第2話 前世の記憶
◆◇◆
『小春さんは僕が幸せにするよ』
それが前世の婚約者がよく口にしていた言葉だった。
歴史ある名家に生まれた小春は、一般家庭よりも裕福な暮らしをしていたと思う。
だけどその幸せを享受していたのは小春ではなく、三つ下の妹だった。
両親の愛情はすべて妹に注がれていて、小春はいないもののように扱われていた。
幼い頃は自分の境遇が理解できずに、愛情を求めて母に愛想を振りまいたりしたのだが、向けられたのは嫌悪の瞳だけ。家に関心があまりなかった父も小春に対しては淡白だった。
そんな小春に縁談が持ちかけられたのは、高等学校の卒業を間近に控えた時のこと。
繋がりのある他家の御曹司と、年齢が同じだからという理由で婚約することになったのだ。
初の顔合わせやその後の数回のデートでも、婚約者は小春に優しくしてくれた。
いままで優しくされたことのなかった小春は、彼にすっかり気を許してしまい、結婚したら幸せになれるのだと信じていた。
家に居場所がない小春にも、彼の隣に居場所ができるのだと。
だけどそれは一年も経たずに崩れてしまった。
その日、婚約者とデートをする約束をしていた小春は、待ち合わせ場所である彼の家の屋敷の近くにいた。待ちきれなくって約束の一時間前に着いたので近くで時間を潰していたら、屋敷の中から婚約者が顔を出した。
偶然を装って近づこうと手を上げた瞬間、小春の時間が止まった。
婚約者と一緒に、屋敷から小春の妹が出てきたのだ。
まだ高校生の彼女は、屈託のない笑顔で小春の婚約者の腕に抱き着いている。
まんざらでもなさそうな婚約者の様子に、小春は息をするのも忘れていた。
二人は互いに顔を見合わせると、その唇を重ね合わせて――。
『……なんで?』
『っ、小春さん』
『お姉ちゃん?』
小春が近づくと婚約者は少し狼狽えたが、すぐに落ちついて大きなため息を吐いた。妹はキョトンとした顔をしている。何がいけないのかわかっていないのかもしれない。
『……どうして』
『すまない、小春さん。僕は、あなたの妹のことを愛してしまったんだ』
『ごめんね、お姉ちゃん』
互いに顔を見合わせて微笑んでいる。
そこに、小春の居場所はなかった。
『約束したのに……っ! 嘘吐き!』
そう吐き捨てると、小春は走り出した。
ただ走って、走って――どこか遠くに行きたいからと走って――。
辿り着いたのが、森の中に忘れ去られた小さな神社だった――。
◇
馬車の揺れで目を覚ますと、ウィンター公爵邸に到着したらしい。
どうやら馬車に乗った後に、寝落ちしてしまったようだ
(いやな夢ね)
前世の記憶は、この世界に転生してからも度々マーガレットを苦しませる。
いつも同じような夢だ。婚約者に裏切られて、逃げ出して――それで――。
(あの後、どうしたんだっけ? 確か神社で不思議なことがあったような……)
思い出そうとするが、よく思い出せない。
ただひとつ確かなことは、あの日、小春は事故に遭って亡くなった。
そして、この世界にマーガレットとして転生した。
馬車の扉が開くと、先にシャルルが降りて行く。
マーガレットは差し出された手を取って、馬車から降りた。
「公爵邸に、ようこそ」
馬車の中で寝てしまったから詳しい外観まではわからないけれど、ウィンター公爵邸は雪のような白さだった。
ふと振り返った中庭には色とりどりの咲いている。春の花であるアネモネやガーベラ、チューリップ。それからオレンジ色のマーガレットだ。その色はマーガレットの髪色と同じ燈色だった。
シャルルにエスコートされて邸の扉を潜ると、そこには使用人が勢ぞろいしていた。
「みんなに紹介しよう。今日からこの邸の女主人となった、マーガレットだ」
よろしくお願いします、奥様。
各々からかけられる挨拶に、マーガレットは頭を下げる。
たくさんの使用人の中から、五十代ほどの侍女とまだ若いメイドが出てきた。
「侍女長のスーザンと、マーガレットの専属メイドのデイジーだ」
「よろしくお願いします、奥様」
スーザンは礼儀正しく腰を折った。
その傍でデイジーが慌てて頭を下げている。その様子から察するに新人なのだろうか。どこか慣れていないようにも見える。
「専属メイドは今後も増える予定だ。もし気に入ったメイドがいたら、いつでもスーザンに伝えると良い。それじゃあ、部屋まで案内を頼んだよ」
シャルルはスーザンに後を託すと、そのままどこかに行ってしまった。
「それでは、まずは奥様のお部屋に案内をさせていただきます」
「ありがとう」
◇
部屋に案内されると、軽食の有無を聞かれた。朝食は馬車を乗る前に軽く済ませたが昼は食べていない。もう夕方だというのに不思議とお腹は空いていなかった。
「まだ大丈夫です」
「かしこまりました。それと奥様は、この邸の女主人ですので、敬語は不要です」
スプリング邸にいた時は、身の回りの世話をしてくれるメイド以外の使用人と接することはほとんどなかった。
その時と同じ態度だったのだけれど、公爵夫人となったからには少し口調は改めた方がいいのかもしれない。
「……わかったわ」
「それでは夕食まで時間がございますが、どうされますか?」
「そうね……」
屋敷の中を案内してくれと頼んだらスーザンは顔色変えずに応じてくれそうだ。
だけど、できればあまり人と関わりたくない。ここは初めてきた場所だから。
俯きながら、マーガレットは答える。
「部屋でゆっくりしているわ」
部屋で軽い夕食を摂った後、マーガレットはお風呂に入れられた。
全身を綺麗に洗われて良い香りの香油を垂らされた湯船に入れられて、メイドたちになされるがまま身支度を終えると、隣の部屋に案内された。
「ここは?」
恐るおそるスーザンに訊ねると、彼女は顔色を変えることなく答えた。
「夫婦の寝室です」
「え?」
「どうぞ、お入りください」
戸惑っている暇もなく部屋の中に押し込められる。スーザンのうしろでデイジーが顔を赤くしながら指の隙間から覗いているのが気にかかったが、マーガレットは言われるがままベッドに腰かけた。
部屋の中にひとり取り残されたマーガレットは、ダブルベッドよりもはるかに広いベッドの縁に腰かけてぼんやりと扉を見つめる。
(そっか。結婚したのだから、夫婦は一緒に寝るのよね)
結婚式は昨日だったが、ウィンター公爵領に移動する準備があったから、そういえばアレはまだだった。
この世界に転生して、貴族令嬢として必要な教養は受けている。
だからマーガレットはこの後に起こるだろうことを予想していた。
(政略結婚だもの、初夜は大切だわ)
相手は家族殺しと噂される公爵だけれど、後継者もいないのに初夜に花嫁を殺すとは思えない。
しばらくぼんやりしていると、部屋の扉が開いてシャルルが入ってきた。
ネグリジェ姿のマーガレットを見て軽く目を見開いたが、すぐに穏やかな笑みに戻る。
「待たせて、すまないね」
「……いえ」
シャルルはマーガレットの隣に腰かける。
彼もお風呂を済ませてきたのか、石鹸の良い香りがした。
なんだかやけに胸がドキドキしてくる。
「じゃあ、寝ようか」
「……はい」
ゴクリと唾を飲み込むと、近くで衣擦れの音がした。
思わず目をギュッと瞑ってしまう。
結婚式の時みたいに、また口づけでもされて、それで――。
「どうしたんだい?」
「――え?」
目を開けると、シャルルはもう掛け布団を被って寝る体制になっていた。
「君も早く寝ると良い。移動で疲れているだろう」
「……はい、ですが今日は初夜ではないのですか?」
「んんッ。……ああ、そうだけど……。すまない、いまはまだ、無理なんだ」
「……わかりました」
いまはまだ。
その言葉にどんな意味が込められているのかはわからないけれど、シャルルが乗り気ではないことは分かった。もしかしたら彼には心から慕う別の想い人がいるのかもしれない。
それに物寂しさを覚えるが、マーガレットはやはり少し俯いたまま、彼との間にひとりぶんのスペースを空けて、就寝した。
移動で疲れていたのか眠気はすぐにやってきた。
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