秋 お堀端へ 二人の季節が一緒の日
【ここまでの粗筋】
天然系な主人公「駿河轟」は大学一浪中の身。
充実していた筈の学生生活も自身の受験失敗等諸々で全てはご破算に。
今は、同窓の浪人女子「ソウシ」と手をつなぐ仲から、「お互いをよく知ろう」という段階に。
心理的に少しは安定したものの、受験の準備に功を奏するのか否か。。
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其の日を境に僕等の帰りは、神保町~お堀端を漫ろ歩き、東京駅~東98系統がお決まりになった。
バスは便利だ。中で缶ジュースも紙パック飲料も飲める(すなわち《お茶》も出来る)し、景色も変わる。話も出来れば、疲れたら寝ることだって出来る。何より下車するのが終点だから乗り過ごしの心配だってない。
バスに乗るようになった代わりに、食事の後の《お茶》は無くなった。喫茶店でもランチだけで済ませて、直ぐに席を立った。話の種は尽きなかった。目に見えるもの、聞こえるもの、昨日考えたこと、今感じたこと、全てが話す契機になった。心が向き合えばいつでも話を始めることができた。
秋を迎えて、同窓会の委員会では浪人生に声は掛からないようになった。
これで余計な心配もしなくて済むようになった。幾度有ったか分からないが、そういう余計な心配の結果が委員会の中で何様な風に話されているか、其様なこともどうでも良いことだった。
淡々と受験の準備を何巡も繰り返し、昼には坂を下り、彼女と出会い、昼食をとり、一緒に帰る。それが日常になっていた。
* * *
秋も深まって、どうかすると風も涼しさから冷たさへと変わろうとする頃になった。
珍しく風もなく、穏やかな日、僕は誕生日を迎えた。研数を出て、歩きながらソウシが言った。
「お誕生日おめでと。今日はね、良ければボートに乗って良いかな?」
普段は直進する神保町の交差点を右に曲がり、俎橋を渡る。九段下から九段坂、右に大きな靖国神社の鳥居を、左に昔、灯台だった大灯籠を眺めながら千鳥ヶ淵へとやって来た。
「春は桜が綺麗に咲いていたっていうのに、今は寂しくなってきたね。」
ソウシは、深まる秋を確かめるように桜の幹が連なる中、僕を誘った。サンドイッチを買ってお堀端のベンチで食べ、いざ、ボートに乗った。
「ボートなんか、何年ぶりかな。」
一高時代は、授業をさぼって偶に近くの池でボートに乗って浮かんでいたけれど、それ以来だった。
「女の子とボートに乗ったこと、ある?」
「中学校の時に、何人かで、かな。」
高校と中学校の距離は比較的近かったので、乗ったボートは同じ池だった。ベーデ、コーコ、イチの三人と二人ずつに分かれて漕ぎ出した覚えがある。
「ソウシは?」
「私は小さい時に父と以外では初めて…、だから、鳥渡怖い、かな…。」
「ハハ、自分で誘っておいて、臆病言ってらぁ。」
「ほんと、揺らさないでね!」
グウンッと押し出されて、ボートが水面に滑り出した。緑の水をオールが切る音が静かに響く。首都高速が地下に潜るところから車の音が大きく聞こえてきた。反対側には背の高い武道館が少しだけ見えた。
「ねぇ、
彼女は、暫く彼方此方を見回してから、日の当たっている草の生えた江戸城の石垣が、やや低めになっている方向を指差した。
「ん。」
ゆっくりとオールを回して、其方へ近付いていく。
歩道からも、高速道路からも離れた石垣の傍では、車の音も微かにしか聞こえてこなかった。皇居北の丸の木立から、練習する大学運動部の声に混じって、草むらの中で今が盛りと許りに秋の虫が鳴き始めていた。
「うん、良いや、此処で停まろう。…鳥渡膝閉じて。」
彼女は僕の膝を軽く叩いて言うと、ポケットからハンカチを出し、僕の膝に敷いた。
「ヨッコイショ…。」
其の儘自分の鞄を背中に敷布団がわりにして、ボートの上に仰向けになった。
「ほら、もう、空が
天空を指さして、気持ち良さそうに言う。
顔を上げて空を眺めた。広い天空の周囲が淡青に、中心ではより濃い青に染まっている。雲一つ無い、見事な秋晴れだった。
「そうだね…。」
静かだった。時折すぎる風が草を揺らす音の他は、虫の音が綺麗に澄んでいた。
「間に合って良かった…。」
「何が?」
オールをゆっくりと止めて尋ねた。
「いつの間にかギエンの季節から、私の季節にゆっくりと変わろうとしてるんだ…。」
彼女は空を見上げた儘、独り言のように呟いた。
「二人の季節が一緒の日に、此処に来られて良かった…」
そう言うと目を閉じて深く息を吸い込み、そしてもっとゆっくり吐息を風に揺らしていた。
「ギエン?」
「ん?」
「ゴンドラの唄、知ってる?」
「知ってるよ。」
「唄って…。」
命短し恋せよ乙女 紅き唇褪せぬ間に
熱き血潮の冷えぬ間に 明日の月日の無いものを
唄いながら、僕はオールから手を離し、そっと彼女の手を握った。
命短し恋せよ乙女 いざ手をとりて彼の舟に
いざ燃ゆる頬を君が頬に ここには誰も来ぬものを
彼女は目を瞑った儘、其の手を自分の頬にそっと当てた。
風に吹かれて少し冷たい頬の感触が、オールを握って熱くなっていた僕の手に伝わってきた。
命短し恋せよ乙女 波に漂ふ舟のように
君が柔手を我が肩に ここには人目無いものを
風に靡く髪の毛を、もう片方の手でそっと撫でると、彼女は其方の手もそっと握り返してきた。
命短し恋せよ乙女 黒髪の色褪せぬ間に
心の炎消えぬ間に 今日は再び来ぬものを
二人の手の温もりが丁度同じになる頃、歌も終わりを迎えた。
ボートの上に再び静寂が訪れた。
「ギエンの手は常時温かいね。」
「そうかい?」
「…これから私の季節になっても、私の手を温めて呉れる?」
「お望みとあれば。」
「ん、有り難う。ギエンのお誕生日なのに、私がプレゼント貰っちゃったね。」
目をつぶった
起き上がった彼女は、僕の方に向き直り、風に揺らぐ髪をさらりと撫でながら気持ち良さそうに、たゆたうボートに身を任せていた。手をとって岸に上がった僕等は、再び喧噪の九段坂を下り、其の日は神保町で分かれた。
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