第9話 甘い匂いのする部屋で
マンションの影に入って、雨を凌ぐ。
莉緒が同じマンションに住んでいたことには飛び上がりそうなほどビックリしたが、そのうえ部屋に上がっていくよう勧められたので完全に思考が追いつかなかった。
わかりやすく動揺する俺に比べ、莉緒は全く表情を崩さず半目になってこう言う。
「……勘違いしないでよね。ちょっとコーヒーでも飲んでってもらおうかなって思っただけだよ。それとも、やっぱワンチャン私のこと襲おうとか思ったわけ? ほんと最低だね──……」
冷徹な声色で暴言を吐く莉緒は、しかしセリフの途中でピタッとフリーズする。
直後、彼女はマンションの壁に自分の頭をガンガン打ちつけ始めた。
俺は慌てて歯がいじめにして止めに入る。
「ちょっと! 何やってんの!?」
「うぅ…………こっちのことだから。気にしないで」
額から滴る血をものともせず、無表情でこんなふうに答える莉緒。
話によると、莉緒はどうやら一人暮らしのようだ。
しかし、女の子が一人暮らしの部屋に男を入れるって、女の子にとっちゃ危険極まりない状況なのでは?
だって、そのまま襲われちゃうかもしれないんだもんな。なのに招き入れるってのは、きっと安心しているのだろう。
いや、待てよ?
信用してるってことか? それは友達だからか?
男として、見ていないってことか────!?
どうせ襲われはしないとタカを括っているんだろうな。
へえぇ……いくら童貞とはいえ、俺も舐められたもんだ。
でもな……いつまでも俺を侮っていると後悔することになるぜ?
俺だって男だ。オオカミだ。牙くらい持っている。毎日毎日研ぐ時間だきゃあひたすら与えられたことによってそれはもはやオリハルコンのキバレベル。
いいぜ……そういうことならやってやるよ。
今日、ここで俺は大人になってやる!
……と、威勢よく覚悟を決めたのも束の間。
傘を畳み終えた莉緒は、なぜかまたもや腕を組んできて……。
もう相合傘しなくていいのになんで腕組むの!?
ってか、さっき毒づいたのは何!? これ、コーヒーを飲んでいってもらおうと思った人のやることじゃないよね!?
莉緒は動揺する俺にピッタリと張り付いて芸術的な巨乳を押し付け、じーっと俺を見上げてくる。
まずいと思った俺は反射的に聖人君子を憑依させ、実家の法事で坊さんが読み上げるお経を思い出して「南無大師遍照金剛」と心の中で呟いた。
よし。大丈夫だ。これで襲いかかったりしな────…………
……って、おい! さっき大人になるって誓ったところだろ……?
それはまさに、こういう状況で迷うことなく莉緒を
日和った……日和った日和った日和った!!!
この根性なしがッッ!!
俺は、自分の頬を、自分の拳で何度もぶん殴る。
「ぐふあっ!」
「えっ、何やってんの!?」
「うぅ…………こっちのことだから。気にしないで」
「ったく。君はほんと、つくづく変な人だよね……」
誰がどう見てもお互い様。いやむしろ君のほうが断トツでミステリアスガールだよ、と過去一世を風靡したらしい三人の猫泥棒を思い浮かべながら俺は思っていたが、今のは確かに俺自身も同類だったので反論するのはよしておく。
「……ほら、こっち」
組んだ腕をさりげなく引っ張りながら、有無を言わせない空気を纏って俺を部屋へ誘導する莉緒。
彼女は玄関ドアを開けて俺を引っ張り込み、照明をつける。
「お邪魔しまぁす……」
「……どうぞ」
俺の想像とは違って、部屋の構成は1Kとかではなく、ファミリータイプのやつだった。ま、オーナーさんの住居として作られているならそりゃそうか。
内装に関しては俺の想像通り。
学校ではいつも無表情で影のある莉緒の部屋は、女の子っぽいイメージを連想させるピンク色とかパステルカラーには彩られておらず、普通にブラウンのカーテンが取り付けられ、グレーのマットが敷かれていて、テーブルだってブラックだ。
俺は、カバンを邪魔にならなさそうな端のほうに立てかけた。
「……へぇ、すっごいね。ここに一人で住んでるの?」
言いながら振り返ると莉緒はまだ玄関のところにいて。
ガチャン、と扉を施錠し、チェーンフックまで掛ける。
…………ん?
「……なに?」
「えっと。いや、鍵がね……」
「……家に入ってから鍵もかけずにいるなんて不用心でしょ」
なんとなく筋が通ってるっぽい理屈でボソボソと言いくるめられたが、一瞬、背筋がゾゾっとした。
それに、一人暮らしの女子が男を部屋に招き入れて、鍵までかけるなんてそれこそ不用心ではないだろうか。俺が間違っているのか?
「コーヒーにする? それとも紅茶? ジュース?」
「あ、コーヒーで。俺、ホットコーヒが好きでさ」
「……そこのソファーにでも座ってて」
「あ、先にそのおでこの傷をなんとかしようよ! バンソーコーある?」
「…………ない」
ないのかよ。
じゃあ、俺のを使うか。
俺は普段から不良に絡まれまくるので、いつ何時、怪我をするかわからない。
よって、バンドエイドは必需品。
ほぼ無傷で済むこともあるけれど、ガッツリ出血することもまあまああるのだ。
だから、最高級品のバンドエイドをいつも持ち歩いている。
「ほら、ちょっとこっち向いて」
「…………」
ぶすっとした表情をしつつも大人しく俺の言うことをきく莉緒。
こういう顔も可愛いのは、美少女だけが持つ特権だ。
とりあえずティッシュで血を拭き取り、バンドエイドを貼ってやる。
俺にバンドエイドを貼られているあいだの莉緒は、さっきまでとは打って変わってまるで子供みたいに無垢な表情になっていた。
こんな表情もするんだな……。いつも暗い顔してるから結構ギャップある。
こっちのほうが百倍可愛いんだけどな。バンドエイド貼られる時しかこの顔をしないなら、額のバンドエイドは常に俺が貼ってやろう、うん。
しかし額が割れるほどドタマで壁を殴るなっての。一体どうしたってんだ、ほんと。
「はい、オッケーだよ。」
莉緒はおでこのほうに視線を向けながら、手で額をスリスリしつつ「ありがと」と小さく呟く。
そのまま、小さくて可愛い手を俺に差し出した。
なんだろ?
「もう一つちょうだい」
「ん? まだどっか怪我してるの?」
「……そうじゃないよ。悠人の頬からも血が出てる」
確かに頬がヒリヒリしてる。触った指に血がついた。
そんなに大量出血してるわけじゃなさそうだけど、擦り傷みたいになってるようだ。
そういや、自分で殴ったんだったな……。
「まあ、これくらい大丈夫だよ。ってか自分でやったんだし──」
「……自分でやったから手当しなくていいって理屈はない。それなら私も一緒でしょ?」
小さな声でボソボソと論破された俺は、「まあね」と返してカバンの中からバンドエイドを取り出した。
ソファーに座るように促される。俺の頭の位置を低くしてから、莉緒は俺の頬にバンドエイドを貼ってくれた。
傷口を真剣な目で見ながら、ん〜〜、と言いつつうまく貼ろうとする様子にほっこりする。
逆に、バンドエイドをしっかり貼るために俺の頭に手を添えたりするところがなんだかドキッとしてしまった。
「……はい、終わり」
暗めの声でそっけなく言った莉緒は、キッチンのほうへと歩いて行った。
それを見送りながら、俺は柔らかそうなソファーへ上半身を沈めて、部屋の中をじっくり見回す。
確かに、部屋の見た目に女子っぽさはない。
でも、部屋中に漂う匂いがうっすらと甘い気がして、つい俺はすーっと深呼吸した。
両手を真横に広げて、胸いっぱいに吸い込んでみる。
こんな動きをする俺を視界に入れた莉緒は、リビングダイニングの奥にあるキッチンから怪訝そうな顔で見つめてきた。
なんか、まるで自分が変態みたいで、ちょっと恥ずかしい。
「……なにしてんの?」
「いえ……なんにも」
「……え。まさか、なんか臭う?」
「ううん、逆だよ。すごくいい匂いがするね。普段、何かアロマでも焚いてる?」
「全くなにもしてないよ。そんなに匂いするかな」
なにもしていない割に、微妙に花の蜜みたいな匂いがする。
女の子の部屋って先入観が、俺に幻臭でも嗅がせているのだろうか。
でも、この匂い、なんだかどこかで。
「──あ、わかった! 莉緒が抱きついてきたときに、こんな匂いがしたんだよ」
「…………っっ」
相合傘をしていたときは、雨の匂いでイマイチわからなかったけど。
そう──教室で俺に力いっぱい抱きついてきた莉緒からは、確かにこんな匂いがした。
莉緒は、俺のリクエスト通りにホットコーヒーを淹れて、俺が座っているL字型ソファーの目の前にあるテーブルにコトン、と置いて俺の隣に座る。自分の分はきっとミルクティーだ。
「ありがと」
「変態」
「いて」
頭にコツンとチョップをかまされた。
こうやって照れたようにポツリと言ったりする莉緒を見てると、なんか胸の内側がくすぐったい。
すると、莉緒は視線を床に落として、急に沈んだようになった。
「……どうせ、こんなキツいことばっか言う奴、嫌いでしょ」
かと思ったら突然こんなことを言い出したりして。
最初はただ単に俺を嫌っているのかなぁとか、近づいてほしくないのかな……なんて思っていたんだけど、それとはちょっと違ったのかもしれない。
「そんなことないよ」
「嘘。好かれる要素、ないよ──……」
「自分をどんどん出してくれる莉緒のこと、俺は好きだよ」
何も言わずにただ睨まれるよりは……と付け加えるのを、俺はやめた。
莉緒が自分を出してくれるなら、俺だって、思ってもないことを言うのはやめたほうがいいと思ったんだ。
そんなことを考えているとなんか恥ずかしくなって、俺はつい照れ笑いした。
莉緒は、そんな俺を、驚いたような、泣きそうなような……説明が難しいが、俺が今までに見たことがない表情で見つめてきた。
例えるなら、何日間も井戸の底に閉じ込められた人が、遠くに見える青空に割り込んだ人影を見つけたなら、こんな顔になるのかもしれない……と思った。
莉緒は俺に背を向けるようにして、俺の股の間にお尻を置く。
俺のすぐ目の前に、莉緒の後頭部が見える。さっきまでとはまた別の、シャンプーとかそんな香りのする髪の匂いがふわっと漂う。
莉緒は、とすん、と俺に体重を預けてきた。莉緒の頭が俺の肩の上に乗っかっているので、俺の視界には、上を向いた莉緒の顎のあたりが少しだけ見えていた。
ドクン、ドクンと鼓動が踊り始める。
そりゃ当然だ。こんなことするなんて、友達の範疇を超えてない?
じゃあ、これは何? 友達関係とはまた別の、何か?
ほんと、わっかんないよなぁ、この子は……
「……なにしてんの」
「このまま。ぎゅってしてて」
俺は、莉緒のリクエスト通りに莉緒のお腹のあたりに手をまわす。
制服のシャツ越しに、莉緒のお腹の温度が俺の手に伝わってくる。
莉緒の頭に、自分の頭をコツンとくっつけた。
莉緒は、そのまま何もしなかった。
これから何かすっごくエロいことが始まるんだろうなぁという期待でいっぱいだった俺の意識は、すぐにスッと正気を取り戻す。
莉緒の頭にくっつけていた俺の頬に、冷たいものが触れたからだ。
それは、涙に違いなかった。スン、と小さく鼻を啜る音が聞こえ、莉緒は吐息を荒くしていく。しゃっくりをするように体を小さく震わせて、声にならない嗚咽を漏らすよう。
俺は、静かに泣く彼女のことを後ろから抱きしめ続けた。
いつも影がさしているような顔をしている莉緒は、やはり過去のトラウマに苦しめられているんだろう。
家には親もおらず一人暮らし。学校には友達もいない。
仮にずっと一人で生きてきたとしたなら、こうやって人の温もりを感じるのは久しぶりのことなのかもしれない。
やがて体の震えが止まると、莉緒は自ら立ち上がる。
泣き顔を見られたくなかったのか、こっちを振り返ることなく、洗面所があるのかなと思えるほうへと歩いて行った。
少しだけぬるくなったコーヒーに口をつけ、俺は彼女が帰ってくるのを待つ。あんなふうに泣いた莉緒が心配だったけど、見られたくないのなら、このほうが良い気がしたから。
帰ってきた莉緒は俺のことを見ずに、俺の隣に座る。
ぱっと見でも目が腫れているのはわかったけど、それには触れずおいた。
莉緒は体を俺にひっつけ、頭を俺の肩に預ける。
どうするのが正解なのかなぁ、なんて考えることもなく、そうしてあげたいからそうする。
俺も同じようにして、しばらく彼女の体温を感じることにした。
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