第16話 不思議少女は人を助ける
とりあえず、俺的には満足のいく買い物ができた。
莉緒もどうやら満足しているらしい。本当に良かった。
水着ショップを出てしばらくは、俺の選ぶ水着のプレッシャーから解放された安堵感からか、莉緒はテンションが上がってニコニコと笑顔を見せてくれていた。
だけど、しばらくすると彼女は、油断してニコついてしまった自分を諌めにかかる。
……まぁた影のある表情に戻っちゃったなぁ。
もしかして、やっぱ明るい表情になったらダメだとでも思ってるのかな。
「あの……俺さ、さっきまでの莉緒の朗らかな表情も好きだよ?」
「……うるさ」
余計にツンツンモードに入り込む莉緒。プイッと向こうを向いてしまう。
うーん。難しいなぁ……。
そろそろ暑くなってきたので肌にはジワっと汗も滲む。
天気は良くて、すぐにでも海に入れそうなカンカンの青空だ。降り注ぐ日光が都会のビルで反射して、地面からの照り返しも相まって一層厚さを助長していた。
買い物はひと段落したのでカフェにでも入って休憩することになった。
どういうコミュニケーションを経てカフェに合意したかというと、「休憩しよっか」という俺の提案に莉緒が無言を貫くというリアクションだ。
店内に入って、空いている席を見渡す。いつもの印象から、なんとなく莉緒はエアコンが効いた室内のほうがいいんじゃないかなぁと俺は思っていた。
でも、休日だから人も多く、どうやら室内はいっぱいだ。屋外にあるテラス席しか空いていなさそうだが、もう七月に入っているから外はそこそこ暑い。
「あ──……、中はいっぱいだね。他のところにしようか」
「……いい」
「ん?」
「テラスで、いい」
予想に反して外で良いと言われ、屋外にあるテラス席へ。
一応風は吹いていて、耐えられないほどの暑さではない。
俺は暑いこととは関係なく大好きなホットコーヒーを注文し、莉緒は影のある表情に全然似合わない南国な感じのトロピカルジュースを選ぶ。出会ってからまだそんなに経ってないけど、この影のある表情、実はわざと作ってるんじゃないかと俺は少し疑い始めている。
莉緒は、俺から喋らなかったら自分からは喋ってくれない。
それは、教室にいる時のイメージそのままではあるけれど。
俺と一緒にいて楽しいのかな……。普通に考えれば全く楽しそうには見えないな。まあ初デートから女の子にあんな水着を着せておいてどの口が言っているのかという感じだが。
だから、注文を終えて注文カウンターから席へ戻っている間に、俺はそれを正直に尋ねてみた。
「ねえ、莉緒はさ、俺と一緒にいて楽しい?」
「……別に」
「そっか」
なんかちょっと悲しくなった。
やっぱり莉緒にとっては、俺なんかと一緒にいるのはただの時間潰しでしかないのかな……なんて思ってしまう。
なら、考えようによっては、キワドイ水着を着せて鑑賞できたのは思い出作りと言う点でまさに正解だったと言えるなぁ。
と、突然ピタッと立ち止まる莉緒。
だいたいわかってきたので、頭を打ちつける壁を探そうとする莉緒に、俺は先制してやった。
俺は莉緒の額に手のひらを当てて、頭突きできないようにする。
「頭突き禁止だよ」
莉緒は、額に当てているのとは別の、もう一方の俺の手をキュッと摘んだ。
至近距離で見つめられたのが恥ずかしかったのか目は逸らしたが、それでも俺の手は離さない。額に触れられているほうの手のことも、嫌がったりはしなかった。
テラスにある二人席で向かい合わせに座って、莉緒の顔を眺めながら嗜むコーヒーはマジで最高だった。
こんな可愛い子とデートしてるなんて、ほんと信じられない。それどころか、今日のお買い物は、海へ行くための買い物なのだ。
海。今日見た莉緒のカラダを、もう一度見ることができる、最高のアクティビティ。
でも、さすがに今日はちょっとエロを前面に押し出しすぎたかもしれない。普通の女の子は引くよなぁ。
そんなこと言っても莉緒が先にそういうシチュエーションに持っていった訳だし。
しかも、俺が選んだ水着は必ず試着するというドMな縛りまで自ら課して。この子はほんとに謎だらけだよなぁ……。
謎といえば──俺は、莉緒とのやりとりにドキドキさせられてすっかり忘れ去っていたことを思い出す。
スタンガンを常時携行して不良を倒したこと。
莉緒の中には、莉緒のほかに二人の別人格がいること。
誰とも喋らず影のある表情をしている美少女ってだけでも相当謎めいてるのに、それにこの二つが加わった日にゃあ。
特に別人格の件なんて、マジで表情も声も態度も全てがガラッと変わる。演技でやるのはかなり厳しいんじゃないかと思うのだ。
よく考えれば雷人くん、俺が莉緒をあそこまで辱めるのをよく許したな。人格を入れ替えて俺を殺しにきても不思議じゃないのに。
だって、あいつは「莉緒を泣かせた」という理由で初対面の俺をぶっ叩いたんだよ?
なのに、水着選びであんなにわんわん泣いちゃったのにもかかわらず彼は出てこなかったし。
と、頬杖をつきながら思案していた俺の視界、莉緒のはるか後方に、ふと気になるものが映った。
正面の、ビルの屋上。
人が立ってる……でも。
あの人が立ってるの、柵の外側じゃない?
俺が気づいたのとほとんど変わらないタイミングで、周りの人たちも気づいたようだ。
きっとスーツを着た男性だろう。じっとして動かないから、もしかして何かの工作物が目の錯覚でそう見えたんじゃないかという希望的観測を確かめるため何度か目を擦ったが……
何度見直してみても、やはりそれは、本物の人。
ザワザワと、気づいた者から順に伝播した不穏なざわめきは、この事態の結末を口々に言い合う言葉の集合体だ。
それは要約すると、
「飛び降りじゃね?」
ほとんど間違いないだろう。
そんな瞬間に立ち会ったことなんてないからわからないけど、あれはもう、絶対にそうだと思う。
俺の視線と周囲のざわめきで莉緒も気がついた。
立ち上がってその方向を眺める莉緒の横に、俺も並んで立って同じようにした。
「悠人、あれ……もしかして、飛び降りようとしてる?」
「うん……」
本気かな……。
それとも、かまってほしいだけだろうか?
騒ぎを起こして、自分に注目してほしいんだろうか?
自殺を、止めてほしいんだろうか?
それだけのことならいいんだが……真下にある歩道では、上空で起ころうとしている凶行に気づかず多くの人が行き交っている。
警察やら消防やらが到着している様子はない。
今俺たちがいる場所は、その現場からさほど離れてはいない。
もし飛び降りれば、地面と激突した場所も視界に入る位置にある。
そんな場面を莉緒に見せるわけにはいかない。
俺は、莉緒の肩を抱いてこう言った。
「莉緒。見ないほうが──」
言いかけて、俺は莉緒の表情にハッとする。
屋上にいるスーツの人を見つめる莉緒の表情は、これから自殺する人間を目の当たりにした高校一年生の顔とは思えなかったのだ。
例えるなら、
はるか上空にいるその人は、空を仰いだ。
まるで今にも飛び降りてしまいそうな空気を感じて、俺はなんだか焦ってきた。
「……やっぱり、ど、どうにもできないのかな」
「ビルへ近づいて、通行人が直下へ入らないように注意喚起すれば他の人の命は守れるかもしれないね。それで許してくれると助かるんだけど」
まさに無風のような声。俺とは真逆で、感情の揺らぎというものが感じられない落ち着いた声で莉緒は言う。
だからこそ、俺にはわかった。
今、莉緒の体を支配しているのは風華ちゃん。
俺を見ることなく、屋上のスーツの人から目を離さないのは、紛れもなく風華ちゃんだった。
「でも、莉緒はそれじゃ納得してくれないからさ。リスク高いんだけどなぁ……」
「莉緒が?」
「うん。雷人もね、言ったんだよ。無理に助ける必要はねえ、お前が自分自身の人生を危険に晒してまで助ける必要はねえ、って。放っておけ、何があったか知らないが、自分で命を捨てようとしてるんだから、ここで助けたってどうせまたどこかで死のうとするし、無駄なことだ、って」
「…………」
「そしたらね、莉緒はこう言うんだ。無駄になるかもしれないけど、ならないかもしれないじゃない、って」
俺の勘違いだったかもしれないが、現場から一度も目を逸らさずそう言った風華ちゃんは、なぜか嬉しそうな表情を浮かばせたように見えた。
でも……こんなことを言っても、風華ちゃんとか莉緒に、この状況がなんとかできるわけもない。
風華ちゃんの言うようにせめてビルの直下にいる人だけでもなんとかしようか、それとも通報が先だろうかと悩む。
迷いながら俺が屋上にいるスーツの人へ視線を戻した時、状況は変化した。
ゆっくりと、空中に向かって倒れ始める体。
きゃああああ、と周囲で悲鳴が上がる。
日常だったはずの風景が、一瞬で非日常へと変化して。
その動きは、まるでスローモーションのようだった。
とうとう頭部が屋上のフロアレベルを切る。
慣性の法則に従って頭から落ちようとする様子が、俺の体と心に悲鳴をあげさせる。
足の先から頭のてっぺんまで鳥肌が走り────
その時、風が駆け抜けた。
莉緒の足元から同芯円上に何度も広がる旋風の波動がバシュンバシュンと破裂音を鳴らし、かまいたちのように鋭い風がビルのほうへと走っていく。
地球上の全てのものへと等しく作用する重力がどんどん命の落下速度を上げていく中、まるで絶対的法則に抗うかのような風の群れがギュン、と音を立てて無防備に落ちていく彼を取り巻いた。
風に抱かれたスーツの人はクルッと前転し、地上と衝突する寸前、まるでエレベーターが目的階へ到着するかのように速度を緩めてフワッと地面へ降り立った。
俺たちがいるカフェでは、飛び降りた人の安否や、突如として吹き荒れた風の正体を囁き合う声がそこかしこで聞こえたが、結局、何が起こったのかを正確に理解できた者は一人としていなかったようだ。
もちろん、それが莉緒の体から出た風のせいかもしれない……なんて頭がイカれたような発想、思いつくことすら俺以外には不可能だったろう。そんな突拍子もないこと、現実的にあり得ないからだ。
飛び降り現場がどうなったのか確認したいのだろう、周りの人々はみんなこぞって前方にあるテラスの柵へ張り付いていた。
俺はといえば、まるで体から風を出したかのように見えた風華ちゃんのほうが断然気になって、すぐに彼女を横目で見たのだが。
目の錯覚か……風華ちゃんの瞳が、鮮やかな青色に見えた。
光の加減でそう見えているのだろうか。
しかし、反射したような光り方ではない。瞳全体が不自然なほどに真っ青で……。
手の甲で目を擦り、彼女に気づかれないようにもう一度こっそり確認する。
すると、綺麗な黒い瞳をした風華ちゃんは、先に彼女のことを見つめていた俺へと視線を合わせてこう言った。
「なんかすごいね。何あれ? どうなったの?」
「……え」
「地上近くに細い糸でできたネットでも張られてたのかな。それともドッキリか何かかも? あの人、普通に降り立ったし。マジックみたいなやつかな。どっかにテレビカメラでもあったのかもしれないね! まあでも、本当に飛び降りとかじゃなくてよかったじゃん」
「……そうだね」
尋ねたい。でも、どう尋ねる?
「ねえ、今、体から風を出さなかった?」って?
「ねえ、今、瞳の色が真っ青だったよ」って?
本人がここまですっとぼけている今、これ以上突っ込んで尋ねるのは憚られてしまって、俺は喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。
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