秋 秋のはじまり (2)随分惚れ込んだねぇ

【ここまでの粗筋】

 天然系な主人公「駿河轟」は大学一浪中の身。

 充実していた筈の学生生活も自身の受験失敗等諸々で全てはご破算に。

 同窓の浪人女子「ソウシ」とは、ふとしたきっかけで手をつなぐ仲から、「お互いをよく知ろう」という段階に。

 これが受験の準備に功を奏するのか否か。。

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 店の中では、明日に架ける橋が流れていた。

 彼女は問われるでもなく語り始めた。


「あのね、今までの人生、といっても十八年そこそこだけど、其の中で、何度会っても会っても、其の度に違う面が見えて、違う深さがあって、分からない人がもう一人だけ居たの。」

「ふーん、誰?」

「中学校の先生でね。私のことをよく理解して呉れて、大好きだった。大学を出たら結婚するんだって思っていた。」

「それはまた、随分と惚れ込んだねぇ。」

「よくある話でしょ、でも、私にとって、好きな人は、私が知らない部分をずっと持っている人じゃないと駄目なの。」

「ふうん…。」

「よく、お互いのことを何でも知っていて、安心感のある人が好き、という人が居るけれど、私は其様なことは信じられない。それは自分を理解して呉れる安心感は代え難いことだけど、何でもかんでも見切ったら飽きちゃうというか、もう、そういう対象としては見られなくなっちゃうんだ。」

「ほー。」

「ギエンは、見ていて分からない。それだけじゃない。会う度に分からない程度が増していく。探っても探っても。」

「そうかい? 自分じゃあピンとこないけどな…。」

「良いの、私の問題だから。」


 アイス・ココアの氷をジャラジャラさせながら、すっかり脳天気になって了っている僕に、(一体どれだけ私が悩んだと思ってるの)とでも言いたげに、彼女は少し憤慨しているようだった。


「じゃ、今日は少し散歩してみようか。」

「良いねぇ、鳥渡涼しくなってきたし。」


 あめりかまるを出るとすっかり冷えきった指先で僕の左手を握ってきた。


「何処に行くの?」

「此処を真っ直ぐ行くと内堀に出る、其処から東京駅に行ってバスに乗ろう。」

「何処行き?」

「等々力駅行き、今の時間なら渋滞もないから四十分くらいで着くよ」

「良いねぇ。行こう!」


 浪人生であることをすっかり忘れて、遠足のような気分で歩き始める。

 あめりかまるを出て救世軍本営、学士会館の前を通り、一ツ橋、内堀へと出た。


「うわぁ、空が広いねぇ」


 一ツ橋の上にかかる首都高速の下を潜ると、目の前は皇居、宮内庁と東御苑の杜。頭の上を遮るものはもう何もない。

 まだ夏の暑さの残りのある太陽が午後の輝きで目の前の平川門の欄干を眩しく照らしていた。

 車はひっきりなしに通るけれど、午後の仕事時間がもう始まって一時間もした今は、お堀端を歩いている人は殆ど居なかった。

 堀の横をゆっくりと無言で歩いていると、水面を渡ってくる風が心地よく顔を撫でていった。


「♪♪」


 ソウシが珍しく鼻歌を唄い始め、やがてそれは小さな声になって僕の耳にも届いてきた。片側四車線の車の騒音の合間から聞こえて来るのは、ピーター・ポール&マリーの曲や、先刻あめりかまるで流れていた明日に架ける橋だった。

 まるで僕など横に居ないかのように、至極機嫌良さそうに口誦みながら、ゆっくりとお堀端の散歩を楽しんでいる。

 和気清麻呂像から大手門を過ぎ、パレスホテル。そして和田倉の噴水公園を左折すれば、趣のある東京銀行協会ビル前にある和田倉門。橋のたもとの石造りの屋根付きベンチまで来ると、


「鳥渡休もう」


 彼女の一言で、秋の長さになった陰の中にあるベンチに座った。


「四季を頭に巡らせたとき、ギエンは何様な光景が一番好き?」

「秋、かな。蜩の鳴く夕方から虫の音を楽しめる夜半。」

「私は冬。遮る雲さえない、真っ青な広くて高い無限の空が好き。」


 目の前の堀では水鳥がすーっと浮かび、時折何かの魚がはねる音がパシャンとしていた。信号が青の間は人の声さえかき消して了う車の音も、信号の変わり時は一瞬の静寂がもたらされた。


「秋はギエンが生まれた月、冬は私が生まれた月。生まれた時の季節を憶えているのかな」

「これから僕の生まれた季節になる。其の後、ソウシの生まれた季節が来るさ。」


 自分で此のことを言って、少し暗い気持ちになった。今、左手にある微かな温もりは、僕の生まれた季節を迎えることは出来ても、彼女の生まれた季節を迎えることは出来ない。最初からそういう決まりだからだ。彼女は、其のことを考えているだろうか。手の温もりは矢張り契約であって、心とは別のものなのだろうか。


「行こうか、バス、案内して。」


 そうこう思い悩んでいるうちに、彼女は僕を促した。

 皇居前広場の手前を東京駅の赤煉瓦駅舎の方向に曲がり、丸ビルの前を通り過ぎると、右手に東京中央郵便局があって、其の目の前に等々力駅前行きバスが待つ、東98系統の停留所があった。


「鳥渡した旅気分だね。」


 彼女は子供のようにはしゃぎながら、先に乗り、一番後ろの席まで行き左側へと身体を滑り込ませた。歩いている時とは反対の並び方に少し戸惑ったけれど、直ぐに左手を僕の右手にそっと差してきた。


「バスは矢っ張り一番後ろだよね」


 遠足のように先ず窓を開け、外を眺めている。


「さあ、何様な景色を見せて呉れるのかな」


 前扉が閉まり、ゴロゴロというエンジン音が特徴的な東急バスが走り始めた。

 昼下がりのバスの乗客は数人。殆どの人は途中乗車で途中下車。最初から最後まで乗る人間など居ない。僕らは車窓から見えるアレコレを話しながら、小さなバスの旅を楽しんだ。途中、慶應義塾、明治学院とお洒落な大学の前を通る。


「ソウシは、格好では慶応や明治学院に近いんじゃないの? でも早稲田の方が好きなんだね。」

「これは今時の女の子の制服みたいなもんだよ。女はね、男みたいに簡単な世界じゃないの。自分の好きな服を好きなように着ていれば済むなんていう単純な世界じゃないんだよ。研数を見れば分かるでしょ。」

「フーン。えらい難しいんだな。」


《女は男みたいに簡単な世界じゃない》。其の言葉に、高校時代にベーデが時折見せていた悩ましげな表情を思い出した。


「それでも一高は楽な方だと思うよ、あまり女子同士での裏の駆け引きっていうのはないから。」

「そう?」

「そうだね。明治学院、青山学院、それこそ女子大なんかに進学してご覧なさいよ。私なんか洋服のことで三日で胃に穴が空くね。」

「じゃあ、制服ってのは、有り難いものだったんだねぇ。」

「少なくとも、衣服に関しての悩みは半減以下になってたよ。ギエンなんかは応援部だから制服には別の意味での愛着があるんでしょう。」

「そうだなぁ、今でも持っているし、偶に出して見たりする、それが全て、とまではいかなくても、半分以上の思い出が詰まっている気がする。」

「私もまだ持ってるよ」

「じゃあ、今度、現役も一緒になる全国模試の時に着て来る?」


 僕は半分以上冗談でもちかけてみた。


「良いよ、久しぶりにそういうのも。」


 思いがけなくすんなりと応じて呉れた。

 高校時代の彼女を殆どといって見たことがない僕は、何か心の底で自分の知らない彼女の一高こうこう時代を自分の内に取り込み度い、失われた時間を取り返し度いと願っていたのだと思う。

 バスは東急線の跨線橋の前で目黒通りを逸れ、終点の等々力駅に着こうとしていた。僕らは島型のホームの夫々反対方向の電車に乗って家路についた。

 大きな落ち着きをもたらした一日は、少しの楽しみを先につなげて、終わろうとしていた。

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