冬 X'mas (1)今年は良く頑張ったね
【ここまでの粗筋】
天然系な主人公「駿河轟」は大学一浪中の身。
充実していた筈の学生生活も自身の受験失敗等諸々で全てはご破算に。
新に同窓の浪人女子「ソウシ」と「互いをよく知ろう」という仲になる。
季節は受験の本番間近。二人の心理的な不安定さも最高潮になりそうな兆し。
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同窓会の委員会でもクリスマスの懇親会はあるが、それは個人用の日程に配慮して週をずらして開催されるし、
予備校は基本的に現役生の日程に合わせてスケジュールが組まれているので、クリスマスは丁度
僕等は食事の中で、クリスマスに特別な事を考えるのは止そうと言っていた。アレコレ思い浮かんだことを話している時は、時間を区切ってお喋りも出来るが、何かのテーマを考え始めたら、勉強以外のことで思考が中断されることが長くなるからだ。それに此の時期、プレゼントなど考えがてら繁華街に行こうものなら余計な風邪でも貰いかねない。
ただ、二十四日はクリスマスに浮かれる街の様子を見ようか、ということでやや遅めの時間まで自習室で勉強し、東82系統に乗って銀座、新橋、東京タワー、六本木、青山、渋谷の夜景を見ながら帰ることにした。そして、二十五日は少し早めに東98系統に乗って、等々力駅の喫茶店でケーキを食べようと決めた。
* * *
一年に一回の十二月二十四日がやってきた。
お約束通り予備校ではクリスマスなど何の其のという歪んだ熱気が溢れていて、人気講師の講義が多い所為か、入館制限が一日中続いていた。それは研数でも同じこと。
僕等は三崎町で食事を済ませ、仕方なく夫々の予備校の自習室で夕方近くまで勉強し、神保町で待ち合わせて、東82系統の出る東京駅八重洲口へと向かった。
「やぁ、ツリーだよ!」
パレスホテルのロビーの中に照らし出されているクリスマスツリーがあった。
「本当だ、昼間は気が付かないもんだねぇ。」
夕方の喧噪の中を、大手町から国鉄のガードをくぐって八重洲口に回り込み、東82系統が待つ南口に到着した。
「ぉお、本当に繁華街ばっかり通る路線があるんだねぇ。」
ソウシはバスの横に着いた方向幕を眺めながら少しはしゃいでいた。
クリスマスイブの日、夕方のバスは数人の客を乗せて出発した。
華やかな銀座通りを抜け、右折して新橋の雑踏をかすめ、早めに仕事を切り上げ度いと願っている人々の詰まったビルが建ち並ぶ虎ノ門のオフィス街を走った。
更に愛宕山の裏を抜けて、東京タワーを左手に見ながら六本木へと入った。クリスマスの六本木は渋滞が非道くて、信号一つ通過するのに五分以上かかる、つまりは殆ど動かない状態だった。
「矢っ張り、此処は凄いねぇ。」
彼女が子どものように窓に張り付き、車窓から華やかな街に感心しているとき、僕は自分の右手をソウシの左手からそっと離した。
「ん? どうかしたの?」
いつまでも帰って来ない手に気づいたのか、彼女が訊ねてきた。
「…否、鳥渡気分が良くなくて…。」
「あ、ごめん、私ハシャギ過ぎてたかな。」
「…そうじゃなくて、俺の体調が悪いんだ…。」
昼に食べたものが良くなかったのか、疲れ気味だったのか、バスが東京タワーを過ぎた辺りから急に体調が悪くなって、全身に嫌な汗をかいていた。それが彼女に悪いと思い、手を離したのだ。
「ごめん、俺は次で降りるから、此の先の六本木駅から日比谷線で帰ると良いよ。」
「大丈夫? そう言えば顔色悪くなってきた。一緒に降りるよ。」
「大丈夫だから、先に帰って、ね。」
漸く着いた停留所で僕はバスを降り、ソウシは後ろから連いてきた。僕には強硬に彼女を帰す余裕もなかった。
部活の付き合いが多かった所為か、僕は山手線の内側くらいなら、知らない街でも二、三分以内で公衆トイレを探せる妙な特技があった。其の晩も、直ぐに住宅街の路地裏にある小さな公園に隣接した公衆トイレを見付けた。
とりあえず、悪いものを全て出し、落ち着くまで洗面所に籠もり、身繕いを整えて矢渡出られたのは三十分くらいしてからだろうか。
ソウシは明るい街頭の下のベンチに腰掛けて待っていた。足下のふらつきを隠しつつ座った僕に、彼女は黙ってアイソトニック飲料を差し出して呉れた。自動販売機で買ったものにしては常温に近かった。
「はい、よーく、うがいして吐き出して、それからゆっくり飲んで。」
彼女の言う通りにうがいをし、水分と糖分とミネラルを補給した。無言の儘、一缶をゆっくりゆっくり飲み終えた。そして、もう一度、洗面所に向かった。
* * *
沈黙の、心も体もズタボロの時間が過ぎた。水道で顔と手を洗って、ベンチに戻った。すると彼女は、ジャケットのジッパーを開けて奥の方からもう一缶を取り出した。
「はい、良い子だから、もう一つ。よーく、うがいして、手で温めながらゆっくり飲んで。」
一言も返す元気がない儘、言葉の儘に、もう一缶同じことを繰り返した。
ゆっくり、ゆっくり…。
少しずつ、話せるくらいには体調が戻ってきた。
「…ごめん…。」
「何が?」
「迷惑かけて…、然も折角の日なのに…。」
「全然、こういう特別な日はサ、歳をとってたとえ惚けたとしても絶対忘れないよ。」
「あ…、矢っ張り、ごめん。」
「ううん、悪い意味じゃなくてさ、ああ、此様なときもあったなぁって。」
「…そうかな…。」
「そうだよ。」
彼女は此様なに寒い中、此様なにダメな僕のために、此様なに冷たいアイソトニック飲料を、飲む者が胃腸を痛めないように自分の身体で温めて、三十分も、四十分も待っていて呉れた。
通りを一つ超えれば、華やかなクリスマスで賑わっている街の路地裏の公園で、街灯一つのベンチに座って、じっと待っていて呉れた。僕は彼女に申し訳ないことと、自分が情けないことの両方で涙が溢れた。
「…はいはい、男の子なんだから泣かないの…。」
僕は眼鏡をとって、彼女が差し出したハンカチで涙を拭いた。
「大丈夫? 帰れる?」
「ん、有り難う。落ち着いた。もう大丈夫だよ。」
其の公園に二時間近くも居ただろうか。再び同じバス停から東82系統に乗り込む。乗客は誰も居なかった。
最後部の座席で、暖房に身体を温めていると、なんともう一缶アイソトニック飲料が出てきた。
「脱水症状は良くないからね。」
「ありがと…。」
彼女の身体と心で温められたアイソトニック飲料を少しずつ自分の身体に沁み渡らせながら、疲れきっていた僕は、いつの間にか、缶を握りしめた
「あ、ごめん…。」
すっかり彼女の肩に頭を凭れて寝こけていた。彼女は僕の肩に回していた左手で、無言の儘頭をトントンと叩き、(其の儘)という意思表示をした。車内には、バスのエンジンの音だけが響いていた。
「六本木も、青山も、渋谷もみんな綺麗だったよ。ギエン有り難うね、此のバスを教えて呉れて。」
「…。」
バスはもう繁華街を抜け、住宅街と商店街から成る世田谷の街並みを、渋滞の遅れを取り戻すかのように軽快に走っていた。
「ほら、どのお店にも、ちっちゃなツリーだよ。」
ソウシは車窓から見える儘に、僕に教えて呉れた。やがて商店街も途切れ、住宅街の暗い中をバスが進み始めた頃、僕の肩に回した手でトントンとゆっくりと拍子をとりながら、彼女は静かにホワイトクリスマスを歌い始めた。
バスの中は二人だけだった。
深沢の街を抜けて等々力駅へと坂を下り、等々力の町名が停留所の名前となり、終点が近付いてきた。
優しい声でゆっくりと歌い終わり、最後の信号でバスが停まった。
「メリー・クリスマス、今年はよく頑張ったね。」
そう囁くと、僕の右頬にそっと軽くキスをして呉れた。
等々力駅。彼女は、普段より一層元気な笑顔で手を振って、飲みかけの缶を握り締めた儘の僕を送り出した。
其の夜はもう帰った時間が遅かったので電話での逢瀬はなかった。
それよりも、僕は彼女が具合悪くなっていないかが心配だった。
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