第7話 魔性の下校




 教室で突然俺に抱きついてきた莉緒。

 なんでそんなことをしたのか俺にはわからなかったが、彼女は俺から離れた後、何故か落胆したように深いため息を吐いた。


 どうしたのだろう。どこの地域の風習か知らないが、下校の儀式であるというあのサバ折りがそんなに大切なものだったのだろうか。彼女の出身の村のしきたりだったりするのだろうか。

 そうだとすると、もしかして莉緒を傷つけてしまったか!?

 でも、俺ももう少しで背骨折られるところだったし。


「あの……莉緒、大丈夫?」


「え……あ、うん。大丈夫……」


 立ったまま意識消失していた感じの莉緒は、俺が何度か声をかけてようやく正気を取り戻した。


 えらく険しい表情だったが、大丈夫だろうか。

 もしかして、こうやってちょいちょい辛い出来事でも思い出しているのだろうか。

 彼女が打ち明けてくれた話では、彼女は過去に「道具として扱われた」らしい。

 そんなの普通じゃない。普段から影のある表情をしているし、やはり何か大変なトラウマを抱えているのは間違いないだろう。


 ……まさか。因習だなんて言い繕っているが、過去のトラウマの影響でうなされて突如として俺にサバ折りを!?


 おそらくそうだ。「下校の儀式」だなんて聞いたことがない。いきなりあんな暴力的に変化する理由が他に思い当たらない。

 ってか、案外、力あるんだよな、この子……。


 ふと、俺は不登校になっている自分の弟・颯太のことが思い浮かんだ。

 そうだ。できる限り、俺が癒してあげなければ。友達として。


「何かあったら俺に言ってね。相談に乗るから」


「…………」


 相変わらずの無言。でも、以前と比べて「殺すぞ」みたいな表情はなくなった気がする。 

 むしろ、今の一言で何か獲物を捕らえる前の猛獣のような気配がブワッと溢れたように感じたのは気のせいか?


 校舎から出ようとすると、やはりザアザアと降りしきる雨。

 莉緒は──もとい、風華ちゃんは傘を貸してくれると言っていたから安心していたのだが、しかし今、彼女は傘を一つしか持っていないように見える。

 

「あの。風華ちゃんがさ、傘を貸してくれるって言ってたんだけど。傘、もう一本あるの?」


「…………」


 莉緒は、手に持っていた傘を無言でばさっと広げ、ほんのり頬を赤らめながら、流し目でジトっと俺を見つめてくる。


「……入って」


「え!? あっ、あっ、アイアイ……?」


「は、早く……っ」


「はぃ……」


 一切の反抗を許さない鋭い目つきで睨まれる。

 その印象はまるで声を荒げない恫喝のよう。


 なんだろう、これ? なんで突然こんなことに? 

 俺とこんなことして、莉緒は恥ずかしくないのだろうか? ずぶ濡れで帰らなければならないところを莉緒に助けられているのだから、俺がつべこべ文句を言う筋合いはないのだけど……。


「お邪魔します……」


 俺はおずおずと傘の中に入る。

 肩と肩が触れて、一瞬、莉緒がビクッとした。


「ごっ、ごめんっ」


 俺は慌てて傘から出る。

 だって、相合傘なんて密着しないとできないし。

 触れるなと言うほうが土台無理──


「……大丈夫。行くよ、ほら」


 体が触れたことは咎められず、引き続き傘へ入るよう促される。


「うん……。あ、俺が傘持つよ」


 身長で言うと莉緒は一五〇センチくらいか。一七五センチある俺のほうが背は高いし、だから傘を持つのも俺のほうがいいだろう。ってか、そもそも紳士として俺が持つべきか。

 莉緒は、俺の提案に同意したのか無言で俺に傘を渡してきた。


 歩き始めてすぐに、案外濡れてしまうことに気がついた。

 傘の中に二人が入るというのはとてつもなく狭く、だから体の端が少し濡れてしまう。濡れないようにしようとしたら、俺たち二人がギュッと密着するのは最低条件だ。


 でも、そんなこと……出会ったばっかで、まだ友達で、校内でも噂の飛び抜けた美少女とするなんてちょっとハードルが高すぎない?


 俺が二の足を踏んでいると、まるで想定外なことに、莉緒はドン、と俺に寄りかかってくる。

 俺は反射的に体を離そうとしたが、


「……ダメだよ。濡れちゃうから」


 莉緒はそれを、強い口調と肉体的拘束で禁止した。

 

 俺の腕に自分の腕を絡ませる。

 俺の体をグッと引っ張り自分の体に密着させる。

 まるで「めっ!」とでも言わんばかりの上目遣いでジッと見つめてきた。


 ってか、張りがあるのにグニグニと変幻自在を誇るおっぱいの柔らかい感触が腕に。

 うわ、これすっげぇ……


「離れちゃダメ」


「でっ、でもっ」


「……しょうがないよ。雨なんだから」


 胸の感触に加えて、顔の距離がおかしすぎる。

 こんな近くに女の子の顔があるなんて。こんなの、もう何が起こってもおかしくないんじゃないか?

 だって、この状況って、莉緒の同意の上に、成り立っているんだよね……?


 いや待て、ダメだ。冷静になれ。莉緒は友達なんだ。

 そんなことをしたら、とんでもなく傷つけてしまう。

 普段から暗い顔をしているのも、何らかのトラウマを抱えているからだって、さっき自分で考えていただろ!

 そんな彼女を無理やり襲って手籠めにするなんて、最低最悪のクソ野郎だっっ!


 煩悩に退散させられそうになっていた俺の理性だったが、土俵際で辛うじて踏みとどまった。


 俺は地蔵のような表情を作りながら、聖人を憑依させるイメージでおっぱいの感触を味わいつつも正気を保って歩くという離れ業を編み出す。

 心頭を滅却すれば火もまた涼しだ。無念夢想の境地に至った俺は強烈な煩悩を起死回生の一手で跳ね返したのだが……

 なぜか莉緒は、口をへの字に結んで悔しそうな表情をしていた。


 莉緒の家は風神町方面ということだったが、具体的にはどこなのだろう。

 俺の家も風神町方面。住んでいる場所は風神町にあるマンションだ。


 とはいえ同じマンションでもない限りどこかで別れなければならないだろうし、だからと言ってこのまま別れでもしたら結局ずぶ濡れになっちゃうので、コンビニに寄ってもらわないと傘が手に入らない。

 だから俺は、


「ねえ、コンビニに寄っていい? 傘を買わないと」


「……大丈夫だよ。私の家に傘があるから、先に私の家に行こ」


「ええっ!?」


 莉緒の家に!? 

 本来なら傘を受け取るだけな訳で、別になんということはないはずだが。

 なんか、「上がっていって」みたいなことを言われたら俺、煩悩を退散させる自信ないんですが……


「……なんか妙なエロ妄想に浸ってない? 勘違いしないでよね。マジで最低」


 極めて冷静な声で突き刺してくれたおかげで、俺の欲望はきっちり鎮静化。

 ああ、助かります。


 よかったよかった。とりあえず、莉緒は俺のことを家にあげるつもりは無いようだ。

 正直、莉緒と色んな意味で仲良くなりたい気持ちはめちゃくちゃあるが、初めて話した初日から二人っきりで女の子の部屋に入るなんて、童貞の俺にはあまりにも気が引けてしまうのだ。 


「大丈夫、全然そんなつもりないから」


 紳士ぶって釈明してみる。

 すると、また下唇をキュッと噛んで、謎に落ち込んだような表情で俺を睨む莉緒。

 さっきからそれ何?


「ちなみに、莉緒の家って具体的にどの辺なの?」


「……風神町二丁目の、雷鳴郵便局の近く」


「あ、俺もその近くなんだ。結構近いね」


 そんな近くに住んでいたんだ?

 莉緒は自分の家へどんどん進むが、同時に俺の家へもどんどん近づく。

 うん。まあ、話では近いところにあるのだから、そうなのだろうが。


「ここだよ」


 俺の家である一三階建ての分譲マンションのエントランスに辿り着いた時、莉緒はこう言った。

 

「……え。ここ?」


「うん、ここ」


「俺も、ここ」


「え?」


 二人、顔を見合わせたまま固まる。


 同じマンションだったの?

 でも、一回も見かけたことないんだけど。

 え、マジで? どうして?


 衝撃の事実を知って俺はうっかり考え事に耽る。

 ふと莉緒を見ると、莉緒もなんか呆然としている感じだった。

 まあ、そりゃそうか。だって、そんな偶然、あるとは思わないもんね。

 

 俺は莉緒に声をかけたが、莉緒は心ここに在らずといった感じでしばらくぼーっとしていた。

 家が俺と同じマンションだったことがそんなにショックだったのだろうか?


 ようやく何度目かの声掛けで意識を取り戻した彼女は、俺たちを雨から凌いでくれている一つ傘の下、俺を見つめてこう言った。


「私ね……このマンションのオーナーさんにお世話になっててね。オーナーさんは今は別の場所に住んでいるから、オーナーさん用に作られた一階の部屋に、特別に住まわせてもらってるんだ。だから一人暮らしなの。……ちょっと、寄ってく?」




 ……え?




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