけなければいけない。だからこんなところで女神と喧嘩するわけにはいかない。


「小春の魂さえ連れて帰ることができるのであれば、この世界に手は出さないよ。だからそこをどいてくれ」

「それならなおさら聞いてあげられませんわぁ」


 女神の背後にさらに後光が差す。なんか力が増している。

 蛇神はこの世界の神ではない。だからこの女神と正面から戦えば負けるのは目に見えていた。

 少しでも隙を作るべく、話術に頼ることにした。


「どうして小春をこの世界に連れてきたんだ? 魂は同じ世界で輪廻転生するものだろう。それなのに横から奪い去るなんて禁忌なんじゃないのか?」

「……あの子は花たちに愛されている子でした。それなのに不憫な人生を送ってきた子。あの世界で彼女が幸せになれるとは思えません。だけどこの世界なら――わたくしの目が届くクロリス王国なら、幸せにしてあげられる! だから連れてきたのですわ」

「そうか。あんたも、小春のことを想ってくれるのか。……実はオレもなんだ」

「……あなたが?」


 明らかに不審げな視線だが、蛇神は気にしないで熱弁を振るった。


 「オレは小春の実家――菊文字家に代々祀られている神なんだ。まあ、あんたからしたらオレは神もどきかもしれないけどな」


 大昔に災厄を喰ったとされる神を祀っていた小さな神社が、代々菊文字家が住む屋敷の裏手にあった。

 だけど神の意識が薄れるとともに菊文字という由緒正しい名だけが残り、古びた神社のことなんて忘れ去られていた。

 その神社に祀られていた蛇神は、たまに麓に下りてきては人間の姿に化けて、人と関わることがあった。それは誰も参拝してくれない孤独を癒すための行為ではあったのだけれど、そこで蛇神は運命的な出逢いを果たす。


 誰よりも美しい魂を持った少女、菊文字小春。焦げ茶色の髪に、ぼんやりとした燈色の瞳をした大人しい見た目の少女。

 彼女は白い髪に金色の瞳の幼い子供の姿をした蛇神を目にして驚いていたものの、にっこりと笑顔で話しかけてきた。「一人は寂しかったの、お話ししてくれない?」そんな気楽な感じで。

 蛇神はその魂の美しさと共に、自分と同じ孤独を抱えていて、それでも愛らしい笑顔の彼女に惹かれた。それで将来、小春が大人になったら花嫁として迎えに行く約束をしたのだ。


 ――まあ、大きくなった彼女は蛇神との約束なんてすっかり忘れていて、なおかつあの時の眩かった笑顔は消えてしまっていたのだけれど。


「……なるほど。あなたも彼女の魂に惹かれたのですね。それも幼少期からストーカーするほど幼い子供にぞっこんになって、大きくなったら問答無用で連れ去って嫁入りさせるつもりだったと……」

「オレがいつそんなこと言ったんだ?」

「やはりあなたは傲慢で自分の都合しか考えていないクソ男ですわ! わたくしのいっちばん嫌いなタイプです! 昔あなたのような男に無理やり連れ去られて結婚させられそうになったことを思い出して、虫唾が走る……!」

「いや、オレは相手の気持ちを無視して無理矢理迫ったりなんてしな……チッ。なんて暴力的な女神なんだ!」


 問答無用に強風を起こしたり、なんの植物かわからない蔦で攻撃しようとしたり、拘束しようとしたりしてくる蔦から逃げたりしていたが、やはり別の世界の神とは相性が悪い。

 元の世界でももうほとんど忘れ去れられた神だということも関係しているのかもしれない。おそらくこの女神はこの世界で多く信仰されている神なのだろう。


 蛇神はあっという間に蔦に拘束されてしまった。


「元の世界にお帰りくださいませ」

「……そういうわけには、行かないんだよ!」


 蛇神の瞳が金色に光る。この世界に渡るのに、力のほとんどを使ってしまっていた。だが最後の力を振り絞ってでも、この女神を倒して、小春の魂を連れて帰る。その思いの強さの表れだ。

 蛇神の神通力は、瞳で相手の動きを止めることができる。力が強い頃なら長時間止められたけれど、いまは三秒が限界だろう。

 だけどそれだけあれば女神の隙をついて、異世界に紛れ込むことができる、はずだ。

 人の姿から白い蛇の姿に戻り、蔦から逃れてから女神の横を通り抜けようとした、その瞬間。


「わたくしも、なめられたものですわね」


 まだ一秒も経っていないのに女神が動いた。そして蛇を鷲掴みにする。


「あの子の魂を守るためならば、わたくしはこの力のすべてを持って、あなたを滅します。……いや、いまの力だとそこまでの威力は出せそうもありませんので、あなたの魂を封印させてもらいますわ」

「な、なにを……!?」

「あの子の魂はもう新しい家族のもとに向かっています。幸せになれる家族です。ですので心配はご無用です。あなたはしばらく眠っていなさい」


 そして蛇神は、最後の抵抗も虚しく女神に魂を封印されて、ついでに能力と記憶も封印されてしまった。


 だけどなんの手違いなのか、蛇神の魂は人間世界に転がり落ちて、人間に転生することになる。

 実は力を使い果たした女神が眠りについた際に、誤って魂を下界に落としてしまったからだったりするのだけれど。

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